番外編・魔王の隠し子騒動(前編)
魔王が勇者と出会うより二、三か月ほど前のこと。
その事件は、何の変哲もない静かな夜に始まりました。
「おとうさん、どこ……?」
その日の最後のお客を見送ったアリスが店内の片付けをしていると、そんな台詞と共に小さな女の子がドアを開けて店の中に入ってきたのです。
見た感じまだ三歳かそこらくらいのとても小さな子です。
肩口まで伸びた綺麗な銀髪と、髪と同じ銀色の瞳が印象的。その体格に対して随分大きめの白い服を、恐らく大人物のシャツを着ていました。サイズがぶかぶかで合っていないせいか、裾の部分が地面にこすれて汚れてしまっています。
状況は分からないものの、小さな子供をそのまま放っておくわけにもいきません。アリスは女の子に声をかけてみました。
「お父さんとはぐれてしまったんですか?」
「おとうさん、いないの……」
台詞からすると迷子でしょうか?
ここが普通の街や村なら、近隣の住民や見回りの衛兵に尋ねるべき場面です。
しかし、この店はその特殊な立地から、街中にある一般的な建物とは大きく事情が異なります。このくらいの小さな子供が一人で来れるとは思えません。
恐らくは保護者と一緒にこの近くまで来たものの、なんらかの事情で親とはぐれてしまい、偶然この店に迷い込んだというところでしょうか。
だとすれば、今頃その親は必死にこの子を探しているはずです。大した手間でもありませんし、アリスはそれらしき人物を探してみることにしました。
目を閉じて精神を集中し付近の生物の気配を探ります。
まずは店の周辺から、迷宮内の各階層、迷宮の入り口周辺……と探ってみますが、魔物や野生動物以外の生き物の存在は感じられません。迷宮から数キロほど離れた見晴らしの良い高台に数人の人間がいましたが、魔力の質からするとこれは先ほどこの店から帰っていった冒険者達のようです。恐らく野営の準備でもしているのでしょう。
この女の子が一人で行動できる範囲から考えると、これ以上広範囲を探っても仕方がないように思えます。しかし、考えられる範囲内に”生きている”人間がいないとすると、もしかしたら既に事故か急病などで……という可能性も。
アリスのそんな不安が無意識のうちに表情に出ていたのでしょうか。
それを見た女の子は釣られて泣きそうになってしまいます。
「ああ、泣かないでください……!」
「うぇぇ……!」
かれこれ五百年も生きてはいますが、小さな子供をあやした経験などないアリスにとって、こういう時にどう行動するべきかまるで分かりません。
「……あ、そうだ! ちょっとだけ待っていてくださいね」
何かを思いついたアリスが急いで店の奥に入っていき、すぐにガラスの器の載った盆を持って戻ってきました。
「アイスクリームです。お腹が空いてはいないですか? 甘くて美味しいですよ」
「……あいす?」
アリスは「小さい子供には甘い物」といういつぞやの魔王の考えを思い出したのか、アイスクリームを食べさせて気を逸らすことにしました。
子供騙しの単純な作戦ではありますが、相手はまさにその子供。
上手く騙されてくれれば御の字のいったところです。
女の子はというと、アリスの目論見通りにアイスに興味を移した様子。
小さな匙を不器用に握り締めるように持って、口の周りをベタベタにしながらアイスクリームを食べ始めました。
「美味しいですか?」
「うん! あいす、すき!」
先程まで泣きそうだったのを忘れてしまったかのような良い笑顔。
ですが、アリスにはこの時間稼ぎが終わってからどうすべきかが分かりません。まさか二杯三杯とおかわりを重ねさせて延々時間を稼ぐわけにもいかないでしょう。
「やはり、魔王さまに相談すべきでしょうか……」
アリスとしては敬愛する魔王の手を些事で煩わせるような真似はなるべくしたくないのですが、場合が場合なだけに仕方がありません。それに魔王ならばアリスには思いもよらない、何かいい解決策を思いつくかもしれません。
「アリス、さっきはどうしたの? あれ、その女の子は……」
アリスが魔王に相談すべきかどうかを思案していると、ちょうどタイミングよく魔王が厨房から出てきました。アリスがつい先程女の子をなだめるためにアイスクリームを持ち出した際には、急いでいたせいで詳しく事情を説明するヒマがなかったのです。
「あ、魔王さま、先程は失礼しました。実はですね……」
アリスが魔王に現状の説明をしようとした、まさにその時。
女の子の口から衝撃的な言葉が飛び出しました。
「あ、おとうさんだ!」
「……え?」
女の子が魔王の姿を見て「おとうさん」と呼んだのです。
あまりの衝撃から精神を守るためでしょうか。
その台詞を聞いたアリスはしばらくの間、言葉の意味を理解することができませんでした。現実逃避、というよりは脳が思考自体を拒んでいるような感覚です。
……お父さん?
父親?
誰が?
誰の?
とはいえ、そんな状態も長続きはしてくれません。
それに少し落ち着いて考えてみれば、言っているのはやっと言葉を話せるようになったくらいの小さな子供。もしかしたら他人の空似や何かの勘違いかもしれません。
いえ、きっとそうに違いない。これは何かの間違いだと思ったアリスは、内心の混乱を押し殺しながら極力落ち着いた声音で女の子に質問をしてみました。
「あなたのお父さんはどんな人ですか?」
「このひと!」
ビシッという擬音が聞こえるくらい勢い良く、女の子は魔王のことを指差しました。一片の迷いもない即答です。指差された魔王も勢いに気圧されたのか、思わずのけぞっています。その表情には明らかな動揺の色が見て取れました。
まずアリスは女の子が伸ばした指先を見て、それから女の子の前で動揺している魔王を見て、それから五秒ほどかけて先程の言葉の意味をじっくりと咀嚼し……その段階で精神の負荷が許容量を超えたのか、その場で気絶してパタリと倒れてしまいました。





