善意の奔流
「夫婦ともなれば様付けはおかしいですよね……『ダーリン』はしっくり来ませんし、やはり、ここは定番の『あなた』でしょうか……でも将来的には『お父さん』呼びもありかも……」
アリスは、ブツブツと不気味な独り言を呟きながら完全に浮かれきっていました。コスモスの思惑になど全く気付く様子もなく、将来夫婦間でどのように呼び合うかを早くも検討しています。あまりの異様さに道行く人も自然と道を開けますが、それに気付く様子もありません。
「……結婚式のドレスの準備もしておきませんと……あとは招待状を各方面に出して……そうだ、仲人は誰に頼みましょう?」
こういう状況を指して「捕らぬ狸の皮算用」と言います。
まだ明日の決勝戦を勝ち抜かねば権利を得られないというのに、アリスはもう完全に勝った気でいるようです。
「子供は男の子と女の子両方欲しいですし、人数は多ければ多いほどいいですね……となると、今のお店では手狭ですから新しい家を建てなければ……子供服を縫った経験はありませんから練習しておかないと……」
妄想の内容は既に将来の家族構成にまで進んでいるようです。
公舎を出てからずっと歩きながら妄想を続けていましたが、子供の教育方針と習い事の内容を具体的に検討し始めたあたりでレストランまで帰り着きました。
「おかえり、アリス。どうだった?」
「あ、あなた、ただいま戻りました」
「あなた?」
「…………っ! いえ、なんでもありません。なんでもありませんよ、魔王さま? ただいま戻りました!」
うっかり妄想を引きずって『あなた』呼びをしてしまいましたが、魔王が不思議そうに聞き返してきたおかげでようやくアリスも正気に戻ったようです。
アリスはコスモスに聞いた通りの説明をして、自分たちが『偶然』決勝まで勝ち上がっていたことを魔王に伝えました。
「そうなんだ。すごい偶然もあるものだね」
「本当ですね。私も驚きました」
この不自然な状況を全く疑っていませんでした。
この二人、もしかしなくてもただのバカなのかもしれません。まあ、そんな素直すぎる性格を熟知していたからこそ、コスモスも今回のような計画を考えたのですが。
それはさておき。
「じゃあ、明日の夜はゆっくりできないかもしれないし、今日の夕飯は外で食べようか」
「そうですね。では、参りましょうか」
明日はアリスは大会が、魔王は閉会式の挨拶があってのんびり過ごせないかもしれないので、今日のうちに羽を伸ばしておくことに決めたようです。
お祭りが始まってからは幾度となく遊び歩き、食べ歩きもしてきましたが、お店や出し物の入れ替わりが激しく日毎に新しい発見があるのです。きっと今日もいくつもの新しい発見があることでしょう。
◆◆◆
わいわい、がやがや。
通りのあちらこちらから、一秒たりとも止まることなく喧騒が響き続けます。
どこからともなく漂ってきた香りにつられて顔をむければ、肉を焼いたり揚げ油と格闘している屋台が軒を連ねていました。
ロウソクの火は燃え尽きる直前にこそ最も光り輝くもの。
ならば、祭りの最終日前日というこのタイミングは、まさに燃え尽きる直前。
明日もまだ色々な楽しみが控えてはいますが、日常に戻る前に気兼ねなく夢の時間に浸れるのは今が最後のタイミングなのかもしれません。
空を見上げると雪が、ではなく白い綿菓子の欠片がはらはらと降ってきました。
初日からお菓子を降らせ続けた雲の魔力も切れ始め、浮力を失うにつれてその形が崩れていっているのです。魔力の残量を考えると、明日の閉会式が終わる頃には全ての雲が儚くも消えてしまっていることでしょう(一部、無断で捕獲され、そのまま魔力を与えられながら飼われている雲もありますが)。
魔王とアリスは、そんな光景を楽しそうに眺め、時には自分たちもその喧騒の一部に加わりながら名残を惜しむかのようにこの夜を楽しんでいました。
時刻は日が沈んで少し経った頃。
まだまだ夜はこれからです。
途中、ドライフルーツに糖蜜を絡めて乾燥させただけの素朴なお菓子を一袋購入し、二人で食べながら歩きました。
ベリーや薄切りの李の表面に糖分が白く粉を吹いたようになっていて、一気に食べるとむせ返りそうなくらいに甘いのですが、苦いコーヒーか強めのお酒のアテにでもしたら合いそうです。
そのままチビチビと干し菓子を食べながら進んでいると、今度は食べ物ではなく植物の鉢植えを売っている市に出くわしました。
「色々なお花がありますね」
「うん、野菜とか香草もたくさんあるね。試しに何か買っていこうか」
鉢植えには食用に適した種類の物もあり、魔王は花よりもそちらに興味を惹かれたようです。今は実を付けていませんでしたがイチゴや、小さな実が綺麗なミニトマトやトウガラシなど色々と置いてありました。
シソやミントなどの、あまりにも増えやすいので園芸家からは厄介者扱いされる種類もありましたが、軽い気持ちで手を出すと大変なことになってしまうので、売り手もあまりオススメはしていないようです。
「私はこれにします。最近頑張っていましたし、あとであの子にプレゼントしようかと」
「なるほど、それはいい考えだね。きっと喜んでくれると思うよ」
アリスが選んだのは秋桜。つまりはコスモスの花の鉢植えでした。漢字で秋の桜と書くくらいですから、今がちょうど花の見頃です。
小さい鉢に赤、白、黄色と可憐な花が並んでいます。アリスは、この同名の花をコスモスへの贈り物にするつもりのようです。
魔王もルビーのような色が綺麗だった赤トウガラシの鉢を購入し、初日以来何度か利用してお馴染みとなったお届け屋にレストランまで配達を頼み、ついでに店の小僧への駄賃としてまだ少し残っていたお菓子の袋を渡して、散策を再開しました。
◆◆◆
特に決まった目的などなく、より賑やかな方へ、より楽しそうな方へ、と進んでいたせいか喧騒は大きくなるばかりです。男の声、女の声、老人の声、子供の声、笑い声、怒鳴り声、歓声、悲鳴、楽器の音色、誰かの歌声……一切の秩序などなく、しかし不快な音ではありません。
まるで幾重にも糸が織り込まれたタペストリーのように人の声が無数に積み重なり、すぐ近くにいる相手の声も聞こえづらいほど。会話をする為には顔を相手のすぐ目の前にまで顔を寄せなければなりません。そう、まるで口付けをするかのように。
アリスも魔王に呼びかけるために顔を近付け、しかし残念ながら身長差のせいで「口付けをするかのように」とはいきませんでした。体勢としては魔王の肩に話しかけているような状態です。これでは色気もへったくれもありません。
ともあれ、アリスは魔王に話しかけました。
「ここは随分と賑やかですね。この先に何かあるんでしょうか?」
行列というほど秩序だってはおらず、催しなどをやっている気配もありません。この場の人々は、特に何もない道端に集まっているようです。アリスが見た限りでは、これといってその場所に盛り上がる要素があるようには見えなかったのですが、
「すみません、お二人ともちょっとこちらへ」
「え?」
気付けば、魔王たちのすぐ後ろに私服姿の神子がいました。目立つ白髪を編み上げて、ツバの広いチューリップ帽で隠しています。どうやら、周囲の音が大きすぎて気配に気付かなかったようです。
魔王とアリスは理由は分からないままでしたが、とりあえず言われたままにその場を離れて近くにある小さな公園まで移動しました。ここにも人はいますが、普通に会話ができる程度の賑わいです。
「……今日はリサさまはいらっしゃらないのですね?」
「ええ、今日はご実家のお店を手伝うとかで、こちらには来ていないはずですよ」
絶対に余人には聞こえないよう注意しながら、神子は二人に尋ねました。普段の穏やかな雰囲気をどうにか保ちながらも、その裏には隠し切れない緊張があることが神子の表情から察せられます。その表情を見てアリスも気を引き締めました。
「何かあったのですか?」
「つい先程、大使館の職員の方から報告を受けたのですが」
さっきまで魔王とアリスがいた何の変哲もない道端。
そこで勇者の姿を見たという人がいたというのです。
「普通ならただの見間違いで片付いたと思うのですが、その目撃をしたというのが、さる国の要職に就いておられる方でして」
人間というのは単純なもので、他愛もない噂話であっても、それを発信したのが有名人や権力者であるというだけで、途端にその話に信憑性があるように錯覚してしまうのです。そこに客観性や根拠の有無は関係ありません。
「しかも、同じような目撃例が相次ぎまして」
ここ数日、静かに広まり続けていた噂の火種。
ジリジリと導火線を焦がすに留まっていた話が、今このタイミングで一気に爆発してしまったのです。
「そのせいで、今この街にはいくつもの『聖地』ができてしまっているのですよ」
神子は困ったような笑みと共に言いました。
原因不明の賑わいの原因は、その場所そのものにあったのです。勇者の目撃例のある場所を人々が聖地扱いして集まったのが先の騒ぎの正体でした。
魔王なり神殿なりが公式に否定すれば騒ぎが収まる可能性もありますが、あまりに迅速な対応だと「逆に怪しい」と思うのが人情です。
まるで胡散臭い陰謀論者のようですが、何かを知っていて隠しているのではないかと勘繰る者は少なからず出るでしょう。しかも、この件に関しては実際にその通りなのです。
「おい、今度はあっちの広場にご降臨したそうだぞ!」
「ありがたや、ありがたや」
「一目拝めればもう思い残すことはない」
「走れ、走れ!」
アリスが周囲の人々の声に耳を澄ませると、そんな声があちらこちらの方角から聞こえてきました。比較的人通りの少ないこの公園周辺ですらこうなのです。他の場所がどうなっているかを想像すると恐ろしいものがありました。
真実を知っている者からするとすぐにデマだと分かる話でも、一般の人々からすればれっきとした奇跡の目撃譚です。
一斉に同じ方向に向かう人間たち、武力も権力も財力もないごく普通の人々の後ろ姿に、アリスは得体の知れない空恐ろしさを感じていました。
「……魔王さま、アリスさま。お手数おかけして済みませんが、リサさまにしばらくの間、お祭りが終わってからも外出を控えて頂くよう、お伝えしていただけますか? 当分はお店に出ることも控えたほうがよろしいかと」
「しばらく……ですか。この場合は仕方がないのでしょうね」
一応はお願いという体ではありますが、神子の口調には指示や命令に近い強さがありました。それがリサの身を案じたが故だということはアリスにもよく分かりましたし、異論を唱えるはずもありません。
人々に一切の悪意がないとしても、それが敬虔な信仰心や憧れや感謝などの善意の表明であるとしても、数というのはそれだけで暴力となり得るのです。
勇者としての強靭な身体があれば、リサ本人が怪我をしたりすることはないかもしれませんが、集まった人々はその限りではありません。もし自分のせいで誰かが怪我をしたりすればリサは心を痛めるでしょうし、そうでなくとも無数の善意を面と向かってぶつけられたら精神を病んでしまうかもしれません。
完全な事実無根ではないにしろ、リサが実際に人々の前に姿を見せなければ、いつかは噂も収まるでしょう。
そう、いつかは。
人の噂も七十五日と言いますし、運が良ければその程度で済むかもしれません。
しかし何年も、何十年も噂が残り続ける可能性もあります。デマや勘違いが噂となり、伝承となり、やがては伝説となり未来永劫語り継がれるというのも、今回に関してはそれほど荒唐無稽な話ではないのです。
「とりあえず、今は早く伝えよう」
「魔王さま……そうですね」
日本に転移してスマホで呼び出せば、今日中にリサと連絡を取ることはできるでしょう。リサが何も知らない状態で今の迷宮都市に来ることだけは防がねばなりません。
神子と別れた二人は大急ぎで行動を開始しました。