(7)転職と私
課長が見えたいうことで、私はその場を退席する。
扉のところで頭を下げる私に、部長はヒラヒラと楽しげに手を振ってきた。
「石野君、いい返事を待ってるよ」
「はい」
もう一度頭を下げて、私はミーティングルームを出た。
営業部に戻って書類の整理や備品の在庫確認などをし、一時間ほど経ったところで楠瀬課長が戻ってきた。
課長が席に戻るや否や、私に声をかけてくる。
「石野、ちょっと来てくれないか」
私はデスクの上に広げていた書類を、見苦しくない程度に一まとめにして席を立つ。そのまま席を離れようとした私のブラウスの袖口を、上条さんが指先でツツッと引っ張った。
「課長、ちょっとだけ怖くないですか?もしかして石野さん、阿川部長に何か失礼なことでもしたとか」
私を心配するような素振りではあるが、彼女の目は明らかに楽しそうだ。
そんなに私の失敗が嬉しいのだろうか。心配しなくても、私は上条さんの足を引っ張るつもりなどないし、地味な私が仕事においても女性としても、彼女のライバルになるなどありえないのに。私のような女を蹴落として、上条さんにとって何か意味があるのだろうか。さっぱり分からない。
「部長はいつもと変わりないように見えたんだけど。でも、そうであれば誠心誠意、謝るしかないわ」
「そうですね。……謝って許してもらえれば良いですけど」
ニコッと可愛らしい笑顔を向けてくる上条さんに私は何も言えず、足早に課長のところに向かった。
二人で廊下を歩き、非常階段に通じる突き当りの扉の前にやってきた。ここは人通りがなく、私たちの話を窺う人もいない。
てっきり休憩室にでも行くかと思ったのに、全く人気のないところに連れてこられて、私の全身が硬くなる。
―――人に聞かせられないほど、私は大失敗をしたの?
青い顔をして震えだす私に、課長が心配そうに声をかけてきた。
「どうした?顔色が悪いぞ」
一歩私に近付いた課長が、こちらの顔色を心配そうに覗き込んでくる。
こちらを気遣う課長の目を、私は怯えたように見つめた。
私と話す阿川部長は楽しそうにしていたけれど、本当は心の中で『失礼な女だ』と思うようなことをしでかしたかもしれない。浅慮な私では、自分のどの言動に非があったのか見当が付かなかった。
私はゴクリと息を呑んだ後、思い切って口を開く。
「……私は、一体どれほどの失態を犯したのでしょうか?」
「え?」
課長が唖然とするので、もう一度尋ねた。
「阿川部長が私のことでご立腹されているから、課長はこうして私を呼びだしたんですよね?」
―――私はどう責任を取れば許されるの?ううん、そもそも私なんかが責任を取れるの?これでF社との取引が台無しになったら、私はどうしたらいいの?
緊張で体が強張り、握り締めた拳にギュッと力が篭る。
すると課長はフッと息を吐いて、わずかに苦笑を漏らした。
「何を言ってるんだ。部長はちっとも怒っていないし、今日もご機嫌で帰っていかれたぞ」
「本当ですか?」
思わず課長に詰め寄った。必死な私に楠瀬課長はちょっとだけ目を丸くした後、あははと声を上げる。
「嘘を言って何になるんだ」
クスクスと笑い続ける課長の言葉は本当らしい。どうやら阿川部長に不快な思いをさせたのではないようで、私はほんの少しだけ緊張を解き、ホッと息を吐く。
課長は笑いながら、やれやれと言わんばかりに軽く肩を竦めた。
「まったく、石野は相変らず自分に自信がないんだな。般若と呼ばれる阿川部長にあれほど気に入られる人間は、そう滅多にいないんだぞ」
「阿川部長はとても懐の広い方ですから、私のような人間にも優しく接してくださるんです。気に入られるだなんて、畏れ多いです」
「そんなこと言わずに、もう少し自分に自信を持て」
目を細めてポンッと私の肩を叩く楠瀬課長の手の平の感触に、私はようやく全身に入っていた力を抜いたのだった。
だが、それはそれで疑問が残る。
「あの、部長が怒っていないのだとしたら、どうして私は課長に呼び出されたのでしょうか?」
「ん?あ、まぁ、私の個人的な興味というか。石野がミーティングルームを出る時に、阿川部長が“いい返事を待ってるよ”と言ったのが気になってね」
「それは……」
説明しようとして、私はとっさに口を噤んだ。
職場で、しかも打ち合わせが目的で訪れた阿川部長とお見合いの話をいていたなんて知られたら、あまりいいものではないかもしれない。場を繋ぐ世間話なら許されるだろうが、いくら時間があったとはいえ、そんな個人的な話はミーティングルームでするものではないだろう。
私は視線を伏せ、静かに首を横に振った。
「いえ、大したことではないんです」
そんな私に、怪訝な声が返ってくる。
「大したことないはずはないだろう。あの阿川部長が、返事を待っていると言ったんだぞ」
課長はここで急に黙り込んだ。そして私の顔をじっと見ながら、『まさか……』と呟く。
「石野、F社に転職するつもりなのか!?」
ガバッと大きな手が私の肩を掴み、グッと引き寄せる。途端に課長と私の顔が接近した。
「阿川部長に引き抜かれて、それでF社で働くのか!?どうなんだ、石野。正直に話せ!」
驚愕と呆然が入り混じった奇妙な表情の課長が、真剣な表情で言い募る。が、私には何がなんだかさっぱり分からない。
「引き抜かれて転職?それこそまさかですよ。どうして単なる事務員の私が、大手総合商社のF社へ転職出来るんですか?そんなお話は、一切頂いていません」
きっぱりと告げれば、課長は大きく息を吐いて私の右肩に額を乗せてきた。
「ああ、違うのか。驚いた……」
クタリと頭を肩に凭れさせ、課長は再び深く息を吐く。
驚いたのはこっちだ。一体何をどうすれば、そんな発想が出来るのだろうか。課長の思考回路は意味不明だ。
そんなことより、この体勢をどうにかしてほしい。私の右耳に課長の髪が当たり、ムズムズする。流石に上司の頭を払いのけるわけにはいかないので、早いところ頭をどかしてほしいのだが。
「あの、課長?」
そう呼びかけると、ハッとしたように楠瀬課長が私の肩から顔を上げた。そして困惑気味の私の顔を見て、課長はバツが悪そうに数回瞬きをする。
「すまない、つい」
「いえ」
自分よりも随分高い位置にある瞳は、私には読み取れないような複雑な色を浮かべている。その瞳を見上げながら、私は首を横に振った。
それにしても、課長は“つい”で、女性に触れてくるような軽い人だっただろうか。いや、それほどまでにパニックに落ちいったということだろう。
何故そこまでパニックになったのは、皆目見当は付かないが。
―――ああ、そうか。知らないところで自分の部署の人間に引き抜きの話があったら、それは驚くわよね。しかも誰もが知るF社ともなれば、驚いても当然だわ。
うんうんと心の中で頷きながら、しきりに『よかった、石野がここからいなくならなくて』と小声で繰り返す課長を見ていたのだった。
私には理解できない動揺から立ち直った楠瀬課長は、柔らかい口調で尋ねてきた。
「それで結局、阿川部長との話は何だったんだ?」
改めて訊かれ、私は少し困ってしまった。
「あの、個人的なお話ですので、内容についてはちょっと……」
そう言い淀むと、課長は渋い顔をする。
「個人的な内容?」
「はい。もしかしたら、いずれ阿川部長からお話があるかもしれませんが、それまでは私の口から申し上げるのは少々憚られますので」
お見合いの話がどうなるのか今の時点では全く分からないから、私が軽々しくしゃべっていいものではないだろう。滋さんとの食事も実現しないかもしれないのに、『お見合いします。部長の息子さんと食事をします』という話が万が一にもKOBAYASHI社内に広まってしまったら、阿川部長もいい顔をしないはずだ。
これ以上は口を開こうとしない私に、課長は
「そうか」
と、短く言った。
「仕事中に声をかけて悪かったな。部に戻ってくれ」
「はい、失礼します」
課長に頭を下げて、私は小走りで営業部へと向かう。
今日の楠瀬課長は、なんだか様子がおかしい。穏やかな表情が崩れたり驚いたりして、いつもとはまるで様子が違っている。
―――なんだろう。ストレスでも溜まっているのかしら?
課長という管理職は大変なんだなぁと思いながら、私は営業部への道のりを急いだ。