黒いパスタ(後編)
魔王の店で相席し、共に昼食を食べることにしたシモンとライム。アリスの勧める新作パスタ料理を注文し、意気揚々と席で待っていたのですが、
「…………」
「…………」
いざ来た料理を一目見るや、朗らかだったはずの雰囲気は吹き飛びました。
さっきまで暴れていた腹の虫も、急激に萎れてしまったかのようです。
運ばれてきたのは麺料理、恐らくはスパゲティの一種であろう品。
白い皿に盛られ、ホカホカと湯気を立てています。
しかし、何故料理に対して「恐らく」などという曖昧な物言いになるのか?
その理由は、件の料理のあまりに奇異なる見た目にありました。
「……くろい」
「……黒いな」
その料理は、まるでインク壺を引っくり返したかのように真っ黒だったのです。
率直な感想を述べるなら、とても食欲をそそる見た目とは言えません。いえ、それどころか見ただけで食欲が減退しそうです。
自分達は彼女の気に障るようなことでもしてしまったのだろうか?
普段は温厚な(少なくともこの二人に対しては)アリスがこんな陰湿な嫌がらせに及ぶとすれば、それはよっぽどの事です。表面上はいつも通りでも内心では相当怒っているのかもしれない……みたいな想像をしていました。
「……なぁ、原因に心当たりはあるか?」
「……いくつか」
それに、思い当たるフシが全くない……とは、残念ながら言えません。
二人での意地の張り合いがエスカレートして軽いケンカに発展して店内で騒がしくしてしまったり、手を滑らせたりとかで飲み物や料理を零してしまったり。怒られても仕方のないような心当たりはいくつかあります。
とはいえ、いずれもインク入りパスタの刑に値するほどの重罪かといえば、これはどうにも違う気がします。かといって、アリスをこれほどの凶行に駆り立てるような事を知らず知らずの間にしでかしていたというならば、本人に直接尋ねるのは火に油を注ぐことにもなりかねません。
原因がはっきり分かっているなら謝って許してもらうこともできますが、いくら頭をひねってみても、それほどの怒りを買うような粗相をした覚えはまるで思い浮かばないのです。
しかし、そうしていつまでも手をこまねいてもいられません。
料理を前にしながらも一向に手をつけようとしないシモン達に気付いたアリスが様子を見に近付いてきました。
「あら、食べないんですか? 早くしないと麺が伸びちゃいますよ?」
「あ、ああ……うむ、食べるとも。今は、そう、まず香りを楽しんでいたのだ」
「ん、いいにおい」
実際、香りは決して悪くありません。
インクにありがちな鼻を突くような刺激臭は皆無。それどころか、食欲をそそる美味しそうな香りが立ち上っています。見た目さえまともならば、最初から大喜びで口に運んでいたことでしょう。
「ええ、香りもいいですよね。獲れたての新鮮なのを使ってますから」
「うん、そうか……うん?」
そして、この辺りで二人もようやく違和感に気付きました。
まず、いくら注意深く観察してもアリスに敵意らしきものはありません。
その事に安心して冷静になってみれば、他にも色々と見えてきます。
「アレは鮮度が悪いと生臭みが出るんですけど、最近は魔界の海でも大漁続きだそうで、新鮮なのが市場にも沢山出てるんですよ」
「そ、そうか、新鮮なアレを使っているのだな」
「アレはいいものだ」
そして、少なくともインクは海で獲れません。
この黒い色の元となる物質は、どうやら海産物の一種らしい。
そうして、会話の中から「アレ」に関しての情報を探り、
「ええ、美味しいですよね。イカスミ」
そして、とうとう……と言うほど大したことではありませんが、勘違いの原因となった食材の正体をそれとなく聞き出すことに成功したのです。
「ふむ、なるほどイカか」
よくよく観察すれば、麺の中に食べやすい大きさに切られたイカの胴やゲソも入っています。
最初からイカの存在に気付いていたら、色の元がイカスミだということにまで考えが至っていたかもしれません。全体が黒い色に染まっているせいでつい目を逸らし、観察がおろそかになっていたのでしょう。
二人ともイカスミは今回が初めてですが、イカ自体はこの店や他の場所で何度も食べたことがあります。そうと分かってしまえば臆することはありません。忘れていた空腹も思い出し、フォークで絡め取った麺を勢いよく口に運びました。
「おお、海の旨味が濃いな」
「ん、おいしい」
「うむ、悪くない。いや、これは美味い」
イカのスミはただ色付けの為だけの物ではありません。
スミ自体に豊富なアミノ酸、つまりは旨味の元となる成分が含まれており、料理の味を一層引き立ててくれるのです。
その味は甘くも辛くも苦くもない、しいて言うなら海の味。いかにも海産物というような旨味と香りが存分に感じられ、本体であるイカの身肉はもちろんのこと、小麦の麺との相性も抜群です。
イカスミとは元々海の中でイカが敵対者を幻惑する為のモノ。
これは視覚に対する妨害だけでなく、アミノ酸を含んだ煙幕を放つことによって嗅覚をも惑わす役目があります。美味しそうな匂いのスミを放つことで、するどい嗅覚を持つ敵に位置を誤認させるのです。
イカのスミが美味しいのは過酷な生存競争と進化の果ての必然。
ある意味、イカ自身のお墨付きというワケです。スミだけに。
◆◆◆
《おまけ》
「しかし、アリスには変な疑いをかけて悪いことをしたな」
「はんせい」
食後、シモンとライムのお子様二人は改めて反省しました。
まあ、アリス本人は全く気が付いていなかったのですが。
「さて、どうしたものか」
「なやむ」
謝ろうにも、本人が気付いてすらいないのに、今から正直に全部話すというのもおかしな話です。謝ったらスッキリするかもしれませんが、下手をすればそのせいでアリスを不愉快な気分にさせてしまうかもしれません。
しかし、勝手に誤解をしてあらぬ疑いをかけてしまったのも事実。
それを知るのは自分達だけとはいえ、そうして知らん顔を決め込むことに居心地の悪さを覚えるくらいには二人とも良い子でした。アリスに気負わせない程度に、何かしらの詫びができないかと考え、
「おもいついた」
「む、どんな考えだ?」
「かくかくしかじか」
――――そして翌朝早く。
起床し、身支度を整えたアリスがレストランのフロア部分に出てくると、
「おはよう」
「掃除はもう済ませておいたぞ。開店の支度はおれたちでするから、アリスはゆっくり茶でも飲んでいるといい」
「こんな時間から、どうかしたんですか?」
まだ日の昇って間もない早朝だというのに、シモンとライムが店内の掃除をしていました。
元々毎日清掃は欠かしていませんが、二人は随分と気合を入れて綺麗にしたようで、テーブルの一つ一つに顔が映るくらいピカピカに磨き上げていました。店内には埃の一片、チリの一粒すらも見当たりません。
アリスや魔王は寝る時に気が散らないように、気配や物音を意識から意図的に遮断しているので気付きませんでしたが、この分だとかなり早い時間から頑張っていたのでしょう。
当然、アリスとしては二人がわざわざ早起きをして掃除をしにきた事を不思議に思ったのですが、
「いや、なに日頃世話になっているからその礼をな」
「ん、それだけ」
「ええと、ありがとうございます?」
……と、いくら聞いても「日頃の礼」だとはぐらかされ、まあ別に困ることでもないので素直に感謝をするのでした。





