閑話・それは夜の星のように
何処からか風に乗って草の匂いが流れてきました。
アリスは、ふと薫ってきた懐かしい匂いのせいでほんの少し前のことを、まだ魔王と二人きりで、誰一人として訪れる客のいないレストランで静かに過ごしていた頃のことを思い出していました。
あの日々は退屈ではありましたが、静かで、穏やかで、何よりもずっと魔王と二人きりでしたから、あれはあれで充実していました。
一年と少し前までは、ただの平野と森、そして洞窟があるばかりだったこの場所には、今では大きな都市が栄え、酒や食べ物や人の営みの匂いに満ち満ちています。アリスはそういった喧騒も嫌いではありませんが、土や草を身近に感じにくくなったことを少しだけ寂しくも思っていました。
日が落ちてもなお街は明るく照らされ、まるで地上に落ちた星のよう。
夜空に座す数多の星々が如く、幾千幾万もの人々が地上にてそれぞれの光を放っています。
きらきらと、ぴかぴかと。
それはまるで宝石箱のように。
それはまるで万華鏡のように。
随分と長く生きてきたアリスですが、この一年ちょっとはこれまでの人生の中でも経験したことのないほどに密度の濃い日々でした。それはもしかすると、これまでの人生における十年、いえ百年以上にも比肩するのではないかと思えるほどに。
正直なところ、アリスは最初、魔王が人間界に店を開くと聞いても大して興味はなかったのです。
魔王の気紛れは今に始まったことではありませんでしたし、しばらくして飽きたらまた別の遊びを始めるだろう。そんな風にも思っていました。
アリスにとっては場所がどこであろうと、周囲に誰がいようと、魔王だけいればそれで良かったのです。
今は、違います。
新しい友人や店の常連、ちょっとした顔見知りに至るまで。様々な縁が生まれ、店や街にもすっかり愛着が湧いてしまいました。
かつて冷酷な魔王として在った自分を誰よりも深く知るだけに、その変わりようにはアリス自身が誰よりも驚いていました。いっそ笑ってしまいたくなるような変貌ぶりですが、正直その変化はイヤではありませんでした。むしろ自身がどう変わっていくのかを楽しみに思う余裕すらありました。
心というものは、それまで生きてきた記憶や他者との縁の積み重ねで、本人すらも予想できない形へと日々変わり続けているのです。
それはまるで粘土細工のように。
それはまるで空の雲のように。
これから未来、アリスの心は、そして彼女をとりまく人々の心は、果たしてどのような形へと変わりゆくのでしょう?