(39)着々と準備を進める私
会社を辞めて三ヶ月が経った。
あっという間だと感じたのは、それだけ忙しくしていたからだろう。
着工を目前に控え、私はこれまでのことをしみじみと振り返る。
勤めていた間にも下調べは進めていたが、それでもやはり実際に動くには時間が足りなかった。
完全に自由な身となったおかげで、ようやく本格的に動き出すこととなる。
まずは、開店のために必要なことをしっかり認識しなくては。
これまではカフェオーナーが書いたエッセイを読んだり、インターネットで色々な情報を調べてきたけれど、それは上辺の知識だ。
現実世界で店を経営していくとなると、机上の空論は当てにならない。
タイミングがいいことに、地元の自治体でカフェ開業支援セミナーが開かれるようになった。
そのことを母から聞いた私はセミナーが開催されるたびに足を運び、講師の話に耳を傾け、必死にメモを取る。
店舗の大きい、小さいに関わらず、『経営していくこと』は難しいのだと、何度も繰り返し言われた。
だけど、きちんとした知識を持てば、そう怖がることではないとも言われた。
経営者としてまず必要なのは、経理と簿記の知識。確かに、いくら資金があったところで、うまく運営していかなければ、店はあっという間に潰れてしまうだろう。
経理と簿記に関しては仕事をしながらでも教わることはできたので、基礎的なことは一応マスターしていた。
それから、出店に向いている場所の見分け方、スタッフの人件費、仕入先、税金のことについての知識も少しずつ身に着けていく。
人の話を聞くことは好きだし、それに自分の夢に向かっているのだから、講師の話はどれもこれも興味深い。毎回、手首が痛くなるほど大量のメモを取っていた。
それと同時に、カフェの専門スクールにも通い始める。
経営に関する知識を身に着けると同時に、美味しいと思ってもらえる飲み物を出せる腕も磨かなくてはいけないのだ。
勤めていた時にも、お客様に出したお茶を美味しいとは言ってもらえたけれど、今度はそう簡単な話ではない。
自分が提供した飲み物に、お金を払っていただくことになるのだ。
人よりちょっとお茶汲みが上手い程度では、お客様に満足してもらえないだろう。そうであれば、その人はもう二度と店に来てくれないかもしれない。
今は短期で生徒を募集しているスクールも多く、また、社会人の生徒も多いということ、目指す店に合わせて講義が選べるということで、私も気兼ねなく通うことが出来た。
そこで実際にカフェを経営しているオーナーから、最近流行っている飲み物や食器の選び方など、実情を交えて聞かせてもらえた。
その話はすごく有益で、またしても私の手首が腱鞘炎寸前となってしまった。
もちろん、コーヒーや紅茶の淹れ方もしっかり教わる。
これまでの私のやり方も間違いではないが、百点満点ではなかった。やはりきちんとした技術は、こういった学校で丁寧に基礎から教わるべきなのだ。
他には、セミナーやスクールに通う合い間にあちこちの街を歩き、気になった店を見て回る。
スクールの講師からは体験談を聞くと参考になると言われていたので、失礼に当たらないよう、そのカフェのオーナーや店員に質問をしていくこともあった。
見ず知らずの人に話しかけるなんて、以前の私であったら絶対に出来なかった。
だけど、上条さんが気付かせてくれたおかげで、私は笑顔で話しかけることが出来るようになっていたのだ。
人間の印象というものは、表情で大きく変わる。
ましてや、初対面の私がいきなり話しかけるのだ。自然な笑顔がいかに大事であるのか、改めて痛感した。
前にも思ったことだが、これは、一義さんが会社に残るように勧めてくれた結果。
あのまま辞めてしまっていたら、私は人付き合いが苦手なままでカフェを開くことになっていただろう。
そうならなかったことに、心底安堵する私だった。
今日も午前中はスクールへと出向く。
そのあとは一義さんの部屋にやってきた。普段であれば自分の家に帰るのだが、彼との時間を作るためだ。
さっそく習ってきた知識を、キッチンで復習する。
鼻腔をくすぐる紅茶の香りに笑みを浮かべながら、私はカップを持ってリビングのソファへと移動した。
「どれどれ、お味はどうかしら」
湯気立ち上る紅茶にふうっと息を吹きかけてから、ゆっくりと一口含む。
紅茶の風味を楽しみながら、私は自分の店を具体的にイメージしていった。
どういう店にしたいのか。
ターゲットにする客層は、どこに照準を絞るのか。
どこに店を出すか。
看板メニューはなにか。
考えることは山積みで、あっという間に意識はカフェのことばかりに向いてしまう。
「今の私がこんな調子だから、あんな電話を掛けてきたのね」
夕べ、彼からかかってきた電話を思い出して苦笑を浮かべた。
私が忙しく動き回っていることに、はじめのうちは彼も嬉しそうだった。
ところがカフェのことだけにのめり込んでいくと、一義さんの機嫌は段々と悪くなっていってしまったのである。
彼のことを忘れていたわけではない。日々、感謝もしている。彼に向ける愛情が薄れたということもない。
ただ、不器用な私は、一つのことにはまり込んでしまうと周りが見えなくなる傾向が強かった。
ましてや、夢だったカフェオープンがかかっているのだ。その集中力は、過去の比ではない。
ひと月近くセミナー、スクール、カフェ巡りを延々と繰り返す私に、さすがの一義さんも痺れを切らした。
昨晩、『明日は何が何でも俺の部屋に来い!来なかったら、雅美の部屋に押しかけてやる!いや、スクール帰りに拉致してやる!』と電話を掛けてきたのであった。
「悪気があった訳じゃないんだけど……」
もう一口紅茶を含みながら、この場にはいない恋人に心の中で謝った。
ソファに座ったままウトウトしていると、玄関でガチャリと鍵が開く音がした。
腕時計に目をやれば、時間は十八時半を過ぎたところ。渋滞に引っかかることがなかったのか、帰宅を急いだのか、いつもより時間が早い。
私は自分の頬を手の平でピシャリと叩いて完全に目を覚ますと、慌てて玄関へと駆けていった。
「お、お帰りなさい!」
玄関の上がり框に置かれているスリッパに足を通している彼に、私は勢い込んで声をかけた。
「ただいま。ちゃんと約束通りに、部屋で待っていたようだな」
私を見てニコリと微笑む一義さんに、僅かに引き攣った笑みを返す。あんな物騒なことを言われたら、来ざるを得ないではないか。
――でも、私だって一義さんに会いたかったし。
ということで、否はなかった。
彼の荷物を受け取り、一緒にリビングへと歩き出す。
「簡単なものですけど、夕飯が出来てますよ」
居眠りする前に、ある程度、支度を済ませておいて助かった。
声をかけると、一義さんがポンと頭を叩いてくる。
「雅美が作る料理は、たとえ簡単なものでも美味いからな。楽しみだ」
優しい微笑みに、私の頬が薄紅に染まる。彼の笑顔はいつ見ても素敵なので、つい照れてしまうのだ。
そんな私を彼が正面から抱き締め、耳元に口を寄せる。
「食後は、雅美をいただこうかな」
「えっ!」
途端に耳まで赤く染まる。
「これまで雅美に触れられなかった時間を取り戻さないと。いい加減、雅美不足でぶっ倒れそうだ」
そう言って、チュッと軽く唇を啄んでくる。
「いや、その、それは……」
火を噴きそうなほど真っ赤な顔で、私はオロオロと視線を彷徨わせた。
「明日は土曜だ。俺は仕事が休みだし、雅美だってセミナーもスクールもないよな。なにか、問題あるか?」
至近距離でジッと見つめられ、私は言葉を返すことが出来ない。
この人は、やると言ったらやる人だ。たまに無言実行の時もあるけれど。
私はこのあと、足腰が立たないほどほどクタクタになるに違いない。
運がよければ、明日の朝、自力でベッドから出られるだろうが……。私の予感が『昼過ぎまではベッドの住人』と告げている。
「う、うぅ……。お手柔らかに……」
私の言葉に、彼はニッコリと笑みを深め、
「考えておく」
と返してきた。
こんな調子だったが、彼との仲もカフェオープンの準備も、順調に進んでいたのだった。