迷宮都市の人々①
人、ひと、ヒト。
前後左右どちらを見ても大勢の人々が視界を埋め尽くしています。
耳を澄ませば大工が金槌を振るうトンテンカンという音、客引きの威勢のいい呼び声、迷子の子供の泣き声など、ありとあらゆる音の波が押し寄せてきます。
都市の中心に通じる大通りには数え切れないほどの屋台が並び、道を歩く人々は屋台で買った食べ物や飲み物を片手に辺りを歩き回っています。
串焼きを売る屋台からは食欲を誘う匂いが漂い、まるで誘蛾灯におびき寄せられる虫のように大勢が集まっていますし、果物のジュースを売る屋台にはお小遣いを握り締めた子供たちが殺到しています。
広場では何人もの大道芸人や吟遊詩人が、それぞれの芸を披露しては見物客から喝采を浴びています。一番人気はなんといっても吟遊詩人が唄う黒髪の勇者の英雄譚。
山盛りの美辞麗句と過剰なまでの脚色が入った英雄譚は、もし勇者本人が聞いたら顔を真っ赤にして逃げ出すこと間違いなしのシロモノです。
この街では現在どこに行っても同じような光景が見られます。
まるで大きな祭りのような活気ですが、そういうわけではありません。今のこの街ではこれがごく普通の日常の光景なのです。
ここは迷宮都市。
人間界と魔界、二つの世界を繋ぐ、世界で一番新しい街です。
◆◆◆
迷宮都市というのは正式な街の名ではありません。
その呼び名の由来は、とある迷宮が街の基礎になっているからとも、『ダンジョン屋』なる奇奇怪怪な施設があるからとも、また都市自体が迷宮のように入り組んでいるからとも言われますが真相は不明。
誰が呼び始めたのかは不明ですが、いつの間にかその呼び名が定着し、人々からそう呼ばれるようになっていました。
迷宮都市の中心部には、街の中でも一際大きな建物が並ぶ区画があります。人間界の国々がこの都市に作った大使館が並ぶ、通称『大使館街』です。
どこの国でも、大使として選ばれるような人物は相応に高い身分を持つことが多いためか、貴族やその使用人、出入りの商人などがひっきりなしに行き交う、街の中でも一番景気の良い場所でもあります。
ある天気の良い日の午後の事です。
魔王が手土産を片手に大使館街を訪れました。つい先日、この都市に大使として赴任してきた友人に挨拶をしにきたのです。
魔王は今では魔界のみならず、この迷宮都市の最高権力者でもある重要人物ですが、事前に来訪の連絡をしてあったおかげでスムーズに応接室へと通されました。その部屋には魔王のよく知る人物、雪のように真っ白な髪の、神秘的な雰囲気を湛えた少女が待っていました。
「魔王さま、ご無沙汰しておりますわ」
「こちらこそお久しぶりです、神子さん。これ、お土産のバウムクーヘンです」
「まあ、お菓子ですか! ありがとうございます」
魔王がお土産として持参したバウムクーヘンを渡すと、神子は満面の笑みを浮かべて喜びました。一本まるごと、焼き上げた状態のまま切らずに持ってきたバウムクーヘンは一メートル近くの長さがあり、お菓子だと知らなければ丸太と間違えてしまうかもしれません。
輪切りにすると焼き目の層が年輪みたいに見えますし、そもそもバウムクーヘンとは『木のケーキ』という意味の名前なのでそれもある意味間違ってはいませんが。
お茶を淹れると、テーブルに載ったバウムクーヘンを各自がナイフで解体して食べながらお茶を飲むという奇妙な形式のお茶会が始まりました。
「ふふ、美味しいです、甘くて、ふかふかで……。こんなに美味しいのは久しぶりです」
「久しぶり?」
「神殿のお食事は、栄養だけはあるんですが、全体的に素材の味を活かしすぎた素朴なお味なもので……あまり食が進まなかったのです、以前はあまり気にならなかったのですが。まったくもう、これというのも魔王さまたちのお料理で舌が肥えてしまったせいですわ!」
「あはは、それは悪い事をしてしまいました。お詫びといってはなんですが、たくさん食べて下さいね」
「はい、それでは許してさしあげましょう、うふふ」
神子が冗談めかして怒ると、魔王はわざと大仰に許しを乞いました。そんな和やかな会話がスパイスになったのか、バウムクーヘンのサイズは見る見る間に減っていきます。
「でも、よく王都を離れる許可が下りましたね?」
お茶を飲んで一息入れた魔王が、神子にそう質問しました。
神子の所属している国は、神子の神託により天災や疫病の発生を事前に知り被害を抑えたり、逆に交易品の相場を予知して貿易で利益を上げたりしているのです。
当然、彼女の存在は最重要の国家機密として秘匿されていました。他国による誘拐や暗殺の恐れがあった為です。しかし、それも今となっては過去の話。
「女神さまが仰るには、信仰が増えたので予知や千里眼の精度と範囲が大幅に強化されたとか。王都の方々にはお手紙で予知をお知らせすれば問題ありませんし、そもそも王都の神殿にいるよりもこの街にいた方が安全ですから。それに……」
神子は切り分けたバウムクーヘンを上品な所作で口に運び、にっこりと花が咲くような笑みを浮かべながら言いました。
「この街にいると美味しい物が食べられそうですから。ワタクシ、国王陛下に一生懸命お願いしましたの」
それから二人はお茶を飲みながら、互いの近況や迷宮都市での生活の話、お気に入りの屋台の話などのとりとめのない会話を楽しみました。
「あら、もうこんな時間ですか」
「おっと、すっかり話し込んじゃいましたね」
楽しい時間は過ぎるのが早いものです。
窓の外を見るといつしか日が傾いて薄暗くなっていました。テーブルの上にあったバウムクーヘンはとうの昔に消滅しています。
「じゃあ、そろそろ帰りますね。今度はお店の方にも来てください」
「はい、是非参りますとも。では、ごきげんよう魔王さま。アリスさまにもよろしくお伝えくださいな」
別れの挨拶を交わすと魔王は帰途へ就きました。
「相変わらずいい食べっぷりだったなあ、今度来るときは何を持っていこう?」
◆◆◆
「ねえアリス……もしかして怒ってる?」
「……怒ってません」
その日の夜、魔王は珍しく不機嫌な様子のアリスに戸惑っていました。アリスは口では怒っていないと言うものの、頬をプクッと膨らませて視線を横に逸らしています。誰が見ても怒っているのは明らかです。
魔王には、どうしてアリスが怒っているのか皆目見当がつきませんでした。つい先程まではいつものように和やかに話していたのに、魔王が一人で神子に会いに行った話をすると突然こうなってしまったのです。
ちなみにこの日、アリスは朝から一日中溜まった書類仕事を片付けるために自室にこもっていました。それを知っていた魔王は邪魔をしないよう気を遣ったつもりで、外出の際にアリスを誘わなかったのです。
アリスからすれば、想い人が自分に黙って別の女性(しかも美人)に会いに行って楽しく過ごした話を聞かされたのです。当然面白くはありません。ですが、そもそも魔王とアリスは現状単なる上司と部下で、そのことを非難できる立場にはありません。
その感情が正当性のない理不尽なものだとアリス自身も自覚しているので魔王を直接非難する事こそありませんでしたが、嫉妬の感情が抑えきれず表情に表れてしまったのです。
「わかった! アリスもバウムクーヘン食べたかったんだね」
「ちがいます!」
果たして、魔王がその複雑怪奇なる乙女心を理解できる日が来るのかどうか。少なくとも、その日はまだまだ当分先になりそうです。