闇色のお菓子と魔王と姫君
「ここが魔王の居城ね!」
「いえ、姉上。城ではなくレストランです」
魔王のレストランのすぐ外で、シモンとイリーナのロイヤル姉弟がそんな会話を繰り広げていました。毎日のように通っているシモンは今更なんとも思いませんが、イリーナは緊張しているのか通路の物陰に隠れるように店の入口を見ています。
シモンも初めて訪れた時は同じように身体を強張らせていましたし、この二人、姉弟だけあって行動に似通う部分が多いようです。
「シモンの手紙だと、魔王はそんなに怖くないって書いてあったけど……本当?」
「はい、彼奴ほど威圧感に欠ける男は珍しいほどです」
シモンの魔王への評価は諸々の個人的事情のせいで辛口になりがちなのですが、これに関してはそれほど的を外した意見でもありません。外見は普通の人間と変わりませんし、戦士や冒険者によくいる筋肉や武装で威圧的に見せるようなタイプとは真逆です。
「では参りましょう」
「え、ええ」
イリーナもシモンが平然としている様子を見て、いくらか落ち着きを取り戻したようです。隠れていた物陰から出てきて店のドアに手をかけました。
「い、いざ、闇の同胞と邂逅せん!」
そんなよく分からない掛け声と共に勢いよくドアを開け、
カラン、コロン。
「きゃあっ!?」
ドアベルの音にビックリして転びそうになりました。背が低いのを誤魔化すためにヒールが高めの靴を履いているので、転んだらダメージ倍増です。幸い後ろにいたシモンが咄嗟に身体を支えたので怪我はありませんでしたが、危うく尻もちをつくところでした。
シモンも初めて来た時に全く同じ流れで転んでいましたし、やはりこの二人、非常によく似ているようです。
「姉上、お怪我はありませんか」
「う、うん、ありがとう、シモン……」
半分以上も年下の弟に助けられて恥ずかしいのと、弟の成長を感じられて嬉しいのとで、イリーナとしては複雑な心境のようです。シモンに寄りかかった際、彼が思わず小声で「お、重い」と呟いたのが聞こえなければ更に完璧だったでしょう。同世代の平均よりもやや細身なので気にする必要は全くないのですが、そこはそれ。難しい乙女心があるのです。
◆◆◆
「アリスよ紹介しよう、こちらはおれの姉上だ」
「シモンくんのお姉さんですか。はじめまして」
「は、はじめまして、イリーナです……」
身内以外には人見知りする性質のイリーナですが、シモンの紹介もあって、どうにかこうにか穏便に挨拶をすることができました。
「……ねえ、シモン。この子が手紙に書いてあった魔族の給仕なの?」
「ええ、そうですが」
「へえ、魔族っていっても見た目は人間と変わらないのね」
初めて見る魔族に身構えていたイリーナも、普通の人間と変わらない姿のアリスを見て緊張が解けてきたようです。どちらかというと、奇抜なファッションのせいで外見だけならむしろイリーナのほうが『魔』的な印象があるくらいですが、そこは触れぬが華でしょう。
アリスに案内されて、シモンとイリーナとクロードとイリーナ付きの侍女の四名は席に着きました。後者二名は久々の姉弟の語らいを邪魔しないようにか、あえて沈黙に徹しています。
「さ、姉上、まずは何か注文しましょう」
「そうね。シモン、このお店は何が美味しいのかしら?」
「そうですね、色々ありますが……そういえば手紙と一緒に送った菓子はお気に召しましたか?」
手紙のやり取りのオマケみたいなものですが、シモンが日々買い集めた菓子類や茶葉などの嗜好品や陶器や調度品なども度々国に送っていました。
「ええ! 特にあのチョコレートというお菓子ね、とても美味しかったわ。上のお姉さまたちも、とても喜んでいたのよ」
「それはよかった。では、アリスよ」
シモンが代表して人数分のお茶とお菓子を注文しました。久々に会った姉に良いところを見せようと張り切っているのか、なかなか堂に入ったエスコートぶりです。
「これは、なんていうお菓子なのかしら?」
「ガトーショコラという菓子です、姉上」
あれこれと積もる話に花を咲かせていると、すぐに注文したお茶とお菓子が運ばれてきました。 シモンが今回選んだお菓子はガトーショコラ。言わずと知れた、チョコレート菓子の代表選手です。
真っ黒くてどっしりねっとりとした生地の平野に、冬の粉雪を連想させるような粉砂糖が色合いも鮮やかに降り積もっています。
「姫様、お毒見をいたしますか?」
「いえ、いいわ。シモンが選んでくれたお菓子だもの」
侍女がそっと耳打ちして尋ねてきましたが、イリーナは臆せずフォークを取りました。シモンを信じているというのもありますが、単純に味が気になるせいかもしれません。意地汚い考え方ですが、毒見をさせたらそれだけ自分の食べる分が減ってしまいます。少々変わった趣味のイリーナですが、年若い少女らしく甘いお菓子には目がないのです。
「この見た目がいいわね。黒くて格好いいわ」
「おれ……私にはよく分かりませんが、黒ければ格好いいのですか?」
「ええ、そうよ、黒は闇の色だもの。覚えておくといいわ」
そんな風に独特の色彩センスをシモンに伝授しようとした一幕はともかく、イリーナはフォークでガトーショコラの端を小さく切り取り、口へと運びました。舌の上でゆっくりと蕩ける味とねっとりとした食感、そして鼻腔をくすぐるチョコレートの香りがたちまち彼女の心を奪いました。
「素晴らしいわ!」
「姫様、お行儀が悪いですよ」
これでもれっきとした一国の姫君として礼儀作法は叩き込まれているのですが、はしたなくも作法を忘れて感嘆の声を上げてしまうような感動がそこにありました。
すぐさま次の一口を、今度は最初よりも大きく切り取って口に運びます。すると一口目以上の濃密な風味が感じられ、思わず踊り出したくなるような、天にも昇る気持ちになります。
「姉上、この茶がガトーショコラにはよく合うのです」
「ありがとう、シモン。まあ、これも美味しいわ」
今回シモンが注文したお茶は、コーヒーにたっぷりのミルクとちょっぴりの砂糖を入れたカフェオレです。ミルクのおかげで柔らかくなった苦みが甘いチョコレートの余韻を洗い流してくれるので、ガトーショコラとの相性もバッチリ。
色合い的にはブラックコーヒーのほうがイリーナの好みかもしれませんが、彼女もシモンと同じで苦い物は苦手なので、ここはカフェオレが正解でしょう。
「すごいわ、これを魔王が作っているのね」
正直なところ、イリーナが魔王のレストランに来たがっていたのは単なる興味本位というか、国の友人たちにその経験を自慢したいという不純な動機が少なからずあったのですが、もはや完全にその味のトリコになってしまったようです。
早くも半分以上がなくなってしまったガトーショコラの残りを大事そうに食べ、自分の皿が空になってしまってからも夢心地でその余韻に浸っていました。
◆◆◆
「姉上、魔王に会いたいのではなかったのですか?」
「はっ、そ、そうだったわね」
完全に当初の目的を忘れていたイリーナですが、シモンに言われて当初の目的を思い出したようです。
「ふ、ふふ、この魔眼が疼くわ」
「よく分かりませんが、痒いなら眼帯を取っては如何ですか?」
「シモン、そういう疼きではないのよ」
この日はそれほどの暑さではありませんが、それでも昼間には軽く汗ばむような陽気です。ただでさえ全身を黒系のファッションで統一しているイリーナを見て、暑くないのだろうかとシモンは常々不思議に思っていました。
もちろんすごく暑いのですが、そこは根性でカバーしています。冬場のミニスカート然り、夏場の黒ゴス然り、女子のお洒落道とは汗と涙とド根性で成り立っているのです。
「アリスよ、姉上が魔王に挨拶をしたいそうなのだ。すまぬが呼んできてくれないか」
「ええ、今なら大丈夫ですよ」
都合よく店内はそれほど混雑していなかったので、アリスはすぐさま厨房にいる魔王を呼びにいきました。
「ね、ねえシモン、魔王って怖い人じゃないのよね?」
「はい、あやつに比べれば城の庭に巣を作っていた蜂のほうがよほど怖いです」
美味しいお茶とお菓子を食べて弛緩しきっていた緊張感が、魔王との邂逅を前にして再び戻ってきたようです。平然としているシモンが隣にいなければ、逃げ出してしまったかもしれません。
◆◆◆
「どうも、はじめまして、魔王です」
「あ、あにょ、シモンの姉のイリーナと申しますわ」
緊張しすぎて舌を噛んでしまいましたが、そこは全員気付かないフリをしてくれました。
「いつもシモンがお世話になっています」
「いえいえ、こちらこそ」
「あ、さっきのお菓子、すごく美味しかったです!」
「それは良かった。お気に召して何よりです」
まだ完全に緊張は抜けていないようですが、あまりに普通っぽい魔王を目の当たりにして、イリーナの緊張もほぐれてきたようです。
「そ、そうだ……あの魔王、さん?」
「はい、なんでしょう、イリーナさん?」
イリーナは侍女に持たせていたカバンから、紙とペンとインク壷を取り出して言いました。
「あの、これに、魔王さんのサインをいただけないでしょうかっ」
「はあ、かまいませんよ?」
「あ、横に『イリーナさんへ』って書いてもらえたら……なんて」
特に断る理由もないので魔王は紙にサラサラとサインをして、それをイリーナに手渡しました。
「ふふ、ふふふ……ありがとうございます! これは我が家の家宝にさせていただきますので!」
「姉上、流石にそれを国宝にするのはどうかと」
シモンのツッコミが入りましたが、念願の魔王のサインを手に入れて有頂天のイリーナの耳には届いていません。今にも歌でも歌い始めそうな上機嫌です。
「あのっ、握手してもらってもいいですか!」
「ええ、どうぞ」
まるで熱烈なファンが大スターを前にしたかの如し。
余人には分からぬ感覚ですが、自称闇の住人のイリーナにとって、魔王とは憧れの存在のようです。魔王としてもサイン同様断る理由はないので普通に求められるままに握手をしました。
ですが、それを見て面白く思わない者たちがここにいました。
「姉上、嫁入り前の女性がみだりに男に触れるものではありません。さあ、長旅でお疲れでしょう、宿まで送ります」
「魔王さま、ご挨拶は済みましたし、そろそろお仕事に戻ってください」
シモンは仲の良い姉が気に食わない魔王と仲良くしているのが面白くありませんし、アリスは魔王が可愛らしい少女と良い雰囲気になっていることに危機感を覚えていました。
実際にはイリーナの積極的な行動は恋愛感情など欠片もないただのミーハー気質の発露なので危惧するようなことではないのですが、そこを理屈で割り切れるほどにはシモンもアリスも達観してはいませんでした。
◆◆◆
「これで国のお友達に自慢できるわ、ふふ、うふふ」
強引に引き離されてしまいましたが、それでもイリーナはとても満足そうです。どうやら貰ったサインを国にいる同好の士に自慢するつもりのようで、自分で大事そうに抱えています。
「お菓子も美味しかったし、こっちにいる間にまた一緒に来ましょうね」
「ええ、はい……あまり姉上が魔王と良い仲になっては困るのだが……魔王がおれの義兄など怖気が走る……いや、だがそうなればアリスはおれと……いやいや……」
「どうしたの、シモン?」
「いえ、なんでもありません、姉上!」
色々と早合点したり皮算用したりと忙しいシモンと、そんな弟の胸中など知らずに呑気に喜んでいるイリーナの姉弟は、そのまま仲良く並んで他の家族の待つ宿への道を歩むのでした。