ss『秋鮭とイクラ』
300話記念ssの一回目。
今回のお題は一寄夢濃様から頂いた『秋鮭とイクラ』です。
一寄夢濃様、ありがとうございました。
「今日は悪いことをしよう」
ある秋の夜。
最後のお客を見送って、そろそろ閉店の作業でも始めようかという頃になって、魔王がおかしなことを言い出しました。
「悪いこと、ですか?」
それを聞いていたアリスは不思議そうに首を傾げるばかり。
お金や物品には特に困っていませんし、彼が好き好んで乱暴に振る舞うはずもなし。魔王が積極的に悪事を働く姿など、どうしたって思い浮かべることができません。
「じゃあ、僕は晩ご飯の準備してるから。出来上がるまでフロアの掃除お願い」
「はい、わかりました?」
アリスにも彼の言う悪事の正体は分かりませんでしたが、それで真っ先にするのが自分達の夕食の支度だというのなら、決して深刻な話ではないのでしょう。彼女は必要以上に心配することもなく、いつも通りにフロアの清掃に取り掛かりました。
◆◆◆
「これが悪いことなんですか?」
そして十数分後。
食卓の席に置かれていたのは、山盛りの白いご飯が盛られた丼二つ。
このドンブリ飯だけが本日の夕食だというのならガッカリですが、魔王の言っていた悪事というのは、調理の手を抜いて楽をするという意味だったのでしょうか?
否。そんなはずはありません。
白飯に続いて魔王が厨房から運んできた物を一目見て、アリスも彼の言わんとすることを理解しました。
「卵を持った鮭が入ってたから、今朝のうちにこっそり仕込んでおいたんだ」
「おお……これは見事なイクラですね!」
魔王が持ってきたのは、厨房で使っている中でも一番大きなサイズのボウル。その中には、魔王が今朝方に仕込んで醤油漬けにしたイクラが大量に入っていました。
ボウルには汁物をよそう時に使っているお玉が突っ込まれています。今日の夕飯は、このイクラを好きなだけご飯にかけて食べようという趣向なのです……が、それだけではありません。
「で、こっちは脂の乗ったハラスを焼いたやつで、こっちは刺身をヅケにしてみたんだ。これも自分で好きなだけ取ってね」
卵だけではなく、鮭の身も合わせて食べる海鮮親子丼。
それだけなら美味しくはあっても珍しくはありませんが、今夜はその全てを取り放題の食べ放題。栄養バランスだの健康だのは一旦忘れて、共に欲望の限りを尽くそうというわけです。これこそが、魔王の言っていた「悪いこと」の正体でした。
「こ、これは、この味は確かに悪い……っ」
お玉で一すくい、二すくい……心の奥底から湧き上がってくる自制心や、なんだかよく分からない罪悪感も捻じ伏せて三すくい。白飯の平原は一瞬にして真っ赤なイクラに蹂躙されてしまいました。
そうして出来上がったイクラ丼を豪快にかき込むと、プチプチ弾ける心地良い感触と醤油の塩気、そして思わずむせ返ってしまいそうな圧倒的な旨味の暴力が口内で巻き起こります。
更に刺身を調味液に漬けたヅケや、炭でこんがり焼いたハラスが加勢に加わると、これはもう堪りません。
「やっぱり秋の鮭は美味しいよね 。あ、思い出した。鮭の皮を取っておいたんだけど、それを炙ったのでイクラとご飯を巻いてみようか?」
「極悪ですね! 是非やりましょう!」
更に更に、魔王の思いつきで焼いた鮭の皮も参戦してきました。
鮭は全身捨てる箇所がないと言われる優秀な食用魚ですが、火を通した皮の美味さは他に例えようもありません。その皮で贅沢にもイクラやヅケごとご飯を巻いて食べようというのですから、これはもう間違いなく極悪な味わいになることでしょう。なりました。
「ああ、なんだかすごく悪いことをしてる気がします……」
追加の白飯の上にイクラをドサドサ盛りながら、アリスはなんとも言い難い背徳感を覚えていましたが、この食の快楽には抗えません。
料理としてはシンプルなのに、飽きる気配は皆無。ひたすらにイクラ、鮭、白米を胃袋に送り込み、流石にそろそろ満腹感を覚え始めた頃になっても、
「はい、お茶。ワサビもあるよ。これで〆の鮭茶漬けなんてどうかなって」
「ああ、これはいけません。まだまだ食べられてしまいます」
最後の〆は鮭茶漬け。
やや濃い目のお茶の渋みとワサビのツンとした香気が脂をさっぱりと洗い流しつつも、これまでとは違った鮭の魅力を引き出し、もう随分な量を食べているのに箸が止まらず……。
「ふぅ……ご馳走さまでした。たまにはこういうご飯もいいですね」
「うん。時々はこういうのもいいよね」
明らかに食べ過ぎで、栄養面を考えると決して褒められた内容ではないのでしょうけれど、たまにはこんな食事も悪くない。欲望の限りを尽くした二人は、どこまでも満足気でありました。
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