夢話・魔王アリス
※いわゆるIFストーリーなので本編と直接の関係はありません。
『もしも魔王が来なかったら?』という話。全体的に重くて暗いです。
……夢を見ていた。
夢の残滓は微睡みに溶け、もう覚えてはいないけれど、とても心地の良い温かな夢だったことだけは不思議と覚えている。
どうやら、玉座に腰掛けたまま眠っていたようだ。平時であれば睡眠の要らぬ身体ではあるけれど、連日の準備のせいで思った以上に疲労が蓄積していたらしい。
久しぶりに睡眠をとったせいか体調は悪くない。これならば詠唱も問題なく行えるだろう。
「アリス様、お時間です」
ちょうど部下が私を呼びに来たようだ。
術式には星や月の巡りも影響する為、遅れるわけにはいかない。これから間もなく詠唱を開始し、数時間後には長年この日の為に準備してきた儀式が完了する。
十万の軍勢を人間界へと送る為の侵略術式。
一人や二人ならいざ知らず、これだけの軍勢を転移させるとなると私にとっても生半な事ではない。だが、これに失敗すればどのみち魔界に未来はないのだ。
現時点で仮にも纏まっているのが既に奇跡のようなもの。もしも失敗すれば不満を抑えることは不可能、十万の軍勢は瞬時に同数の暴徒へと変わるだろう。限られた物資を巡って味方同士で殺し合うであろう事は想像に難くない。その先にあるのは魔界の滅亡だ。
その重責を思うと、緊張で手が震え、心臓が口から飛び出しそうだ。全てを投げ出してここから逃げ出し、思い切り泣き喚く事ができればどんなに楽だろう。
だが、やると決めた。決めたのだ。
数時間後、私は予定通りに詠唱を終え、世界には穴が穿たれた。
詠唱が終わる間際、ふと気になって空を見上げたが……天から黒衣の勇者が降ってくるような事などある筈もなく……この日、計画通りに人間界への侵略は開始された。
◆◆◆
計画の当初は順調だった。
永く平和が続いていた人間界の兵は弱兵揃いで、死に物狂いで襲い来る魔族の兵に碌に抗う事もできずにいるようだ。稀に突出した能力を持つ達人もいるが、私が出るまでもなく四人の軍団長達が始末している。
開戦直後に大きな都市を幾つか落とせたのも幸運だった。都市を囲む城壁は今や我らを守る盾となり、人間達の反撃を防いでいる。
「このまま全てが終わればいいのだけれど」
そう上手く運ぶ筈もない。
勇者が出てくれば今の戦況は一瞬にして覆される。
勇者。人界の守護者。我らにとっての殺戮者。
かつて四百年程前、先代の魔王が人間界に攻め入った際の勇者は、僅か一晩で万を超える魔族の兵を屠ったという。部下達は知らぬ事だが、此度の侵略は最初から勇者が現れる事を前提にしている。部下の大半や私自身が討たれる事まで含めてだ。
悲観的だとは思わない。
アレは、勇者とは、人の形をした『死』そのものなのだから。
焼き払った街跡を歩いていると、逃げ遅れたであろう人間の子供の亡骸を見つけた。まだ幼い子供はその手に薄汚れた人形を抱いたまま炎に巻かれて死んだようだ。この子供はその死の間際に何を想ったのだろうか。
冥福を祈ろうかとも思ったが、少し迷って止めた。この私に許しを乞う資格などある筈もない。せめて私が精々苦しんでから地獄に堕ちれば少しは溜飲も下がるだろうか。
◆◆◆
恐れていた事態が、そして予想していた事が起こった。
軍団長の一人が率いていた二万もの兵が殺されたのだ。新たな拠点を得る為にとある小国を攻めていたのだが、陥落寸前という所で突如現れた戦士により我が軍は一瞬で壊走したらしい。
勇者、とうとう来たか。
分かっていた事とはいえ、こうしてその力の一端を目の当たりにすると震えそうになる。
勇者が現れた以上、劣勢だった人間界の国々も息を吹き返すだろう。依然、数で劣る我らが一度守勢に回れば立て直す事は至難。まだ余力のある内に全ての戦力を結集し、総力戦に勝機を見出す他はない。
◆◆◆
とうとう軍団長の最後の一人が敗れた。
鋼鉄の巨躯を誇り、山をも動かす豪傑。
魔を支配し、海すらも干上がらせる魔女。
大気を自在に操り、天空を統べる智将。
天も地も人も、全てを焼き尽くす赤き炎。
いずれも一騎当千、私もその力を認める強者達だったが、悉く勇者に討たれた。最初に勇者に遭遇した一人はともかく、次戦においては各個撃破を避ける為に残った三人で共闘したのだが、それでもなお勇者には届かなかったようだ。
そして今、勇者が私の目の前にいる。
外見だけならば可憐な少女のようだが、あまりにも凄惨な戦場を見続け、あまりにも多くの命を奪ってきた為だろう。その瞳からは生来の明るさはもはや喪われ、全ての元凶である魔王への憎悪と殺意に濁っている。
血に塗れた聖剣の切っ先を私に向ける彼女を見て……何故か、憎しみや恐れではなく酷く悲しい気持ちになったけれど……もはやお互いに語る言葉などある筈もなく、私達は、魔王アリスと黒髪の勇者は殺し合いを開始した。
◆◆◆
一体、幾日戦い続けただろう。
時間感覚などとうに無くなり、致命の一撃をどうにか避けながら死に物狂いで反撃していたが、どうやら決着がついたようだ。
私の魔力は底を尽き、衣服はかろうじて襤褸を纏っているような有様だ。ついでに言えば両腕も切り飛ばされてその辺りに転がっている。
勇者の方も無傷ではない。鎧には大小無数の皹が入っているし、左腕は捻じれるように折れて骨が飛び出し、あらぬ方向に曲がっている。綺麗だった黒髪も焼け焦げてしまい見る影もない。
まあ、善戦した方だろう。
最初から勝てるとは思っていなかったし、死ぬ覚悟はあったつもりだったけれど、こうして敗北を目の当たりにすると少しだけ悔しい。
身体の内側も外側もぼろぼろで、私は多分もう放っておいても死ぬだろう。
けれど、どうやら勇者は確実に私を仕留めるつもりらしい。左腕は動かないので残った右手で剣を構え、私の心臓へと正確に刃を突き込んできた。
聖剣の冷たい刃が心臓を二つに割るのを感じ、そして、私の意識は永遠に喪われた。
◆◆◆
「…………ぁっ!?」
私は自室のベッドの上で跳ね起きました。
場所は見慣れた私の部屋。
寝る前と何も変わったところはありません。
どうやら夢を見ていたようです。
夢の内容はおぼろげで、もうほとんど忘れてしまっているけれど、とても悲しくて寂しい夢だったことだけは覚えています。
微かな違和感を覚えて顔に手をやれば目元に湿り気を感じました。どうやら眠ったまま泣いていたようです。
まだ時刻は深夜。
ですが、こんな心細い気分ではもう眠れそうにありません。
「魔王さま……会いたいです……」
夜明けまでのわずか数時間が、まるで永遠のように思えました。
悪夢は幸運の兆しともいうそうなので、アリスには近々良い事が起こるかもしれません。