昔話・金の魔王と黒の魔王③
”金の魔王”率いる魔王軍の人間界への侵攻は、勇者を名乗る謎の男により失敗に終わりました。
魔族の軍勢は大きく疲弊し、誰も彼も精魂尽き果てたような有様です。
魔王アリスは戦いの最後に己の命と引き換えに放つ禁術を放とうとするも、男の手で防がれ術は不発に終わる。そうして、すべての魔力を使い果たしたアリスが気を失ってから二日後の夜。
アリスは魔王城の自室のベッドで目を覚ましました。
まず強く感じたのは全身の倦怠感と極度の疲労。
魔力欠乏の影響により、頭の中に霧がかかったように記憶も思考も曖昧です。
何故自分がここにいるのかも分からぬまま、しばらく呆けたように天井を見つめていました。
三十分ほどもそうしていたでしょうか。
部屋の扉がノックされ、それから手に盆のような物を持った男が部屋に入ってきました。
「やあ、目が覚めたみたいだね」
その男は漆黒の髪と瞳を持った、勇者を名乗るあの青年。
彼の姿を一目見た途端、アリスの意識は一気に鮮明になり、この男が現れてから彼女が気を失うまでの詳細な過程が脳裏に蘇ってきました。
咄嗟に戦闘の構えを取ろうとしましたが、ほとんど回復していない身体では何とか上体を起こすのが精一杯です。ロクに動かせない身体をもどかしく思いながら、せめてもの抵抗のつもりでアリスは精一杯の敵意を込めて男の事を睨みつけました。
当の青年はといえば、敵意に気付いた上で無視しているのか、それとも鈍感すぎて気付いていないのか、まるで意に介する様子もなかったのですが。
「身体はずいぶん良くなって来たみたいだね。倒れた時はほとんど死にかけてたんだけど、もう大丈夫。これに懲りたら、もうあんな危ない術は使っちゃ駄目だよ」
誰のせいでそうなったと思っているんだ、この野郎。アリスは正真正銘命懸けだったというのに、子供の火遊びを叱るような調子で言ってくるのが頭にきます。
せめてもの抵抗を試みようと殺気を込めた視線を向けてはみたものの、そもそも万全の状態で敵わなかった、というか勝負にすらならなかった相手です。今更、視線だけでどうにかできるワケもありません。
「そうそう、お腹は空いてないかな? 病み上がりに重いモノはきついだろうから、スープを作ってきたんだけど」
案の上、殺気を気にした様子は皆無。
それどころか、そんなとぼけた事を言い出したではありませんか。
どこの世界に魔王に料理を振舞う勇者がいるというのでしょう。アリスとしてはふざけるのもいい加減にしろと怒鳴りたい気持ちでしたが、今は大声を出すのもキツい状態なので心の中で言うだけにしておきました。
けれど、どうやらふざけている訳ではなかったようです。
「じゃあ、コレはここに置いておくから。足りなかったら後でおかわりも持ってくるよ」
男はベッドの横にあるテーブルにスープ皿の乗った盆を置くと、そのまま振り返りもせずにアリスの部屋から出て行ってしまいました。
場に残されたのは、アリスとホカホカと湯気を立てるスープのみ。
相手の行動に怒ればいいのか、それとも混乱すればいいのか。もうアリスには自分がどうしたいのかも分かりません。少なくとも感謝をする気だけはありませんでしたが。
もちろん、残されたスープに手を付ける気など毛頭なし。
そう思ってはいたのです、が。
空腹というヤツは気にならない時はまるで気にならない癖に、一度気にしだすと強烈に主張を始めるものです。しかも、ここ最近はあの男との戦闘中や戦闘後に気絶していた時間は元より、それ以前も人間界への侵攻準備で忙しくしていて、まともな食事など最後に食べたのがいつだったかも思い出せません。
そもそも現在の魔界の食料事情の悪化ぶりは、魔界のトップである魔王ですら粗食を余儀なくされるほど。味など二の次三の次。腹が膨れてそこそこの栄養があれば上等で、魔族の中でも力の弱い者たちは雑草や木の皮を柔らかく煮てなんとか食い繋いでいるほどです。
青年が置いていったスープの美味そうな匂いが鼻腔を刺激してきます。
胃をキリキリと締め付けるような空腹感は、いつの間にか痛みを伴うまでに強くなっていました。
ゴクリ、と無意識のうちに喉が鳴る。
アリスは食欲に身を任せてスープ皿に手を伸ばしたい衝動に幾度もかられましたが、魔王としての矜持が勇者から施しを受ける事を拒否します。しまいには、こうして彼女が苦しむことを見越した拷問を仕掛けられているのでは、なんて被害妄想のような考えさえ浮かんできました。
ちなみに、毒が入っている可能性についてはあまり考えませんでした。
高位の魔族には毒物の類は効きが悪いし、そもそも長時間無防備に眠っていたのに何もしなかった所を見るに、少なくとも今すぐこちらを殺すつもりはなさそうだとの判断です。
スープ皿に手を伸ばしては引っ込める。
手を伸ばしては、苦々しい顔で引っ込める。
そんな奇行を幾度と無く繰り返しましたが、結局は……。
二時間ほどして男がアリスの寝室に戻って来た時、そこには綺麗に空になった皿と、ベッドの上で布団にくるまり、食欲に負けた自己嫌悪と羞恥で悶えている偉大なる金の魔王の姿がありました。
以後しばらくの間、男は日に三度ほど食事を作ってはアリスの下へ運んできました。
アリスも最初の何度かは魔王としての意地で食事に手を付けるのを我慢しようとしていましたが、疲弊した身体が栄養を欲しているせいか、あるいは料理の味がなんだかんだで気に入ったのか、いつのまにか素直に食事をするようになりました。
正直なところ、アリスはなんだか餌付けされているような気分でしたが、消耗した力を取り戻すためと割り切ってその考えを封殺。一週間が経過した頃には、十分な食事と睡眠のおかげでアリスの体調はほぼ万全の状態にまで回復していました。
寝たきりの状態では仕方ありませんでしたが、これなら行動に選択の余地も出てきます。
まずアリスが真っ先に考えたのは自称勇者へのリベンジマッチ。
屈辱を晴らすべく再戦を挑もうかとも考えましたが、今のままでは勝ち目がないのは自明。何らかの勝機、相手の弱点などが見つかるまでは大人しく様子見に徹することを決めました。
そもそも、あの男が何故こちらの邪魔をして、それでいて殺しもせず、それどころか食事を振舞ったりしたのか。その理由の一切が不明のままです。
そして、あの時の「僕はキミを助けに来た」という言葉の真意とは?
それらの疑問を問いかけて素直に教えてくれるかは分からないけれども、まずは彼のことを少しでも知らねば何も始まりません。アリスは内心のモヤモヤを一旦封じ、とりあえず話くらいはしてみようかと思いました。
「最初に言った通りだよ? 僕はキミを助けにきたんだ」
いつものように部屋に食事を持ってやってきた男に問いかけると、そんな答えが返ってきました。特にはぐらかしたり誤魔化している気配はありませんが、肝心なことは何ひとつ分かりません。
この青年とアリスは先日の戦いの時が初対面。
何故会ったことも話したこともない相手を助けに来るのか。
それ以前にアリスは一言も、独り言でさえも誰かに助けを求めたことなどありません。弱肉強食の魔界においては、そんな真似は他者に隙を見せるだけの愚行でしかないのです。
「正確にはキミと、キミが命と引き換えに救おうとした魔界を救いに来た、かな。ただし、キミ達とは違うやり方でね」
魔界を救う?
男の様子は真剣で冗談や嘘を言っているようには見えません、が。
それはアリスがやろうとして、よりにもよってこの男の手により失敗した事でもあるのです。
まあ、言いたいことは多々ありましたが、それについては一旦脇に置きましょう。
魔界の荒廃の原因はいくつかありますが、最大の原因は食料の不足です。魔界の荒れ果てた土地では食料になるような動植物は極めて育ちにくく、だからこそ死を賭してまで人間界に攻め入ろうとしたのです。
それとは違う方法で救う、とは?
人間界とは別の世界、他のもっと離れた異世界に攻め入る、とか。
アリスはそう思って聞いてみましたが、答えはハズレ。
「その方法を説明するために、やらないといけない事があるんだ」
そう言うと男はスタスタと城の外へと歩いて行きました。
アリスも慌ててその後を追いかけます。
「こ、これは?」
アリスは意識を取り戻してからずっと自室にいたために気付いてはいませんでしたが、魔王城の前にある開けた場所、広場のようになっているスペースはこの一週間で大きく様変わりしていました。
元々、小石くらいしか落ちていなかった開けた空き地には、所狭しと無数の木箱や布袋が高く積み上げられ、別の場所では大きな鍋がいくつも煮立てられています。
観察するに、どうやらこの大量の物資は殆ど全てが食料のようです。
これだけの食料が何処から運ばれてきたのかアリスが不思議に思っていると、その疑問が顔に出ていたのか男が答えてくれました。なんでも、まだアリスが眠っているうちに彼がどこぞの異世界から買い付けて運んできたのだとか。
これだけの量となると、百人分や千人分ではありません。
そんなにもたくさんの食料を使って、魔王軍の約十万人と、子供や老人や傷病人などの非戦闘員を加えた二十万弱もの魔族を相手にずっと炊き出しをしていたと言うのです。アリスはその言葉を知りませんでしたが、その様子は例えるなら難民キャンプのようでした。
世界の境界を越えるというのは、本来であれば非常に難しいこと。
その難度は境界を越える際の人数や、送り込む物の量が増えるにつれて跳ね上がります。
しかし、この謎の男がこれだけの膨大な物資を短時間で移動させることができるような能力を持っていると分かったのならば、アリスにも先程の魔界を救う方法にも見当が付きました。
目の前の物資の山を運んできたように、きっと他の世界からもっと大量にかつ定期的に食料を運んでくるつもりなのだろう、と。
アリスはその考えを男に話してみましたが、またハズレ。
残念ながら、その予想は正解ではなかったようです。
これらの物資はあくまでも当座を凌ぐ為のつなぎに過ぎず、本命の考えは別にあるのだとか。
その方法をアリスだけでなくこの場にいる魔族たちにも一緒に聞かせるから、ということで広場に魔族たちが集められました。
魔族たちは不安というよりも困惑している者が多い様子です。
なにしろ先日戦って負けた筈の相手に何故か殺されることもなく、それどころか十分な食料を提供されていて、なおかつ対価を求められることもない。その理由が何も分からないのだから当然でしょう。
十万以上もの魔族たちが集まったのを確認すると、男は広場の前にある一際大きい岩の上に立って、よく通る声でゆっくりと話し始めました。
「知っての通り、この間の戦いで僕はこちらの彼女、”金の魔王”率いる諸君ら魔王軍に勝利した。そこまではいいかな? そういうわけで、僕は勝者の権利として新しい魔王になることにしたから。今、この時この場からね。急な話ですまないけど、文句や質問があれば後でゆっくり受け付けるよ」
突然の魔王の交代宣言。
王位を奪われる格好になるアリスも、驚きのあまり何も言えなくなっています。
「それで早速なんだけど、王様らしく新しいルールを決めさせてもらおうか。まずは魔族同士での争い、ならびに異世界の民に危害を加えることを法で禁ずる。それが気に食わない人がいれば、いつでもこの首を獲りに来るといい。僕に勝てれば、その人が次の王様ってことだからね」
挑発的とも取れる物言いですが、彼の実力はつい数日前に見たばかりです。
いったい誰があんなバケモノに挑戦するというのでしょうか。
「ただし、できればその前にちょっと話を聞いてほしい。僕にはこの魔界を救うための策がある。僕をキミ達の王様として認めてくれるなら、一緒にこの世界を救いに行こう」
演説は以上。
あまりに予想外の事態に、広場は静寂に包まれていました。
元々、魔界に王家や王の血筋などという考えはありません。
その時々の時代で突出して強い力を持つ者が、勝手に魔王を名乗っているだけにすぎないのです。よって、先日の戦いで現魔王のアリスに勝利した新チャンピオン、この自称勇者が魔王を名乗ろうと一応の問題はありません。
とはいえ、それですぐに納得できるかといえば話は違います。
特に現魔王であるアリスの心境は、呆れ、困惑、不安、怒り……等々で乱れに乱れ、もう自分でも何を言うべきかもまったく分かりませんでした。
男の発言は言ってみれば王位の簒奪や革命のようなもの。ならば王位を簒奪される側の立場のアリスとしては何が何でもそれを阻止しなければならないのが道理です。
だけど、もし仮に男の言うことが狂人の妄言ではなかったら?
まだ僅かに数日とはいえ、約二十万もの魔族に充分な食料を用意した男の言葉を、ただの戯言と言い切っていいのか。彼のことを信用した訳ではありません。そもそも会って間もない、いまだ何処の誰かも知らない相手なのですから当然です。
しかし、アリスの胸の内ではこの男に対する興味と、魔界を救うという言葉への関心が少なからず芽生え始めていました。ただの妄言と切って捨てるのを躊躇わせる何かを感じていたのです。
こうして魔界に新たなる魔王が誕生しました。
そして魔王を名乗り始めた男は、魔界を救うべく早速行動を開始したのです。
結論から言うと、新魔王の言う魔界を救う策とは惑星環境の改造、地球の科学で言うところのテラフォーミングの事でした。生物が暮らすに不向きな環境、この魔界という世界そのものを根本から造り替えてしまおうと考えていたのです。
まずは痩せて枯れ果てた大地に栄養と水分を与え、植物が生育しやすい環境を作る所から。多くの植物が育った後は、それを餌とする動物を増やす事ができます。
新たな魔王はゲートを開き、異世界より大量の腐葉土や植物の種や苗、鶏や牛、豚、羊などの動物を持ち込み世界の改造に取り掛かりました。魔界の痩せた土でも、微生物を多く含む健康な土をすき込んで、適切な温度と水分を与えてやれば農業に適した土地に早変わり。
一連の手順そのものは子供でもできる単純なもの。
ただし。これを何度も何度も何度も何度も、気が遠くなるほど繰り返さねばなりません。いくら新魔王でも広大な魔界全土でそれやるのは一人では不可能……ではなくとも流石に非効率。
そこで彼は魔族の中から協力者を募ることにしました。
魔族たちへの食事の提供は続けていましたが、その食事の内容を同じ物ではなく、従順で協力的な者ほど多く割り当てるようにしたのです。
魔王のやろうとしていることを表向き非難する者は、彼の圧倒的実力もあってか意外にもそれほどいませんでした。ですが、実のところこの時点では懐疑的な考えをしている者が、アリスも含め大勢を占めていました。テラフォーミングという発想はこの魔界ではあまりに異質かつ先進的すぎて、理解を得られないのも当然です。
しかし、手伝えば食事の量が増えるというのなら話は別です。
魔王はたとえ協力せずとも最低限飢え死にしない程度の食事は保障していましたが、この条件を出すと魔族の半数以上は積極的に協力するようになりました。
元々、凶暴な野生の獣を狩ったり、他者の獲物を奪ったり、いずれにせよ命懸けでないと十分な食料を確保できなかった魔界では、命も賭けずにたかだか一生懸命に土いじりをした程度の事で満腹するだけの食料が得られるというのは破格の好条件だったのです。
加えて特に優秀な者や仕事熱心な者には酒や甘味、煙草などの嗜好品を優先的に与えるようにすると、ごく一部の極端な怠け者以外は、ほとんどが魔王の言う通りに働くようになりました。
労働の内容は痩せて枯れた地面を耕したり、腐葉土や水を撒いたり、魔王が指示した場所に植物の種を植えたりといったものです。まるで人間の農家がするような不慣れな作業に、魔族達は最初のうちは戸惑っていましたが、次第に慣れてくると持ち前の頑強な肉体を存分に生かしてどんどんペースアップ。数ヶ月も経つ頃には魔王城の周囲は見渡す限りの農地になっていました。
魔族達の食料はまだ大半が魔王が異世界から定期的に運ばれてくる食料で賄われていましたが、成長の早い一部のイモ類などはもう少しで収穫ができるまでになっていました。
アリスは他の魔族たちと共に働きながら、新たな魔王となった男の事をずっと見ていました。
自分を負かした相手、魔王としての地位を脅かす相手、本来であれば憎むべき敵である筈の男をどうすべきか、どう接するべきか、考え続けていました。
正直なところ、すでに憎しみや敵意はあまりありません。
かといって、好意を抱いているわけでもありません。
意識すると奇妙に心が乱れ、しかし忘れることなどできる筈も無く、己がどうすべきか思索と観察を続ける日々。おかしな、しかし争いの無い穏やかな日々がずっと続きました。
厳しい寒さの冬が終わり、暖かな春が訪れ、春が終わり、暑い夏が来て、夏が終わり、涼しい秋が訪れ、秋が終わり、冬が来て………季節は一つ、二つと緩やかに巡ります。
五年が経つ頃には、魔界のあちこちで色とりどりの花が咲くようになりました。
つい数年前までは草も生えない荒野だったとは思えない光景です。
八年が過ぎる頃には、開拓された農地から安定して作物が収穫ができるようになってきました。この頃はまだ魔王が独自の食料供給を続けていましたが、その量を少し減らしてもやっていけるようになりました。
最初のうちは食料を得るために、やっていることに疑問を持ちつつも仕方なく働いていた魔族達も、この頃になると大半が自発的に働くように。
ゴーレムやアンデッドを魔法で使役することに長けた者たちが工夫をして、農作業や開拓作業、治水工事などをさせられるようになってくると、不眠不休の労働力によって土地の改造は更に大きく前進します。
改造の対象となるのは地面だけではありません。
砂塵混じりで濁った大気は、風を操る技に長けた者達の手により綺麗になり、肺を病む者の数を大きく減らしました。
暗く濁っていた河川や海の水は、毒や酸の混ざった汚れの酷い所は魔王がゲートを開いて宇宙の彼方に廃棄。代わりに人や動物の住んでいない世界から綺麗な水を運んできて何度も何度も入れ替える事で、魚貝や海藻が住めるようになりました。
そして、十年が過ぎる頃。
アリスが青年のことを真に次なる魔王として認めるキッカケがありました。
とはいっても、何か特別な事件などがあったわけではありません。
ただ、アリスがある事に気付いただけなのです。
そのある事とは、笑顔。
魔界の民が、魔族達が皆笑っているのに気付いたのです。
嗜虐の笑みや、強者へ媚びへつらう粘ついた印象の嫌な笑みとは根本的に異なります。日々の生活が充実しているがゆえに、意識せずとも自然と浮かぶ陽性の笑み。
かつて己が率いていた魔族達のその表情を見て、アリスは心の中で敗北を悟りました。
戦いの強さではなく、民を率いる王としての器で負けたと認めたのです。
己のやり方ならば、魔族たちの空腹を一時的に満たす事はできるかもしれない。しかし、その方法は大きな犠牲を伴い、必然的に未来への禍根と憎悪を残すことになるでしょう。
自分ではこの表情は作れない。
そう悟ったアリスの心は、しかし不思議と晴れやかなものでした。
新たな王への尊敬と、民への愛情に心が満ち満ちていくのが感じられます。
それから間もなく、アリスは曖昧な状態だった魔王位を正式に手放すことを発表し、己が認めた新たな魔王を補佐する事で明日の魔界を作っていこうと決めたのです。
そして月日は巡ります。
いつの間にやら、アリスと魔王が出会ってから百年ほどの時が経っていました。
すでに魔族は魔王による食料の供給がなくとも完全な自活が可能となっており、今では魔王が何もせずともやっていけるだけの社会が完成していました。医療や教育などの福祉面も充実して、多くの魔族が様々なスポーツや芸術などの趣味を楽しみ、肉体的にも精神的にも満たされた日々を送っています。
魔王は仕事も落ち着いて毎日のんびり。
多少の雑務をこなすだけの悠々自適の毎日です。
趣味の料理や園芸にも多く時間を割けるようになってきました。
とはいえ、何もかも自由というわけではありません。
魔界の最高責任者にして全魔族の恩人である彼が出歩くと、あちこちで丁重に歓迎されて大騒ぎになってしまうのです。そんなわけで気軽に外出できなくなってしまったのだけは誤算でした。
魔王になったばかりの頃は、マトモに敬意を持たれていなかったがゆえに気軽に料理を振舞えていたのに、なまじ魔王として認められてしまったがために以前と同じように気軽に魔族たちと接することができなくなってしまったというジレンマ。
料理を作る以上に料理を食べてもらうのが好きな魔王が、その解決策として顔の売れていない人間界に料理屋を開いてみようと考えるのはもう少し先のお話です。