番外編・魔王の隠し子騒動(後編)
前後編の後編です。
翌朝、アリスは自室のベッドの上で目を覚ましました。
「……ふぁ、朝? あら、なんで服が?」
全身に残る鉛のような気怠さのせいか、どうも思考がはっきりしません。ベッドで寝ていたというのに服装は寝間着ではなく仕事着のままで、あちこちがシワになっています。
「……なんだか、嫌な夢を見ていたような?」
倦怠感のせいか頭が回らず昨夜からの記憶が曖昧ですが、恐らくは疲れて着替えないままベッドに入り込んだものの夢見が悪くてうなされてしまい、疲労がちゃんと抜けなかったのだろう……と、アリスは現状を分析。
本来、生きるための睡眠が必須ではない種類の魔族としてはかなり珍しい事ですが、時にはそういうこともなくはないだろう、と。やや強引ではありますが、そんな風な理屈で自分を納得させました。
というよりも、この時点では記憶が曖昧なままであっても「昨夜の事を思い出してはいけない」と本能的に分かっていて、無意識のうちに自分を誤魔化そうとしたのかもしれません。
アリスは重い身体を起こすと、ひとまずシワだらけの仕事着から着替えて、目を覚ますために顔を洗おうと思い自室のドアを開けて……。
「あ! おとうさん、あいすおねえちゃんおきたよ!」
……という、銀髪の女の子の声を聞いて、ようやく昨夜の出来事を一発で思い出しました。正直、思い出した瞬間のショックで再び気絶しそうになりましたが、それは辛うじて我慢。
「……思い出しました」
昨夜、この女の子が店に迷い込んできて、そして魔王を「おとうさん」と呼んだのです。
「どういうことか魔王さまに聞かないと。でも……」
事の真偽を確認するのは簡単です。魔王に心当たりがあるのかどうか聞けば、彼は偽りなく答えてくれるでしょう。でも、もしも、仮に、万に一つの可能性として、魔王がどこかで自分以外の女と子供を作るような深い仲になっていたとしたら……?
アリスは魔王への好意を自覚してからのこの何十年かで初めて、今だけは彼に会いたくないと思いました。魔王の事を信じたい、その心には一切の偽りはありません。今も心の中のほとんどの部分では魔王のことを信頼しています。でも、白いシーツに一滴だけインクを落としたかのような僅かな不安が、どうしても拭えないのです。
アリスは、魔王を信じきれずにそんな不安を抱いてしまう自分の心の弱さが嫌でどこかに逃げ出したくなり、しかし自分自身の心から逃げ出せるわけがないということも分かっていて、思わずその場にしゃがみこんでしまいました。
……私はいつからこんなに弱くなってしまったんだろう。
まだアリスが魔王だった頃ならば、生き死にが関係するわけでもない事柄にこんな不安は決して抱かなかったでしょう。愛情というものを知らなかった頃の魔王アリスが、こんなことで悩んでいる今のアリスを見たら、その変化を堕落と断じて他ならぬ自分自身を軽蔑するかもしれません。
アリスが魔王と出会ってから一緒に過ごす日々の中で、いつのまにか彼への敵意が戸惑いに変わり、戸惑いが興味になり、興味が尊敬へ、そしていつしか愛情へと変わっていきました。
その変化は本当に自然なもので、自分の中の未知の感情に最初は戸惑いもしたけれど、でもそれを手放そうとはただの一度も思いませんでした。
胸の中に生まれた愛情は自分を弱くしたのかもしれないけれど、それでいいとアリスは思っていました。それ以上に愛する人の隣にいられる日々が幸せだったのです。
ただ、隣に居られるだけで幸せでした。
それ以上の関係を望んでいなかったわけではないけれども、でも今の生活がまるで夢のように幸せなせいか、あまりに多くを望めば幸せな夢が泡沫の如くに覚めてしまうようにも思えてしまったのです。ただそれでも、彼の隣に居られるという幸福がいつまでも続くということに何の疑問も持たずに無邪気に信じていたのです。
人と人との関係は永遠ではない。
理由があって離別したり、好きな相手を憎むようになったり、あるいは今好きな相手とは別の人物を好きになったり、そんなのは実にありふれた何処にでもある話です。自分だけは例外だなんて虫のいい話があるはずもないのに。
もしも、魔王の隣にいるのが自分ではなかったら?
そんな光景を目にすることがあったら、自分は怒り狂うだろうか?
それともみっともなく泣きわめくだろうか?
アリスには自分の心が自分のものではなくなってしまったかのように、何もかも分かりません。
アリスは、愛というものが甘いだけではないのだと初めて知りました。
むしろ愛情が深ければ深いほど、甘ければ甘いほどにそれを失った時の苦さを増す諸刃の剣なのだと、今初めて理解したのです。
「あいすおねえちゃん、おなかいたいの?」
ふと、声をかけられた事に気付いて、アリスは顔を上げました。
しゃがみこんだまま苦しそうな顔をして黙っているアリスを見て、女の子が心配して声をかけてきたのです。
「……大丈夫です」
「でも、おねえちゃんないてるよ?」
いつの間にか、アリスは自分でも気付かぬうちに涙を流していたようです。
指摘されてようやく頬が濡れているのを感じました。
そんな風に泣いているアリスを心配そうにじっと見つめている女の子でしたが、アリスの悲しそうな雰囲気につられたのか「うぇぇ……」と泣き出してしまいました。
「おねえちゃん、ないちゃやだ……!」
こんな小さな子供に心配させてしまった我が身を、アリスは一層情けなく感じましたが、女の子が自分の事を心配して泣いているのを見て、ほんの少しだけ冷静になれました。
「……心配させてしまいましたね、ごめんなさい。でも他人の為に泣けるあなたはとても優しい、強い子だと思いますよ」
少なくとも、自分がどう思うかしか考えてなかった私なんかよりもずっと強い。
アリスは泣いている女の子の身体を優しく抱きしめました。女の子が安心するように優しく背中を撫でながら「もう、大丈夫」と何度も何度も女の子に、それから自分に言い聞かせるように繰り返し呟きます。
何分くらいそうしていたでしょうか?
女の子は泣き疲れたのかそのまま眠ってしまい、そしていつの間にかアリスの涙は止まっていました。アリスは眠っている女の子を起こさないように、自室のベッドの上にそっと寝かせ、それから涙の跡を消すために顔を洗い、それから事の真偽を確認する為に魔王の下へと向かいました。
「魔王さま」
アリスは店の外にいた魔王に声をかけました。
こうしている今も、悪い想像が頭をよぎり心が挫けそうになります。
「あの女の子のことなのですが……」
今からでも問い質すのをやめて逃げ出したい衝動にかられますが、心の中で女の子を抱きしめた時の温もりを思い出し、その温かさに励まされるように何とか言葉を続けました。
「あの子が、魔王さまの子供というのは本当なのですか?」
言ってしまった。
これで真偽がはっきりしてしまう。
魔王が言葉を返すまでの僅か数秒の時間が永遠のように長く感じられます。
そして、魔王が口を開きました。
「うん、まあ子供……みたいなものかな?」
アリスは肯定とも取れる言葉に一瞬悲嘆が脳裏をかすめましたが、「みたいなもの」という言い方に違和感を覚えて、また泣きそうになるのを堪えました。
「……子供みたいなもの、ですか?」
「そうだね、口で説明するよりも見てもらったほうが早いかも」
魔王はそういうと店を出て迷宮の壁の、何の変哲もない岩肌に見える部分に手のひらを当てて、そのまま奥へと押し込みました。
「……隠し扉。こんなものがあったのですか」
魔王が趣味や気紛れや思いつきで色んな物を作ったり、既存の物に手を加えているのはよく見る光景でしたが、アリスは店のすぐ目の前に隠し扉があることなど今までまるで知りませんでした。
魔王はその隠し扉の中へと入り込み、アリスもその後に続きます。
暗い通路を百メートルほど進むと、その先には広い部屋が。
部屋の中には沢山の水槽が並んでいました。
水槽といっても一つ一つがかなり大きめで、大人がすっぽり入れる棺桶くらいのサイズです。その水槽には中の生き物に酸素や栄養を供給するためだと思われる管が何本も繋がっています。しかし水槽とは言っても、そこに入っていたのは、決して魚などではありません。
その半透明の水槽の中には、人の形をした生き物が眠るように横たわっていました。
「これは……人間?」
「人造生命だよ」
アリスが無意識に発した問いに魔王が答えました。
「これから色々と忙しくなりそうだから人手が欲しくてね。それにホムンクルスって作り方は知っててもまだ作ったことがなかったから、一度作ってみたかったんだ」
「では、あの女の子も?」
「うん、何かの拍子に育ちきる前に目覚めちゃったみたいで。ほら、そこの調整槽だけ蓋が開いて空になってるでしょ」
見れば水槽の中に、魔王曰く調整槽とやらの中に一つだけ空になっている物がありました。
「それで目が覚めたはいいけれど、僕の姿が見えないから隠し扉を出て探しに来たみたいなんだ」
ちなみに後でアリスが魔王から聞いた話ですが、このホムンクルス達には生まれつき生きていくのに必要な知識が付与されているそうで。だから、あの女の子も魔王が作り主、つまり親だと最初から知っていたのだとか。彼女達の主な原材料は魔王の血液なので、血を分けた子供というのも決してウソではありません。
ただ、あの女の子に関しては成長途中の状態で目覚めてしまったせいか、未だ知識の付与が不十分。精神面も見たままの幼児のような未成熟の状態だったようです。
そのため目覚めたはいいもののどう行動すればいいのかが分からず、不安からか本能的に親の存在を、つまり作り主である魔王を求めてこの部屋から外に探しに出て、隠し扉のすぐ近くにあった店に迷い込んだ……というのが、今回の一件の真相でした。
ちなみに女の子が着ていた服は、魔王が作業で汚れた時の着替えとしてこの部屋に置いておいたシャツ。どうやら幼児の精神でも裸が恥ずかしいという認識はあったようで、手近な所に置いてあったシャツをとりあえず着てみたのだとか。どうりでブカブカでサイズが合っていないはずでした。
アリスとしては、心配していたようなことがなくて一安心といったところですが、そのかわりに別の不安と疑問が頭をよぎりました。
「あの女の子は、これからどうするのですか?」
原因は不明ですが、どうやらあの女の子は本来の予定とは違い成長の途中で目覚めてしまったようです。そのせいであの子の身体や精神に悪影響などはないのだろうか……と、アリスが考えたのも無理からぬこと。
「特に問題はないと思うよ。調整槽の中に戻ってもう一週間か二週間くらい眠っていれば、最初の予定通りに身体も精神も完成するはずだから」
それを聞いたアリスは、自分でも意外なほどに強く安心感を得ました。先程のやり取りのせいか、随分とあの子に対して情が湧いてしまっているようです。
「では、そろそろ店に戻りましょうか。私の部屋に寝かせてきましたけれど、あの子が起きた時に一人きりでは可哀想ですから」
魔王とアリスの二人が隠し部屋を出て店に戻ると、丁度女の子が起きたところでした。小さく欠伸をしながら眠そうに目をこすっています。
「ふぁ……おなかすいた」
言われて気づきましたが、アリスも今日は起きてから色々あったせいでまだ何も口にしていません。まあ色々あったというよりも、実際には一人で勝手に悪い想像をして勝手に落ち込んでいただけの完全なる独り相撲でしたが。
悩み事が綺麗に解決したせいか、今は空腹感を強く感じています。
「それじゃあ丁度お昼時だし、僕が何か作るよ。食べたいものはある?」
魔王が何か作ろうかとリクエストを聞いてきましたが、
「あの魔王様。今日は私が作ってもいいですか?」
珍しいことにアリスがそう提案しました。
アリスは別段料理好きというわけではありませんが、魔王の手伝いができる程度の調理技術はあります。魔王としても別に断る理由もないので、彼女に任せることにしました。
アリスが厨房で調理をしている間、女の子は魔王がどこからか取り出したクレヨンと画用紙でお絵かきをして、魔王はその姿を楽しそうに眺めていました。
待っている間、女の子は楽しそうに絵を描いていましたが、しばらくして厨房の方から美味しそうな匂いが漂ってくると、空腹を思い出したのか落ち着かない様子でソワソワとした様子に。しばらくして、アリスが三人分の料理の載った盆を運んでくる頃には今にもヨダレをたらしそうなほどでした。
「どうぞ、親子丼です」
アリスが作ってきた料理は親子丼。
大人用の丼が二つと、女の子のための小さめの丼が一つ。
子供が食べる事を考慮して、味醂をやや多めに使った甘めの味付けにしてありました。とろりとした玉子がツヤツヤと輝いて一口大に切った鶏肉と絡み合い、その上には彩りとして鮮やかな緑の三つ葉が散らしてあります。
親とか子供とか、それ以外の様々な人間関係について考えさせられるきっかけになった今回の一件の締めとして、アリスはこの料理が相応しいと思ったのでした。
女の子の手がクレヨンで汚れていたのでおしぼりで綺麗に拭いてやり、三人揃っていただきますと言ってから食事が始まりました。
女の子はまだ箸を使えないのでスプーンを持って、一生懸命に親子丼を口に運びます。あまりに勢いよく食べているせいか、時折ノドに詰まらせそうになったり、米粒が頬に付いてしまったりもしましたが、その度に隣の席に座ったアリスが水を飲ませたり、口元を拭いたりと甲斐甲斐しく世話を焼いていました。その光景を他に見るものがいたら、まるで母親のようだと言ったことでしょう。
そんな忙しくも楽しい食事もやがては終わります。
「あいすおねえちゃん、ごちそうさま!」
「はい、お粗末様でした……それと」
今更でしたが、最初会った時にアイスを食べさせたせいでしょうか。
女の子はアリスの名前をアイスと混同してしまっているようです。
「ありす、おねえちゃん?」
「はい、私の名前はアリスですよ」
そこで、アリスはあることに気付きました。
「魔王さま、この子に名前はあるのですか?」
「いや、まだ考えてないけど」
名前が無くては何かと不便ですし、何か名前を付けてあげたいところです。何か良い案がないか考えながら何気なく辺りを見回すと、店の隅に置いてある小さな花瓶にコスモスの花が活けてあるのが目に付きました。
「この子の名前ですけれど、コスモスというのはどうでしょう?」
秋桜。
花言葉は少女の純真。
アリスとしては、その小さく可憐な花の名前がこの女の子にしっくりくるように感じたのです。
「わたしのなまえ、こすもす?」
「はい、あの花の名前です。どうでしょう?」
「うん! わたし、こすもす!」
「いいね。僕も可愛くて似合ってると思うよ」
こうして、満場一致で女の子の名前が決まりました。余談ですが、以後この流れを継いで、魔王の作ったホムンクルス達には植物の名前が付けられるようになったりするのですが、まあそれはさておき。
こうしてアリスの心配事も綺麗に片付き、食事や名付けなどの出来事も終わり、今回の一件も終わりを迎えようとしていました。
「それじゃあ、僕はコスモスを調整槽で眠らせてくるよ」
魔王はそう言うとコスモスの手を引いて店の外の隠し部屋へと向かいます。コスモス的にも特にそれが嫌なことではないようで、ダダをこねる事もなく素直についていきます。コスモス本人としては単に長めのお昼寝をするくらいの感覚なのだそうで。
「あい…ありすおねえちゃん、またね」
アリスがコスモスと次に会うのは恐らく数週間後、その頃にはもう今の幼児の姿ではなく身体も精神も成長した状態になっているはずです。その事にふと一抹の寂しさを覚えたアリスは、自分の髪に付けていた青いリボンを解いて……、
「このリボンはあなたにあげます。大切にしてくれたら嬉しいですね」
「うん! ありすおねえちゃん、ありがとう!」
コスモスの銀色の髪をリボンで結ってやりました。この姿のコスモスとはお別れでも、何か目に見える絆のような物が欲しかったのかもしれません。
しばらく後に、青いリボンで髪を結ったホムンクルスとアリスが再会してどうなったか、その話はまた別の機会に。
コスモスが魔王と一緒に隠し部屋に向かった後、アリスは一人で先程の食事の後片付けをしていました。
テーブルの上の食器をまとめていると、コスモスが座っていたイスの横にクレヨンや画用紙が置きっ放しになっているのを見つけました。食事に夢中になってそのまま忘れてしまったのでしょう。
裏返しになっていた画用紙を何気なくめくってみると、
「ふふ」
そこにはコスモスが左右の手で、魔王とアリスと手を繋いでいる絵が描いてありました。幼児のつたない画力ではありましたが、三人が笑って手をつないでいるその姿はまるで本当の家族のようで、アリスの目にはその絵はどんな名画よりも価値があるように思えました。
予定より長くなったから、三分割でもよかったかも。
書いてて思いましたけど、アリスはけっこう重い&面倒臭いタイプのヒロインのようです。
それを可愛いと感じるかどうかは人によりけりでしょうか。
(追記)活動報告に偽次回予告投稿しました。





