番外編・ワガハイは猫である
ワガハイは猫である。
名前はたくさんある。
◆◆◆
ワガハイは最近になって、ニンゲン共が迷宮都市と呼ぶ街にやってきた。
元々は他の街に縄張りを持っていたのだが、商人の馬車の上で昼寝をしていたら、気付かれずにそのまま街を出てしまったのだ。
街の外には危険な生き物がたくさんいる。ワガハイは帰るに帰れず、そのまま数日間荷物の中に潜んで迷宮都市まで辿り着いたというワケだ。
ちなみに道中の食事は、馬車の中にあった干し肉を少々拝借した。美味であった。
縄張りから遠く離れた街に到着し、ワガハイはまず元の街に帰ることを考えた。このままではワガハイが権利を持つナワバリを他の猫に奪われてしまうからだ。いや、もうすでに奪われた後かもしれない。
だが、そのまま二日ほど観察して分かったのだが、ワガハイをここまで運んできた商人は元の街へ帰る気がないらしい。馬車に乗せていた家財を真新しい家に運び、そこを拠点に商売をするつもりのようだ。
ワガハイはその商人に見切りをつけ、他に元の街へと向かうニンゲンがいないか探した。だが、すぐに帰ることは忘れた。そのまま、この迷宮都市なる珍妙な街に住むことを決めたのだ。
なにしろ、この街には猫を襲うような天敵がいない。
料理屋や食品を扱う店が多く、食べ物を探すのにも苦労しない。
ワガハイ以外にも猫はいるが、そいつらはニンゲンと共に暮らす軟弱な家猫ばかりだ。ワガハイのような野良は他にいないし、少なくともまだ見たことはない。
ワガハイのような特殊な事情でもない限り、他の街から野良の猫が渡ってくる手段がないのだ。森や山に住む猫は、わざわざニンゲンの街に入ってきたりはしない。
この街にいる野良の猫はワガハイだけ。
すなわち、この大きな街の全てがワガハイの縄張りも同然。
ならば、わざわざ危険を冒して前の街に戻る必要もあるまい。前の縄張りは気前良く他の猫にくれてやるとしよう。
こうしてワガハイは、恐らくは世界で最も大きな縄張りを持つ猫となったのだ。もはや猫という種族の王と言っても過言ではあるまい。
◆◆◆
ワガハイの朝は早い。
まだ日の昇るか昇らぬかという時間に活動を始める。ニンゲン共の市が開く時間に合わせているのだ。
迷宮都市の真ん中辺りには、毎日朝から昼まで市が立つ。
ニンゲン共やニンゲンに似た変な姿の生き物が色々な物の売り買いをしているのだが、ワガハイの目当ては当然食い物である。
「みゃあ」
「お、今日も来たのかブチ。ほれ、ベーコンの切れ端食うか?」
ワガハイが声をかけたのは肉屋をしているハゲ頭のニンゲンのオスだ。ワガハイが声をかけると、毎回何かしらの美味い物を献上してくる。なかなかの忠臣である。
今日の献上品はベーコンであった。
少々塩が強めだが、脂が乗っていて美味である。
ふむ、臣下の忠誠には王として報いてやらねばなるまい。
「にゃあ」
「お、よしよし」
褒美としてワガハイの毛を撫でさせてやった。
余程嬉しいのか、ごつい顔をだらしなく緩ませている。
◆◆◆
肉屋を離れたワガハイが次に向かったのは、少し離れた所にある魚屋である。今朝は魚を食べたい気分だったのだ。魚屋は他にも何軒かあるが、この店が一番美味い魚を扱っている。
「みゃあ」
「おや、タマじゃないか、三日ぶりだな。ほら、鯵の干物をむしったやつをやろう」
この店の主人はニンゲンに似ているがニンゲンではないようだ。腕の数が四本もある上に頭にツノが生えている。市の中でもこの辺りの店には同じようなヘンテコな姿の生き物が多い。ワガハイには関係のないことであるが。
今日の干物は一段と美味そうだ。
前の街ではこれほどの上物には滅多にありつけなかった。
「にゃあ」
「あら、可愛らしい猫ちゃんですわね」
魚屋の主人に賛辞を伝えたつもりだったが返ってきたのは別人の声、ニンゲンのメスのものであった。この街の料理屋を巡る時によく見かける若いメスだ。
「にゃあ、にゃあ」
「うふふ、何を言っているのでしょうね?」
このニンゲンのメスは、一人でいくつもの食い物屋をカラにしてしまうほどの大食いなので、ワガハイの取り分が減ってしまうことがあるのだ。
ワガハイの分まで食わぬようにと、この機会に厳重に抗議しておいた。残念ながら意味は通じておらぬようであるが。
◆◆◆
ベーコンと干物を腹に入れて、空腹も収まってきた。
日によって献上される品が違うので、もし物足りなければ三軒目に向かうのだが、今日はひとまずこの辺で止めておくとしよう。食いすぎると腹が重くなって、動きが鈍くなってしまうからである。
腹ごなしの散歩をするために屋根を伝って大通りの方まで歩く。
特に目的があるわけでもないが、なんとなく気が向いて噴水のある広場までやってきた。
身体が濡れるのは好まぬが、噴水という物の見目はなかなか気に入っている。暑い日に近くで昼寝をすると、ちょうど良い具合に涼しくなるのもまた良い。
一度噴水の縁の部分で昼寝をしていた時にうっかり水の中に落ちてしまったが、あの時は大変であった。まあ、猫の王たるワガハイは同じ間違いはおかさぬ。気を付けていれば大丈夫であろう。
「にゃあ」
「ん、ねこ」
「ほう、なかなか可愛らしいね」
噴水まで辿り着いたのだが、そこには先客がいた。ニンゲンに似ているが耳が尖っているし匂いも違う。その特徴から察するに、恐らくは風の噂で聞いたことのあるエルフとかいう種族であろう。
エルフのメス、大きいのと小さいのと二人いるが、その小さいほうのメスがワガハイがいつも昼寝に使う場所に座っていたのだ。
「にゃあ」
「ねこ、かわいい」
場所を替わるように抗議の声を上げても聞く耳を持たないようだ。あの長い耳は飾りであろうか。
「ふにゃ!?」
「こらこらライム、尻尾をつかんじゃダメだよ」
敵のいないこの街に移ってきてからワガハイも油断していたようだ。
小さいほうのエルフが突然ワガハイの尻尾を掴んできたのだ。大きいほうがその蛮行を止めてくれたので助かったが久々に肝の冷える思いであった。
「あ、にげた」
エルフというのがあれほど恐ろしい生き物だったとは。
仕方ない、昼寝用の場所は他にもあるし、今日のところはこの場所は諦めるとしよう。
◆◆◆
起きたらもう夕方であった。すっかり熟睡してしまったらしい。
この街の中でも一際大きな建物が並ぶ通りの一軒。その庭にある木陰で寝ると土と草の匂いが感じられて熟睡できる。ワガハイは快適な昼寝場所を何種類か確保してその日の気分によって使い分けているのだが、その中でも上位に入る場所である。
この庭はよく手入れされている割に、立ち入る者が少なくのんびり寛げる。身なりの良いニンゲンの子供と老人がよく棒振りをして遊んでいる程度である。
『あら王様、ごきげんよう』
『うむ、その声はジョセフィーヌか』
ワガハイに声をかけてきたのは、近くの屋敷でニンゲンと暮らすジョセフィーヌという家猫である。自分でネズミや鳥を狩ったこともないほどの箱入りらしい。丸々と太った、よく手入れのされた毛並みの猫である。
『お前も散歩か』
『最近また太っちゃって……ダイエットしないといけないんです』
自分からわざわざ痩せようとするなど、家猫の考えることはよく分からん。
『あまり無理をするでないぞ』
『……でも、もっと頑張らなきゃ』
『うむ、まあ適度に励むがよい』
前に見た時も同じようなことを言っていたが、一向に痩せる気配がない。それどころかますます肥えているし、あの調子ならば飢えて痩せ衰える心配は無用であろう。
◆◆◆
夜になった。
一眠りしたらまた腹も減ってきたし、そろそろ食事の調達に向かうとしよう。
「みゃあ」
「おや、いらっしゃいませ、銅鑼衛門さま」
……ワガハイは己の名にこだわりがないので、他者からはその者が呼びたいように呼ばせているのだが、その名は何か危ない気がする。
「なるほど、この名前はお気に召しませんでしたか。では次回までに他の名前を考えておきましょう」
「……にゃ」
ワガハイが来たのは、銀色の髪のなんだか変な連中のやっている店である。匂いからするとニンゲンではないと思うのだが、こいつらがなんなのかはよく分からん。たまにいつもと違う銀色のやつが店番をしていることもあるが、例外なく全員変だ。
「にゃあ」
「おっと失礼、何かお出ししますね」
こいつらはどうも猫の言葉が分かっているフシがある。
話が早いのは助かるが、なにせこいつらは変な連中なので、ヘタをすると普通の人間よりも意思疎通が困難なのだ。
「どうぞ、新鮮な深き者を素材にした新製品の缶詰です」
「……にゃあ」
それはワガハイが食べても大丈夫な物なのだろうか?
「…………」
何故そこで無言になる。おい、何故目を逸らす。
「はっはっは、軽いジョークです。こちらのツナ缶をどうぞ」
「にゃ」
最終的にはまともな品を出すのだが、毎回あのような寸劇に付き合わされるので疲れる。とはいえ、ツナ缶に罪はないので残さずに美味しくいただいた。
◆◆◆
今宵は綺麗な満月であった。
腹も満ちたことだし、どこかの建物の屋根の上で月見と洒落込むのも悪くない。
昼間は大勢のニンゲンで賑わう街も、この時間になるとすっかり静まりかえっている。街で長年野良をしていた身としてニンゲンたちの喧騒には慣れているが、こういう静かなほうがやはり落ち着く。
塀や屋根の上を通って進み、しばらくして月見に良さそうな場所を見つけた。一見するとなんの変哲もない民家の屋根であるが、座り心地も風の通りも申し分ない。文句があるとすれば先客がいることくらいだ。
「みゃあ」
「ん?」
先客は若いオスであった。
見た目はニンゲンに似ているが、匂いからするとこのオスもニンゲンではないらしい。
朝の市以外でニンゲン以外の生き物を見ることは普段はそんなにないのだが、昼間のエルフ共といい今日は珍しい生き物によく会う日である。
「君もお月見かい?」
「にゃ」
肯定する。
昼間のエルフのように尻尾を掴まれては堪らぬと警戒していたが、のんびりと寛いでいる様子からすると心配せずとも大丈夫そうだ。
「にゃあにゃあ」
「そうかい、ありがとう」
ワガハイと共にこの場所を使うことを許してやると、このオスは礼を言ってきた。もしかすると、あの銀髪の変な奴らと同じく猫の言葉が分かるのだろうか。
「今日は良い月だね」
「みゃ」
うむ、実に美しい。
昨今は猫もニンゲンも目先の欲に囚われる者ばかりで、このような風流を解する者が少なくなっている。猫の王としては嘆かわしい風潮であるが、このオスはなかなか分かっているようだ。気に入った。
「へえ、君も王様なんだ。僕もなんだ」
「にゃあ」
このオスも王であったか。
同じ王とはいえヒゲもないし、ワガハイと並ぶと幾分威厳に欠けるな。
まあ、ワガハイと比べるのは流石に酷というものであろう。まだ若いようであるしこれから精進するがよい。あとヒゲも生やせ。
「ご忠告ありがとう、王様」
「みゃ」
なに、気にするな、若き王よ。
それより、今は月見の続きを楽しむとしよう。
「綺麗だね」
「にゃあ」
うむ、実に見事な月である。





