(5)夕食のお誘いと私
作中、時系列のミスがあり、一部改稿。
会社からの帰り道。駅に向かって歩いていると、聞き覚えのある声に呼び止められた。
振り向いてみれば、少し離れた所に阿川部長が立っている。
「お疲れさん」
そう私に声をかけてきて、にこやかに手を振っていた。
私は慌てて駆け寄り、頭を下げる。
「お疲れ様です」
こんな時間に、部長はこんな場所で何をしているのだろうか。今日、この取引先が会社に訪問してくる予定はなかったはずだが。
頭の中でスケジュールを思い返していると、阿川部長が「違う、違う」と苦笑い。
「実は、カミさんがプリンを食べたいと言ってな」
「プリン、ですか?」
「ああ。なんでも、この近くにあるデパート内の店らしいんだが。何処のデパートか忘れてしまって、どうしたものかと困っていたんだよ」
阿川部長は恥ずかしそうに頭を掻いた。年齢相応に顔へ刻まれた皺のせいで怖そうに見えるが、こういった仕草は割合似合っていて微笑ましくさえ思える。
私は小さく微笑んだ。
「失礼ですが、店名は覚えていらっしゃいますか?」
そう尋ねると、部長は首を捻りながら必死に思い出そうとする。そしてしばらくすると、おもむろに口を開いた。
「確か、ブルー……、そうそう、ブルーフラワーって言ってたな」
ブルーフラワーといえば、この辺りに勤めるOLの間で有名な洋菓子店だ。上質の卵黄と牛乳で丁寧に作られたプリンは少々お高いが、それでも食べる価値は十分にある。
「ああ、それでしたらもっと駅寄りのデパートです。たまにですけれど、私も買いに行くんですよ。よろしければ、ご案内しましょうか?」
私の申し出に、部長はホッと表情を緩めた。
「本当かい?そうしてくれると助かるよ。何しろ、何処に出かけるのもカミさんに案内してもらっているから、ちっとも道が分からないんだ。では、案内をよろしく頼む」
「はい」
私は返事をすると、部長を連れ立って歩き始める。
「店を知っている石野君に会えて、本当によかった。今日はカミさんの誕生日でね。土産にケーキを買って来ようかと言ったら、この店のプリンが食べたいと言われたんだ。“帰りに買ってくる。楽しみに待っていろ”なんて今朝は大きな顔して家を出たもんだから、買って帰らなかったらどうなることかと思って」
大げさに肩を震わせる部長の様子に、思わず笑ってしまう。
「奥様を大事にされているんですね」
般若と呼ばれる部長も、奥様には弱いらしい。
微笑ましい夫婦愛の一幕を窺えて、私は微笑を浮かべてそう言えば、
「仕事しか脳のない私と、文句も言わずに長年連れ添ってくれているんだ。この私が唯一かなわない大切な人だよ」
と、嬉しそうに答えてくれる。
旦那様である阿川部長に必要とされる奥様は、きっと素敵な女性だろう。
―――いいなぁ。結婚して何年も経つだろうに、こうして変わらずに大切にされるなんて。
私は、『そんなことは、自分の身に一生起こりえないだろう』と、心の中で苦く呟いた。
「ありがとう、石野くん。君のおかげで、本当に助かった」
無事に店まで辿り着き、そして目当てのプリンを購入した部長に何度も礼を言われる。案内しただけなのにこんなに感謝されると、かえって恐縮してしまうのだが。
私は部長に深く頭を下げた。
「いえ。それでは、これで失礼いたします。奥様によろしくお伝えください」
自分の役目は済んだのでお暇しようとすれば、
「良かったら、一緒に夕飯を食べないかね?」
と、誘われる。
「さっきも言っただろう、カミさんの誕生日だって。私には息子がいるんだが、きっと今日も仕事で帰りが遅い。二人きりでは、少々淋しい気がしてな」
「ですが、夫婦水入らずでお過ごしになるのもよろしいかと」
仲がいい二人の食事に、私がいたら邪魔ではないだろうか。
そう思って、断りを入れたのだが。
「いや、ぜひ来てほしい。実は、私たちはずっと娘がほしいと思っていてね。まぁ、息子達はいい子に育ってくれたから不満はないのだが、それでも、やはり娘がいたらなぁと思う事があるんだよ」
「でしたら、息子さんたちがお付き合いしている女性をお呼びしてみては?将来の娘さんになる方かも知れませんし」
我ながらなかなか気の利いたことを言ったと思ったのだが、部長は思いっきり苦笑い。
「実は、うちの息子達には今、彼女と呼べる人がいないようなんだよ。三人も息子がいて、誰一人彼女がいないなんて、少々情けないことだが」
「あ、その、別に情けないことでは……。ええと、お付き合いするにも、色々タイミングもあるでしょうし。そ、それに、人の出会いは簡単なようで、難しいと思いますし」
ちっとも気の利いたセリフではなかったことに、少し焦ってしまう私。
その場をうまく取り繕うことが出来ない私は、思わず、
「宜しければ、ご一緒させてください」
と、思わず言ってしまった。
途端に部長の顔が晴れやかになる。
「本当かい、石野くん」
勢いで口にしまったとはいえ、取り消すことはできない。
「は、はい……」
私は力なく頷くことしかできなかった。
デパートを出て、タクシーで部長のお宅に向かう。
取引先の営業部部長だなんて、私からしたら雲の上の存在の人なのだが、阿川部長はとても話が上手くてちっとも気詰まりを感じない。
まるで父親のように思え、私も次第にリラックスしてゆく。
お宅に着いて、玄関まで出迎えに来てくれた奥様に挨拶をすれば、飛び上がらんばかりに奥様が喜ぶ。
「私のお誕生日に娘を連れてきてくださるなんて、本当に嬉しいわ。何よりのプレゼントよ、あなた」
奥様が嬉しそうに声を上げた。その様子に、かえって申し訳なくなる。
―――大事な誕生日に、私みたいに地味で可愛げのない娘で良かったのかなぁ。
「阿川部長のお言葉に甘えて、図々しくお邪魔させていただきました」
恐縮しながら深々と頭を下げると、
「お邪魔だなんてとんでもない。さぁ、石野くん。上がりたまえ」
喜ぶ奥様の様子が嬉しくてたまらないと相好を崩した部長に促され、私はパンプスを脱いだ。
誕生日を迎える奥様が待つお宅にお邪魔するとなれば、手土産の一つも用意しなくてはならないと、私は部長がタクシーを呼ぶために電話を掛けている間に、大急ぎで同じ並びにある紅茶専門店に走った。
悩んでいる時間がないので、渋みが少なくて飲みやすいけれど、香りが華やかなセイロンティーを選ぶ。私の好みで選んでしまったが、この店のセイロンティーは癖がないので誰が飲んでも美味しいと思う。
食事の前にその茶葉が入った包みを差し出せば、奥様はさらに嬉しそうな声を上げた。
「わざわざありがとう。私、このお店のセイロンティーが大好きなのよ。石野さんと気が合うわね」
ニッコリ笑って、丁寧な仕草で受け取ってくれた。
「喜んでいただけて、私も嬉しいです」
笑顔には自信がないが、精一杯にこやかに返す。
その様子を嬉しそうに見守っている阿川部長。
「うん、うん。やはり娘がいるというのはいいな」
「本当ね。石野さんみたいに落ち着いていて、気配りの出来る娘なら大歓迎だわ」
身に余るほど褒められて、私は返って身の置き所がない。
「いえ、そんな、私はつまらない人間ですので……」
恐縮のあまり俯いてしまうと、部長がバンバンと私の肩を叩く。
「何を言うか。普段の君を見ていれば、君がどんなに慎ましやかで素晴らしい女性なのかよく分かる。君はもっと自分に自信を持つべきだ」
「ですが、私は慎ましいというより、自分の意見を強く言えないだけでして」
おずおずと口を開けば、
「そんなことないわよ。石野さんは確かにあまりお話しが得意そうではないけれど、自己主張と我が儘を取り違えている人とは大違いだわ。あなたとお話をしていると、とても気分がいいの」
奥様が更に褒め上げる。
「そうだな。石野君は単に相づちを打つだけではなく、こちらの話をきちんと聞いてくれる」
なんだかありえないほど二人に褒められて、ますます私はどうしていいか分からない。
「恐縮です……」
顔を赤くして深く俯けば、
「やっぱり、娘は可愛いわね」
「そうだな」
と、部長夫妻の満足そうな声が耳に届いて、ますます赤くなってしまったのだった。
場を盛り上げる事が上手な部長のおかげで楽しく食事をしていると、玄関が開く音と共に『ただいま』という声が聞こえた。
「あら、珍しい。滋がこの時間に来るなんて」
奥様がそう呟くと同時に、リビングの扉が開いて男の人が顔を出した。部長の若い頃を思わせる凛々しい顔つきの男性が、こちらを見て首を傾げる。
「若い女性だなんて、珍しいお客さんだね」
私は慌てて椅子を立ち、頭を下げた。
「阿川部長にはいつも大変お世話になっております。KOBAYASHIの営業二課に務めます石野と申します。今日は部長のご好意で、お食事に招待していただきました」
再度頭を下げた私の様子に、息子さんはニコリと笑う。
「ご丁寧にどうも。随分礼儀正しい人だな」
その言葉に、また部長夫妻が盛り上がる。
「そうなんだよ。石野君は本当に感じのいい女性なんだ」
「私、すっかり気に入ってしまったのよ」
「あ、あの、いえ、その……」
ようやく治まったと思えた顔の赤みが、再び戻ってくる。
困ったように眉を寄せる私に、息子さんが苦笑した。
「父さん達、褒めるのは良いけどそのくらいにしてあげたら。石野さん、恥ずかしくてどうしていいのか分からないって顔をしてるよ」
「なんだ、滋。褒めて何が悪い?」
「悪くはないけど、程度が超えると相手が困るだけだ。恥ずかしがり屋な石野さんにはね」
息子さんの言葉に、奥様が口元を手で覆う。
「あら、ごめんなさいね。私たち、嬉しくって、つい」
ションボリと肩を落とす奥様に、
「そ、そんな、謝らないでくださいっ」
顔の前で小さく手を振って、気にしないでくれと訴える。確かに褒め言葉の大盤振る舞いで困っているが、けして嫌な気分ではないのだ。ただ、恥ずかしくてどうしていいか分からないだけで。
フゥ、と息をついて、部長夫妻の話を止めてくれた息子さんに、お礼の意味で小さく頭を下げた。
「まぁ、いいから座ったら?」
苦笑混じりに促されて、私は静かに腰を下ろす。
息子さんは私の正面の席に座った。
「それにしても、顔を出すときはいつも十時近くなのに、珍しく早いのね。明日は槍でも降るのかしら」
クスクス笑いながら、奥様は息子さんにご飯とおかずを持ってくる。それを受け取りながら、息子さんが軽く睨んだ。
「父さんと母さんの二人だけじゃ淋しい誕生日だろうと思って、大急ぎで仕事を片付けて駆けつけた息子にそんなこと言うなよ」
「母さんのことを思うなら、誕生日だけじゃなくて普段からそういう態度でいれば良いだろう。私のようにな」
そう言って、得意げに胸を張る阿川部長。
「はいはい。父さんは母さん命だもんな。ったく、結婚して何十年も経つのに、相変らずだ。見ているこっちが恥ずかしいよ。石野さんもそう思うだろ?」
「え?わ、私は、お二人のことをとても羨ましく思います」
私の言葉に、
「ほら見ろ、滋。私が母さんを大切に思う気持ちは、立派なものなんだぞ!」
阿川部長は拳を強く握り締める。
そんな部長を見て、息子さんが肩をすくめた。
「分かったから、子供みたいにムキになるなって」
「もう、二人とも。私の誕生日なんだから、言い合いなんてしないで。さ、滋も食べちゃいなさい」
奥様の優しい仲裁に、部長と息子さんは大人しくなるしかなかったようだ。
その後も会話が弾み、私は楽しい夕食の時間をすごす事が出来たのだった。
楠瀬課長にライバル登場?(苦笑)