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(8)相合傘と私

 今日は楠瀬課長がF社に出向いての打ち合わせである。

 いつものように書類を作っていたら、デスクの上の内線用電話が鳴った。

「はい。営業二課、石野です」

『楠瀬だ。これからF社に書類とデータを届けてほしいんだが、出てこられそうな人間はいるか?』

 そう言われて周りをザッと見回すが、みんな忙しそうに手を動かしている。私が作っている書類は明日でも十分間に合うので、自分ならば今から抜けても大丈夫だ。

「あの、私でよろしければ」

 そう返事をすると、安堵の色を浮かべた声が返ってきた。

『助かるよ。私のデスクにF社用のファイルがあるから、それを持ってきてほしい。あとは部長が持っているデータをコピーしてきてくれ』

「分かりました、すぐに向かいます」

 私は電話を切ると部長に事情を話し、データをUSBメモリーにコピーしてもらう。そして楠瀬課長のデスクにあるファイルを持つと、自分の席で厳重にビニールに包んだ。お昼過ぎから雨が降り始め、三時を過ぎた頃にはかなり本格的に降ってきたのだ。楠瀬課長をはじめ、営業一課の社員達が大切に作り上げた資料を、ほんの少しでも濡らすわけにはいかない。私は妙な使命感を持って、丁寧に包む。

「石野、直帰で構わないからな」

「分かりました」 

 部長に返事をして、私は通勤に使っているカバンを持ち、中にデータを取り込んだUSBを濡れないように慎重を期して一番奥に入れる。

 そしてビニールで何重にも包んだファイルを手に、営業部を後にした。


 タクシーを使っていいと部長に言われたので、社の目の前まで来てもらう。そのおかげで、F社にはほとんど濡れることなく着く事が出来た。

 受付で自分の名前と、打ち合わせで訪れている楠瀬課長の名前を告げると、程なくして課長が姿を現す。

「助かった。思いのほか話が順調に進んだおかげで、新しい資料が必要になったんだ。いい話は出来るだけ先に進めておきたいからな」

「お役に立てたのなら良かったです。では」

 頼まれた物は渡したので、さっさと帰ろうと頭を下げてF社の出入り口に向かおうとすれば、パッと手首を掴まれた。

「あの、何か?」

 首を傾げて尋ねれば、

「もうすぐ打ち合わせが終わるから、一緒に帰ろう」

 と、笑顔で言われる。

「いえ。部長から直帰の許可を頂いているので、このまま家に帰ります」

 そう答えれば、課長は少し眉を顰めた。

「帰るにしても、今が一番酷い降りだぞ。予報ではもうしばらくすれば雨も弱まるといっているから、それから帰ればいい」

 課長に言われて外を見れば、さっきよりもかなりの土砂降りになっていた。来る時はタクシーを使えたら良かったものの、この状況ではタクシーを呼びたくても捕まらないだろう。それに今、駅に向かったところで、傘では下からの跳ね返りが防げない。たいした服でもないし、高価な靴でもないが、泥水に濡れた足元で電車に乗ることは、ちょっと嫌だと思った。

「そうですね。では、このロビーで少し待たせていただいて、雨が落ちついたら帰ることにします。どうぞ、ご心配なく」

 この後には特に急ぐ用事もないので、小降りになるまで待つことは問題ない。出口に向かおうとすることを止めたのだが、課長の眉はいまだに不機嫌そうに寄っている。

「内合わせが終わったら、俺と一緒に帰るんだぞ。いいな?」

 私の手首を掴んでいる課長の手に幾分力が入った。この手は何なのだろうか。念を押すように、私の顔を覗き込む課長の仕草の意味も分からない。

「打ち合わせの後で社に戻る用事がないようでしたら、課長は車でご自宅に向かえばよろしいかと思います。私は電車で帰りますから」

 首を捻りながら淡々と答えると、課長の眉間の皺がいっそう深くなった。

「いいから、とにかく待っていろ!絶対に一人で帰るなよ!絶対だぞ!」

 強い口調でそう言うと、課長は私の返事も聞かずにファイルを手に急いで戻っていってしまった。

 その背中を呆然と見送りながら、私はため息をつく。

「小さな子供じゃないんだから、一人で帰れるんだけど。それに濡れたとしたって、家に着いたらすぐお風呂に入ればいいだけのことだし」

 課長の気遣いはよく分からない。だが、上司に『待っていろ』と言われた以上、勝手に帰ってはいけないだろう。

 私はロビーの端に置いてある長いすの一つに腰を掛け、窓ガラスを打ち付ける雨の雫をボンヤリと眺めていた。


 それから二十分ほどして、課長がこちらにやってきた。

「待たせて悪かったな。さ、帰ろうか」

「はい」

 私はバッグと傘を手に立ち上がり、課長の後をついてゆく。

 どうやらこの雨は一時的な通り雨だったようで、この頃には雨はだいぶ小降りになっていた。しかし、傘を差さずに歩けるほどの弱い降りではない。

 私はバッグを肩に掛け、傘に手をやる。そこで、ふと隣にいる課長に目を向けた。

「あの、楠瀬課長。傘をお持ちではないんですか?」

 どう見ても、彼はビジネスバッグ以外の物を持っている様子がない。折りたたみの傘すら持っていないようだ。

 私の問いかけに、課長は困ったように笑った。

「F社に着いた時は、霧雨程度でね。だから、車に傘を置いてきてしまったんだよ」

「そうですか」

 私はちょっと考えて、課長に手を差し出す。

「では、車のカギを貸してください。課長の傘を持ってきますので」

 駐車場まで走っていけば良いだろうが、今日の雨はとても冷たく、濡れることはおすすめできない。そしてF社との商談が大詰めに来ているこの時期に体調不良で話が中断しては、我が社にとっても良くないことだろう。

 そう考えての提案だったのだが、課長は何を思ったのか私の手から傘を取った。

「それでは時間の無駄だ。こうしたほうが早い」

 そう言った課長は右手で私から傘を奪い、何のためらいもなく左手で私の肩を抱き寄せた。

「ええっ」

 驚いて声を上げる私に構うことなく、課長は身を寄せてくる。

「女性物の傘はやっぱり小さいな。もっとくっつかないと二人とも濡れてしまう」

 そのセリフと共にグイッと肩を抱き寄せられたので、私の右半身は楠瀬課長の左半身にピタリとくっついてしまう。

「ちょ、ちょっと、課長!?」

 驚いて離れようとすれば、その前に更に強く抱き寄せられ、結局元の位置に戻ってしまった。

「ほら、行くぞ」

 肩に回された腕に促され、戸惑いのまま歩き始める私。


―――な、なに、この状況!?


 頭が混乱しながら歩いているので、足元に転がっていた小石に気づかずにパンプスのかかとで思

い切り踏んでしまった。その拍子にバランスを崩してしまう。

「きゃっ」

 ガクン、と膝が折れてそのまま濡れた路面にしりもちをついてしまった。……と思ったのだが。

「危ないっ」

 体が強く引き寄せられ、課長の胸にポスンと収まる。私は課長のスーツに正面からしがみつく様な体勢だった。


―――どういうこと!?


 突然の展開についていけない私は、頭の中が?で一杯。そこに、

「ああ、驚いた。石野、大丈夫か?」

 と、覗きこんでくる課長の顔に更にびっくり。こんな近いところに顔があるなんて。

 思わず仰け反ろうとしたら滑る路面に足を取られ、短い悲鳴と共に腰を抱かれて、課長の胸に逆戻り。

 ギュッと強く抱きしめられ、課長の腕の強さにドキドキと心臓が早鐘を打っているのを感じていると、頭の上からため息交じりの囁きが降ってくる。

「意外とそそっかしいんだな、石野は」

 クスクスと笑いながら、課長が楽しそうに言う。

「す、すいません。ご迷惑をお掛けして……」

 もうすぐ三十にもなろうという女が、こんなにも落ち着きがなくて面目ない。居たたまれなさに顔を上げられずにいると、課長が私の背中をポンポンと叩く。

「ちっとも迷惑じゃないから気にするな。私が傍にいるのに石野に怪我をさせたら、自分が許せなくなるところだったよ」

 そう言ってくる課長の優しい声に、私の心臓がドキンと大きく跳ねたのだった。

 

 二度もよろけたせいで、課長は私を相当危なっかしい人間だと認定したらしく、F社を出た時よりもかなりガッチリと肩を抱かれている私。

 おかげでよろけて転ぶ心配はないが、こんなにくっついていては歩きにくいだろう。

「あの、もう、大丈夫ですからっ」

私は何度となく楠瀬課長から離れようとしているのだが、課長は肩に回した手の力を少しも緩めてくれない。

「いや、二度あることは三度あるっていうだろ。だから、このまま歩いていこう。自分の目の前で部下に怪我をさせたとなったら、私の監督不行き届きだからな」

 そう言われてしまえば、これ以上逆らう術はない。

それにしても、いい年の女が、なんて惨めな格好だろう。課長の優しさはありがたいが、自分が情けなくて恥ずかしくて、穴があったら入りたいほどだ。


―――うう、私のバカ。


 耳まで赤くして俯く私は、胸に抱いたバッグを握り締め、早く車に着くことを心の底から願っていた。



≪SIDE:課長≫


 俺に肩を抱かれ、真っ赤になって俯いている彼女がとんでもなく可愛い。艶々とした黒髪からわずかに覗く耳までも羞恥に染まっていて、まるで食べてほしそうに赤く色づいている。


―――キス、したいな……。

 

 その耳にも。そして、緊張に引き結ばれている愛らしい唇にも。

 このまま傘を放り出して両腕で強く抱き寄せ、驚いた瞳を見つめながらキスしてやろうか。優しく唇を食み、柔らかな舌を味わいたい。絡めて、吸って、舐って、思うままに彼女の口内を奪ってやりたい。

 彼女の涼やかな一重の瞳は驚きで一層大きく開かれ、嬉しそうに微笑む私をそこに写すだろう。そうすれば、少しは男として意識してもらえるだろうか。上司ではなく、一人の男として意識してもらえるだろうか。

 だが、恥ずかしがり屋の彼女のことだ。こんなところで抱きしめてキスをしたら、きっと俺を避けるようになるだろう。口を利いてもらえなくなるどころか、顔すら合わせてもらえなくなる可能性が大いにある。

 それでは駄目だ。そんなことになっては、絶対に駄目だ。


―――仕方がない。もう少し、時期を待つか。


 今はこうして彼女の肩を抱いて、横を歩くだけで我慢しよう。


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