(4)休憩とお茶くみと私
課長がちょっぴり動きます。ほんのちょっぴりですが(苦笑)
何の滞りもなく無事に書類の提出が済んだというのに、少しだけ苦い思いを抱えながら廊下を歩く。
―――ちょっとだけ、一息入れようかな。
温かい紅茶を飲めば、この鬱屈とした気分が少しは晴れるかもしれない。私は社員通用口脇にある飲み物の自動販売機へと向かうことにした。
ボンヤリ歩いていると視線の先にある扉が開き、外回りから返ってきた楠瀬課長が入ってくる。
「お疲れ様です」
私は少し脇に寄って、彼に道を譲った。しかし課長はそのまま通り過ぎることなく、私の方に近付いてくる。
―――あれ?どうしてだろう。
そう思った時、自分の背後に飲み物の自動販売機が置いてあることに気がついた。
―――そうか。課長は飲み物を買いたいのか。
私は慌てて別の方向に避けた。が、やはり課長は私の方にやってきたのだ。
何故だろうかと首を傾げていたら、課長は私の正面に立った。
「ご苦労さん。総務部に行った帰りか?」
そう言って、優しく微笑みながら話しかけてくる。厳しいだけではなく、優しい一面もある課長は、部下を労う事を忘れない紳士だ。
「え?あ、は、はい。部長に頼まれて」
「頼まれたのは、提出だけじゃないだろ?どうせ、書類の大半は石野が作成したんじゃないか?」
なんだか秘密を暴くいたずらっ子のような顔で、小さく笑っている楠瀬課長。
私はどう答えるべきか分からなくて黙ってしまうと、課長は『分かっている』とでも言いたげに肩を竦めた。
「ったく、部長のくせに。部下に仕事を押し付けるなんて……。まぁ、部長の気持ちも分からなくもないが」
「ですが、そういった細かい作業も私の仕事ですし」
当たり前の顔をしてそう告げたら、課長の片眉がひょいと上がる。
「お前は知らないのか?」
「何をでしょうか?」
はてなマークを顔に貼り付けて首を傾げれば、楠瀬課長はゆるりと目を細めた。
「石野に書類を頼めば、総務の佐々木君も文句なしに受領するってことだ。急を要する書類であれば、なおさらだ」
「……はぁ?」
―――私が何?佐々木さんがどうしたの?同期のよしみで、佐々木さんがミスを見逃してくれるという意味?……じゃ、ないわよね。
やっぱり意味が分からなくて再び首を傾げると、課長がポンッと私の左肩を叩く。
「つまり、それだけ石野の事務作業を頼りにしているって話だよ」
「そう……でしょうか」
いまいち課長の言葉に納得できない。
いや、私を頼りにしてくれているのは嬉しいけれど、書類なんて誰が作ってもそんなに大差はないだろうし、私が特別などとはありえない。言い回しの不備や誤字のないように気を配る程度のことしか、私はしていないのだけれど。
―――体のいい下働きって感じじゃないのかなぁ。どんな仕事でも、私は上司に逆らうことはしないから。
私の価値など所詮そんなものだと、よく分かっている。
だから、課長の話を信じる事が出来ずに黙ってしまうと、課長は苦笑を漏らした。
「……驕らないところが、ますます好みだな」
考え事をしていたので、課長が不意に漏らした呟きを聞き取る事が出来なかった。ハッと我に返り、気を引き締める。
「申し訳ありません。今、何と仰いましたか?」
上司の前でボンヤリするなどとは、あるまじき失態だ。私は背を伸ばし、改めて課長に向き直る。
しかし、課長は
「いや、聞かせるほどのことではないんだ。……今は」
と、返してきた。
―――『今は』って、どういうことだろうか。
訊き返したところで、明確な答えなど聞かせてもらえそうになかった。この課長は、言いたい事があればその場ではっきり言う人だ。こうして言葉を濁すということは、教えてくれるつもりなどないということ。
―――単なる事務員には関係ないってことかな?
私は自分の中でそう結論付けて、追求することはやめた。
そんな立ち話をしていたら、社員通用口が開いて帰ってきた社員達が入ってきた。それと同時に風が勢いよく吹き込む。
「きゃっ」
とっさに髪を押さえたが、纏めていない髪が舞って頬にかかった。
「これから天気が崩れるらしい。ところにより突風が吹くって、ラジオの天気予報が言ってたよ」
吹き込んだ風に苦笑いを浮かべる課長が、『早くドアを閉めろ』と、背後を振り返って声をかけている。
「そうでしたか」
―――なら、今日は寄り道しないでさっさと帰ったほうがよさそうね。
折りたたみ傘はロッカーにあっただろうかと思い返していると、課長が右手を伸ばしてくる。いきなりのことにドキッと心臓が大きく跳ね、ギクリと体が固まった。
そんな私に構うことなく、
「髪が……」
と言って、頬にかかっている私の髪を指でそっと払った。
男らしくて無骨な大きい手だが、その仕草は驚くほどに優しい。少しかさついた指先がゆっくりと頬の上を滑る。
二度、三度と指が動き、髪型を整えるというよりは触れているという感じだった。
突然の出来事に唖然としていると、課長がニコッと笑った。
「これでよし」
その言葉で我に返る。
「も、申し訳ございません!このようなことをさせてしまいまして」
私は小さな子供ではないのだ。乱れた髪を上司に直させるなどと、部下としてあまりに情けない。
頭を下げる私に、課長は小さく笑う。
「気にすることじゃない。俺が勝手にしたことだ」
「ですが……」
自分の失態にションボリと眉を下げていれば、
「むしろ石野の髪と頬に触れて役得だぞ」
と課長が言う。
―――私に触れて役得?
盛大に首を傾げるも、優しい上司がこれ以上落ち込まないようにと気を遣ったゆえの言葉なのだと結論付けた。
「ところで、石野はどうしてここに?」
「あの、少しだけ休憩しようと思いまして」
「ああ、なるほど。それで、石野は何を飲むんだ?」
「私は……」
“ レモンティーを”と答えようとしたところで、慌てて口をつぐんだ。
おそらく課長は『1人だけ休憩を取るなんて何を考えているんだ?』と、言外に含ませたのかもしてない。
左手首にある時計に目をやれば、3時を過ぎている。
―――『お茶の時間なのに上司に飲み物を出さないとは、随分いい度胸だな』ってことが言いたいのよね!?
私は青くなって、視線を泳がせる。
―――いけない。私は雑用をこなすくらいしか出来ないのに……。いくら気分が晴れなかったとはいえ、自分を優先しては駄目だわ。
自分の立場を一瞬でも忘れたことを恥じて、さらに青くなる。
「石野?」
怪訝な顔をして私を呼ぶ課長に、私は深く頭を下げた。
「部長達にお茶を出しますので、失礼いたしますっ」
言い捨てるように告げると私はクルリと向きを変え、小走りでその場を去る。
慌てている私の耳には、
「せっかく二人きりで休憩しようと思ったのにな」
と、淋しげに呟く課長の声は届かなかった。
営業部に戻って書類の提出が済んだことを部長に報告し、私は急いでお茶の用意をする。
社員へのお茶出しはいつの間にか私一人が請け負っていた。誰に頼まれた訳でもないのだが、自然と始まり、そしてそれが定着していた。
新人が入ってきても、その役割が引き継がれることはない。
そのことに文句はなかった。私がこの営業部で出来る仕事は大して多くなく、自信を持って出来ることといえばこのお茶くみぐらいだ。
お茶くみが仕事に含まれるかといえば微妙だが、他の社員達に気分転換してもらって彼らの仕事の能率が上がることに繋がれば、それなりに大事なことではないかと思えるのだ。
そんなことを思っているのはどうやら私だけらしく、上条さんはあからさまにお茶くみを見下げていた。
それでも私は、いつもどおりに後輩である彼女にもお茶を出す。
私が上条さんの邪魔にならない位置に飲み物を置くと、キーボードを叩く手を止めて私を見た。
「ありがとうございますぅ」
ニッコリ笑うその瞳の奥には明らかに私を蔑む光があったが、これもいつものことで、もう慣れた。
「良かったら一息入れて」
一応形だけではあるがお礼を言われたのだから何も言い返さないのは失礼だと思い、私がそう声をかければ、
「丁度良かったです。プレゼンに使う資料作りを手伝ってほしいって一課の人に言われて、ずっとパソコンに向かってたんですよぉ」
上条さんは得意げに画面を指差す。
そこには綺麗に色分けされたグラフがあった。
私も資料作りをすることもあるが、彼女ほど色を使う事がない。だから、インパクトもなく、地味な仕上がりになってしまう。
それがけして悪いことではなく、人によっては見やすいと言ってくれるが、プレゼンに使う資料は多少なりとも見栄えが必要らしい。
上条さんの仕事ぶりは、そういった点では向いている。華やかな人は、仕事も華やかにこなすようだ。
「いつ見ても、上条さんの資料は綺麗ね」
素直に感じたことを述べる。
すると彼女は
「石野さんのお茶だって、いつも美味しいですよぉ。……まぁ、私のように仕事の上で役に立つわけでもないですけど」
ニッコリ笑い、可愛い顔で見事な毒を吐いたのだった。
彼女の言葉には取り合わず、私は黙って自分の席に腰を下ろした。
いちいち相手にして何かしらの反応を示せば、上条さんの言動はますます助長するだろう。いや、私が反応しないから、ムキになってあんなことを言ってくるのだろうか?
―――別にどうでもいいけど……。
私は自分用に淹れたレモンティーをソッと口に含んで、小さくため息をつく。
気にしていたら、とてもじゃないがこの職場ではやっていけない。
何処で仕事をしても、多かれ少なかれ人間関係のトラブルはつき物。今の状況が特別ではないのだ。
だからと言って、上条さんのようにあからさまに侮蔑を向けられて傷つかないわけではない。ただ、気にすればするほど傷は深くなるだけ。ならば、気にしないでやり過ごすしかないではないか。
そういうことでしか、私は自分を守る事が出来ない。誰も私を守ってくれないのだから。
もう一度ため息をつくと、ハラリと髪が頬にかかった。
すると先ほど楠木課長に髪を直された事が、彼の指の感触が不意に蘇る。同時にドキドキと心臓が少し早くなった。
―――あれはいったい何だったのかしらね?
落ち着く為に、ゆっくりとレモンティーを啜る。
しかし、その日の就業時間を迎えても、私の心が落ち着くことはなかった。