勇者、異世界の大地に立つ
鬱蒼とした深い森の中に、木々が強引になぎ倒される轟音が響いていました。森に住む動物や鳥たちは異変を敏感に感じ取り、一目散にその音源から離れようとしています。
その原因は一頭の魔物。
群れからはぐれた多頭竜が暴れ狂っていたのです。
魔物の中では高い知能を持つ竜種だというのに、手負いの為かその行動に一切の知性は感じられません。五つの頭にある十の瞳は、いずれも狂乱の色に染まっています。
例えるなら、竜巻や暴風雨などの天災。しかし、その天災には命と意思があり、生きるために他の生き物の命を喰らう必要がありました。
そして何とも運のないことに、竜が森に破壊の爪痕を残しながら進むその先には、数百人の人間が住む開拓村があったのです。
ヒドラがこの場所を目指して進んできたのか、それとも偶然にも進行方向に不幸な村がたまたまあっただけなのかは分かりません。が、真相がどちらだとしても同じこと。このままでは数分後には平和な村はヒドラの餌場となり、阿鼻叫喚の地獄絵図が描かれることになるでしょう。
村人達もようやく異変に気付いて、悲鳴を上げながら逃げ出そうとしています。けれど、直前まで何の覚悟も心構えもなかった状態で、スムーズな避難ができるわけがありません。
混乱と恐怖のためか、足をもつれさせて転ぶ者が続出。もっとも仮に転ばず走り出せたとしても、常人の足では十歩目を数える前に追いつかれることでしょうが。
そんな中、逃げ遅れた幼い子供とその祖父であろう老人が、パニックの中でヒドラの前に取り残され、立っている事もできず地面にへたりこんでいました。
子供はまだ三歳かそこらの男の子。
まだ物心ついて間もないような年頃でしたが、自分達が絶体絶命の状況にあることは理解できているようです。老人は我が身を盾にするつもりで腕の中で震える子供を抱きしめていましたが、ヒドラの牙の前には薄紙一枚ほどの抵抗にもならないでしょう。
そして、いよいよその瞬間がやってきました。
ヒドラが鋭利な牙を憐れな犠牲者に突き立てようとした、その時……。
「え?」
男の子には、目の前で何が起こったのかを理解することができませんでした。それもそのはず。一陣の疾風が吹き抜けたと思ったら、巨大なヒドラの頭部が斬り落とされていたのです。
ギュッと目を閉じていた老人も、いつまで経っても痛みが訪れぬことに疑問を抱き、恐る恐る目を開けました。
そこに転がっていたのは、まだ己の身に何が起きたのかも分からずにいるヒドラの生首。驚くべき生命力でまだ生きてはいるようですが、それも時間の問題でしょう。
が、この場で最も人々の目を惹いていたのはヒドラではありません。
そこにいたのは一人の剣士。
白銀と黄金で彩られた甲冑を身に纏い、まるで美術品と見紛うような美しい装飾が施された大剣を持った剣士が佇んでいたのです。
察するに、先程の疾風の正体こそがこの人物。
この剣士が間一髪のところで割り込んで、二人の窮地を救ったのでしょう。
竜の鱗とは鋼鉄以上に強靭なことで知られています。そんな竜の首をただの一撃で落とすとは、一体どれほどの技量を有しているのやら。
目の前の人物に救われたらしいことを理解した老人は、礼を言おうと剣士に近付こうとしましたが、剣士は空いたほうの手を掲げてその動きを制します。そのまま手を振って早く逃げるよう促しました。
そう、この竜は複数の頭を持つ多頭竜。
たとえ首を一つ落とそうとも、その程度では死に至りません。頭を一つ失った驚愕で一時的に動きを止めていたものの、またすぐにでも残った頭と牙を用いて襲い掛かってくるでしょう。
元々、五つあった頭の一つを失い四つ首となったヒドラは、残った八つの眼球に煮え滾るような殺意を漲らせ、己の一部を奪った乱入者を睨みつけています。
常人ならばその殺気だけでショック死しかねない視線を浴びた剣士は、しかし特に気にした様子もありません。手にした大剣を大きく横に振りかぶるように構えました。
剣士とヒドラ、両者の間の空気が緊迫で張り詰めていきます。
この状況、普通に考えたら剣士の方が不利。
たしかに剣士の持つ大剣は刃渡り二メートルほどもあり、ヒドラの太い首をなんとか切断することはできるでしょう。
しかし、剣士が一度に攻撃できる首は一本なのに対し、ヒドラは残る四つ首での同時攻撃が可能。不意打ちのような状況の先程と違い、最初から首の一つを捨てる覚悟があるならば、首を一つ落としても残りの三つ首の攻撃を無防備に受けることになるはずです。
そして、その時が訪れました。
ヒドラによる別方向からの四連撃。
が、一撃でも喰らえば死に至るその連撃を前にして、剣士に慌てたような様子はありません。竜の牙がその身に触れるかどうかというところまで引き付けてから、構えた剣を無造作に一閃。
その一閃で勝負はついていました。
四つ首が一つ残らず切断され、ヒドラは一瞬で絶命していたのです。
如何にして、剣士はそれを成したのか。
その答えは、剣士の持つ剣を見れば一目瞭然でした。
つい数秒前までは渡り二メートルほどの大剣だったそれが、今は二十メートル近くもの長さにまで伸びていたのです。
周囲で戦いを見守っていた村人達は、その剣を見て剣士の正体を悟りました。
持ち主の意のままにあらゆる形状、あらゆる大きさに姿を変える聖剣・変幻剣。かの武器を持つ者は世界広しといえどただ一人。すなわち音に聞こえし勇者に他なりません。
異世界のニホンという国から召喚されたという勇者は、周囲を見回して危険が無いことを確認するとフルフェイス型の兜を外しました。すると、長く黒い絹のような髪と、まだ十代半ばほどであろう幼さの残った少女の顔が顕わになります。
周囲で先程の戦いを見ていた人々は、自然と両の手を組んで祈りを捧げていました。命を救われた事も手伝ってか、まるで地上に顕現した神の尊顔を拝謁するかのような、神聖な感動に誰もが満たされていたのです。
そして、素顔を見せた勇者は周りの人々にこう言いました。
「……ごはんをください」
それだけ言うと、その場にぶっ倒れて気絶しました。
仲間とはぐれて迷子になり、その上一文無しで三日間何も食べていなかった勇者は、村人たちの献身的な看護によって何とか飢え死にを免れたのでありました。





