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迷宮レストラン  作者: 悠戯
いつか何処かの物語
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エスプレッソの午後


 ある日の午後、シモンとライムはいつものように魔王の店を訪れました。別に約束の取り決めがあるわけではないのですが、よっぽどの悪天候か特別な用事でもない限りは、こうしてティータイムを過ごすのがいつの間にか習慣のようになっています。



「さて、今日は何を頼むか」


「……ん」


「なんだ、ライム。どうかしたか?」



 適当な席に座ってメニュー表を眺めていると、店の入口から滑らかなムーンウォークで移動するコスモス(大)が入ってきました。明らかに不審者丸出しですが、この時間は店内も空いていますし、常連であれば彼女の奇行には慣れています。今日は比較的まともなほうなので、誰一人として驚いてすらいません。


 まあ、他の大人と違って、幼いシモン達の場合はまだそのおかしさの程度というものを正確に理解できていないからこそ、平然と見守れるのかもしれませんが。たとえば、これから十年ほど経って、常識や分別というものが身に付いた状態でコスモスの頭のおかしさを目の当たりにしたら、また違った感想があるかもしれませんが……とりあえず、今はまだそういう隔意(という表現が正確はどうかはさておき)を覚えることもありません。



「おや、そこにいるのはシモンさまとライムさまではありませんか」


「うむ。コスモスよ、お前はアリスか魔王にでも用事か?」


「いえいえ、書類仕事が一段落したもので少々休憩でも、と」



 と、そこでライムが四人掛けの席の、自分の隣の席をポンと叩きました。

 どうやら、合席を勧めているようです。



「では、遠慮なく」


「ん」



 人によっては休憩時間は他人の干渉を避けて一人で過ごしたいというタイプもいますが、コスモスはどちらかというと誰かと一緒のほうが好みです。誘いを断る理由もないので、ライムの隣の席に腰を下ろしました。








 それから間もなくやってきたアリスに三者それぞれの注文を伝え、そして、品物が運ばれてきました。シモンはアイスココア。ライムはリンゴジュース。



「なんだ、そのカップは? コーヒー、か?」


「ちいさい?」


「ええ、エスプレッソという種類のものです」



 そして、コスモスが頼んだのはエスプレッソ・コーヒー。

 ただのコーヒーならば昨今ではそう珍しくもありませんが、まるでオモチャのように小さなカップに入っている点が子供達の関心を引いた様子。



「よろしければ味見してみますか?」



 シモンも二人の様子に感づいているのでしょう。小さなカップを自分の前から横にスライドし、ライムとシモンのほうへと押しやりました。



「…………」


「コーヒーか……」



 正直、ライムやシモンにとって、砂糖もミルクも入っていないコーヒーというのは、美味しいと思えるシロモノではありませんでした。率直な感想としては「黒くて苦いお湯」というものでしょうか。我慢をして飲み込めば飲めないほどではないけれど、美味しくない上に夜に目が冴えて眠れなくなってしまいます。

 しかし、彼らの知る限りでも、大人達にはブラックコーヒーを美味しそうに飲む者が少なくありません。お酒などにも当てはまりますが、ある種の飲食物は何度も繰り返し試していくうちに、少しずつ良さが分かってくるようなモノもあるのです。


 それに、ミルクを入れたカフェオレや、砂糖を多めに入れたコーヒーであれば、シモン達も美味しいと感じます。もしかしたら、知らず知らずのうちに舌がコーヒーの苦味に慣れてくれているかも……?



「いただきます……っ!?」



 ……なんて、そんな甘い期待は一口どころか一舐めで打ち砕かれました。

 先にカップを手に取ったライムは、いつもの無表情を崩して、あまりの苦さのためか目尻に涙を浮かべています。かつての経験から想定していたブラックコーヒーの苦さの遥か上を行く、とんでもない苦さです。



「すごく、にがい……すごく」



 寡黙なライムが二回も「すごく」と言って強調しています。

 これほどの反応を見せるのは“すごく”珍しいことで、つまりはよっぽど苦かったのでしょう。



「そ、そんなにか……」



 しかし、こうなるとシモンとしては困りました。

 一舐めでギブアップしたとはいえ、ライムが挑戦した以上、彼が逃げるわけにはいきません。いえ、飲まずに拒否したところでペナルティがあるわけではないのですが、そこは男としての意地とか対抗心とか、そういったものが邪魔をして賢明な判断をしにくくなってきます。

 考えようによっては、前情報なしにチャレンジできた先攻よりも、変にプレッシャーがかかる後攻のほうが不利かもしれません。いえ、だから勝負でもなんでもないのですが。


 そんな内面の葛藤を読み取ってか、



「ふふふ」



 コスモスはあえて邪魔することなく、悪戯っぽい視線を向けるのみ。いえ、ぽいも何も、二人に勧めたこと自体が彼女の悪戯なのでしょう。どちらか一人なら断られたかもしれませんが、この二人が一緒なら意地を張って無理をしてでも飲むだろう、と。



「……苦っ!」



 シモンも葛藤の後にカップに口を付け、そしてすぐに離しました。

 まあ、当然といえば当然の結果。普通のコーヒーをどうにか我慢して飲めるかどうかという子供の舌では、エスプレッソは流石に荷が重いと言わざるを得ません。

 まさに大人の味。いえ、コーヒーを飲み慣れている大人でも、砂糖を入れていないエスプレッソを心底美味しいと思える味覚の主は少数派でしょう。


 

「なんだこれ……こんなの美味いと思って飲むやつがいるのか?」


「ん、にがすぎ」



 コーヒーの香り自体は良いにしても、エスプレッソの苦味はチビッ子の舌には厳しすぎたようです。こんな物を好き好んで飲む者がいるのかどうか? いえ、まあ、当然いるからこそこういう種類のコーヒーがメニューに載っているわけですが。

 現に、コスモスはカップを自分の手元に引き戻すと、



「少し冷めてしまいましたが、甘くて美味しいですね。疲れに効きます」



 卓上の砂糖壺から砂糖をドバドバと、苦~いエスプレッソが甘く感じるくらいに入れると、実に美味しそうに飲み干しました。あれだけ砂糖を入れたら苦味だけが際立って感じられることもないでしょう。

 しかし、シモン達にしてみれば、自分達が我慢して苦いまま飲んだのに、そうやって飲むのはアリなのか? ……と、そんな風に、一方的に理不尽を押し付けられたような気持ちになってきます。


 子供特有の感覚として、苦いコーヒーや辛い料理を美味しく食べられるのが大人っぽくて格好いいみたいなものがあります。コーヒーの場合だったら砂糖やミルクを使うのは「負け」だという、ある種の意地に覚えのある人は多いでしょう。

 まあ、しかし、実際にはそんな思い込みこそが実は「子供っぽさ」の証左であり、甘かろうが苦かろうが、自分の好みをきっちり把握して無理をしないことが食を楽しむ上では肝要です。



「むぅっ」


「むむ、それはなんというかズルいのではないか?」



 そもそも、コスモスの注文した物に彼女が砂糖を入れるも入れないも自由なので「ズルい」という物言いこそ言いがかり染みていますが、しかし感情というものは必ずしも理屈で割り切れないもの。一人だけ砂糖をたっぷり入れて飲んだ彼女に、このような可愛らしい抗議が集まるのも仕方ありませんが、そんな姿をコスモスはむしろ肴にして――この場合は肴ではなくお茶請けでしょうか――楽しんでいる様子。



「ふふふ、だってほら、そのままだと苦いじゃないですか?」


「むむぅ」


「いや、それはそうだが! そうだが!」



 抗議の声をひらりひらりと受け流してお気に入りの友人おもちゃで遊び、コスモスは午後の一時を楽しく過ごすのでありました。



エスプレッソの本場イタリアでは、ブラックどころか砂糖を大量に入れて飲むのがオーソドックスなスタイルなんだとか。コーヒーの染みた砂糖をティースプーンですくって食べるような方法を好む人も珍しくないそうです。

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