かつての魔界にて
今回は料理ネタではありません
むかしむかし、あるところに。より具体的には魔王がレストランを始めるより、ざっと六十年くらい前の魔界であったお話です。
「今日のうちに目を通していただく書類はそれで最後ですね。魔王さま、お仕事お疲れさまでした」
「うん、アリスもお疲れさま」
この頃のアリスは(未来においても似たようなことはしているのですが)魔界の統治者である魔王の秘書的な仕事を主にしていました。
彼女自身が魔王だった頃とは統治の仕組みも少なからず違うとはいえ、それでもかつての経験が役に立つ場面も少なくありません。抜けたところの多い魔王にとっても欠かせない存在となっていました。後に料理人とウェイトレスとして働くようになる前からも、その点に関してはずっと変わりません。
「……あら、また?」
「あれ、まだ書類残ってた?」
「あ、いえ、そういうわけでは。それではお先に失礼しますね」
ですが、この時代のアリスには未来の彼女とは決定的な違いがありました。
「近頃、魔王さまと一緒にいると何故か動悸が激しくなるのです。これはもしや……不整脈? 健康に気を付けてはいるつもりですけど、いつの間にか疲れが溜まっているのでしょうか?」
そう、この頃のアリスはまだ自分の感情がどういう種類のものなのかを、まったく理解していなかったのです。お役所的な役割を担う施設である魔王城には医務室も設置されているのですが、前述のような内容の相談をアリスから受けた女医は「この先代、もしかしてアホなんじゃないの?」というような意味合いの言葉を飲み込むのに大層苦労したそうな。
さて、ところで話は変わりますが、アリスは今の魔王の前の先代であるわけです。もっと詳しく言うならば、強引な手段で王位を奪われた前王という立場になるわけです。
多くの社会や文化圏において、この手の元権力者の末路というのは大抵幸福なものにはなりません。王位を奪った側が自身の権威の正当性を示す道具として最低限の生活だけ世話をして飼い殺す程度なら相当マシなほう。前王の権威を貶めるために、その本人や近しい仲間や一族郎党に対して、言葉にするのが憚られるような酷いことを民衆の面前でするケースも決して少なくはないのです。
しかし、幸いアリスの場合はそうはなりませんでした。
単純に新たな権力者である魔王がそういうことが苦手、というか、そもそも思いつきすらしなかったという理由もありますが、魔王以外のかつての臣民からの敬意も増すことはあれど減ることはありませんでした。
このあたりの事情には魔界のとある文化性が関係しています。
実際に具体例を見てみたほうが分かりやすいでしょうか。
「おっ、先代様がいたぜ!」
「よし、急いで数集めろ!」
「あらあら、元気がいいですね」
この日、秘書仕事を終えたアリスが夕食前の散歩をしていると、獣人族の若者達が声をかけてきました。牛頭族に半馬族、虎人族など、総勢で十人以上。
どうやらまだ百歳になるかどうかという少年達のようですが体格はすでに大人顔負け。小柄なアリスと比べると、皆、優に二倍以上の身長がありそうです。
「すんません。今、時間いいっすか? いいですね?」
「ええ、いいですよ」
「よっしゃ、お前らやっちまえ!」
そんな彼らがアリスに殴りかかってきました。
老若男女、出自や身分に関わらず本音で(そして拳で)語り合う。
魔界ではごくありふれた心温まる光景です。
魔族と一口に言っても特徴は様々ですが、その中でも獣人族は全体的に体格や身体能力に優れている傾向があります。今、真っ先にアリスに殴りかかった牛頭族などは特に怪力で知られており、まともに拳が当たれば自身より大きなサイズの岩でも易々と砕けることでしょう。
「えい」
「ぎゃあ!」
残念ながら、岩どころか分厚い鉄板をも貫通するアリスの拳が相手では分が悪かったようですが。殴りかかった拳を拳で迎撃されて指がおかしな方向を向いています。
「とうっ」
「ぬわっ!」
そして一人目を無力化したのも束の間。
アリスは素早いフットワークを駆使して立ち回り、亜音速のローキックをくるぶしの辺りに次々蹴り込んでいます。蹴られた者達の足はドス黒く変色し、人の頭ほどにまで腫れ上がっていました。
「やあっ」
「ひぎぃ!」
残りの数名に対しては、抉り込むようなボディブローで次々と沈めていきました。体格差がありすぎてボディ狙いなのにアッパーカットのようなフォームになっていましたが、まあ要は当たればいいのです。
そんなこんなで全員片付けるまで一分弱ほど。
戦いを挑んだ全員が骨折や打撲のダメージで地面に転がっています。
とはいえ、彼らの生命力や回復力も中々のもの。
ツバでも付けておけば明日の朝には治っていることでしょう。
「じゃあ、私はこれで失礼しますね」
「……うす。あざっした」
「ありがとぁした」
アリスは何事もなかったかのように散歩を再開。
ボコボコにされた獣人達がその背に向けて口々に感謝を述べる光景は、魔界の文化を知らなければなかなか理解し難いものかもしれません。
「お前ら、よく頑張ったな」
「今回は結構持ち堪えたほうじゃないか?」
「そ、そうかな? よし、今度はもっと鍛えて再チャレンジだ!」
周囲で見物していた通行人も、少年達の勇気を讃えて拍手を送っています。
強い奴が偉い。
そして、自分より強い奴に挑むのが偉い。
そのような大変に平和的で先進的な文化風土が魔界にあったからこそ、アリスは今も尊敬の対象であり続けているわけです。彼女にボコボコにされた者達も、今回の件でしばらくの間は仲間内で一目置かれるようになることでしょう。
◆◆◆
「……でもよ、やっぱ何か妙じゃないか?」
「妙って何がだよ?」
「いや、最近やけに先代様が優しいっていうか。今日もかなり手加減してたろ」
「そう言われてみれば、たしかに変だな?」
さて、アリスが立ち去った後のことです。
通行人の邪魔にならないよう道の端に移動した獣人達は、先程の戦いで感じた違和感について話していました。すなわち、自分達の被害が軽すぎるという点について。
「今の魔王さまに代わってからの先代様はだいぶ丸くなったけどよぉ、最近のはそれとも何か違うんだよな」
「そういや、今日は魔法使わなかったしな」
先程は格闘のみで彼らを圧倒したアリス。
ですが、本来の彼女の戦い方は魔法を主軸としたものです。
例を挙げると、まず手始めに風魔法で相手の呼吸器周りの大気を操作しての窒息。電流による四肢の麻痺。精神干渉による幻聴や幻覚、同士討ちの誘発。全身の痛覚や各種不快感を極大化する呪詛。その他諸々。
細かな種類に関してはその時々の状況や相手によって変わりますが、まず戦いが始まるとそれらの魔法を一呼吸のうちに仕掛けて、前後不覚に陥った相手を一方的に殴る蹴る……というのがアリスが得意とする必勝パターン。
彼女相手に本気で勝利を狙うなら、これらを無効化ないしは耐え切れなければお話になりません。もっとも相手が手強いと見れば、飛翔や転移の術を駆使して敵の攻撃が届かない距離から一方的に大威力の破壊魔法を連射してきたりもするので、あくまで最低限の条件でしかありませんが。
先程の少年達が以前に挑んだ際にも、もちろん手加減はされてはいましたが、それでも三日間はベッドから起き上がれないほどのダメージを心身に負わされたものです。
それに比べれば単純に殴る蹴るだけで済まされた今回はあまりに生温い。
彼らが違和感を覚えるのも無理はありません。
「具合でも悪いんじゃないか?」
「まさか病気とか? 心配だな……」
殴られ方が物足りなかったからという理由はさておき、彼らの様子を見ていればアリスの人望の程も分かろうというものです。
「まあ、病気っちゃ病気かもねぇ」
「あっ、母ちゃん。病気かもって、先代様やっぱどこか悪いのかよ?」
と、そんな彼らのところに牛頭族の女性がやってきました。
風貌からして少年のうち一人の母親のようです。
どうやら彼女にはアリスの変化の理由が分かっている様子……というか、実はここいらに住んでいる既婚者や恋人持ちなら大体の魔族が理解しているのですが。
まあ、つまりは恋の病。
ここ最近、魔王の近くにいるアリスは明らかに表情や雰囲気が華やいでいますし、魔王がちょっと歩くたびに無意識に目で追っています。たとえ本人が理解しておらずとも、あれだけ分かりやすければ察しが付いて当然というものでしょう。
「病気なら医者とか、あと魔王さまとかにも知らせたほうがいいんじゃないか。俺、ちょっとお城までひとっ走り行って……いてててっ」
「こらっ、余計なことしないでいいんだよ! ほれ、アンタ達も遊んでばかりいないで、ちったぁ家の手伝いでもしな! さあ散った、散った」
危うくアリス本人が自覚するよりも早く魔王に彼女の心境の変化が伝わってしまうところでしたが、そこは身内の野暮を嫌った魔族女性のファインプレーで阻止されました。今回の件に限らず、この頃の魔王城付近では似たようなやり取りが数多く見られたものです。
アリスが自分の感情を自覚するまで、この時点から更に数年。
恋心を自覚してから諸々の事件を経て告白に至るまで、ここから実に半世紀以上もの時間を要することになるとは、いくら寿命の長い魔族達といえど流石に予想していませんでしたが。
そういえば過去編と本編の間に関してはほとんど触れてなかったな、と。
一応、ある程度の設定はあるので今回その一部をお出ししてみました。





