(38)瞼を泣き腫らす私
月末の金曜日に退職する私のために、営業部のみんなが前日の木曜に送別会を開いてくれた。
明日は部長にどうしても外せない用事があるとのことで、その日程となったのである。
私が周囲の世界との間に築いていた壁を壊すようになってから。そして、上条さんが計算ずくで意地悪のようなことをしていたと告白してから、自然な感じで私は営業部に受け入れられるようになった。
それでも、これまでの長い間、私と他の社員たちは大して親しくなかったのだから、退職する日に花束をもらって終わりだろうという程度に考えていたのである。
それが、こんなにお洒落で綺麗なお店を貸し切って送別会を考えてくれていたなんて、本当に驚いた。
店に着いた途端に感激して泣きそうになったものだが、その場はなんとか乗り切った。
しかし、沢山の人とグラスを合わせながらかけてもらった温かい言葉に、とうとう堪え切れなくなって思わず涙してしまう。
その涙は、どんなに止めようとしても無理だった。
「ありがとう……、ございました……。お世話に、なりました……」
一人一人に頭を下げてお礼を述べるたびに、新しい滴が溢れてゆく。
ハンカチを握りしめてポロポロと泣く私を見て、一義さんは「俺の出番だな」と言い、人目もはばからずに優しく胸に抱き込んだ。
「雅美。嬉し涙なら、いくら流してもいいんだぞ」
逞しい腕でギュッと抱き寄せ、大きな手で私の髪を撫でる一義さん。嬉しいけれど、みんなの前では困る。
「あ、あの、放してください」
グイグイと胸を押し返すが、さらに抱き込まれてしまった。
「別にいいだろ、俺たちの中は公認なんだし。ついでにキスも見せてやろうか?」
私の顔を覗き込みながら笑顔で告げる彼に向けて、
「課長ー!ここでイチャつくのは、今すぐやめてくださーい!なんか、ムカつきまーす!」
と、少し離れたところから上条さんがすかさず言い放つ。
そんな彼女に、一義さんはものすごくいい笑顔で応酬。
「自分に恋人がいないからって、やっかむなよ。上条だって意外と良いオンナなんだから、しおらしくしていればいれば、男の一人や二人、引っかかるはずだぞ」
「意外とって、なんですか!本当にムカつきますね!課長!とにかく、石野さんを放してくださいよー!」
それでも腕を解かない一義さんに、上条さんはバンとテーブルを叩く。
「もう!こうなったら、私も石野さんに抱き付きます!」
そう叫んで素早く近づいてくると、私の背中にピタリと寄り添った。そして子供が母親にしがみつくみたいに、ギュウッと抱き付いてくる。
「うわぁ!石野さんって、すっごく良い匂いがする~」
首筋に顔を埋めた上条さんが、そこで深呼吸を始める。
「ちょ、ちょっと、上条さん!やめなさい!」
いくら同性であっても、自分の匂いを嗅がれるのは非常に恥ずかしい。やめさせようと、何度も首を振った。
ところが、いい感じにアルコールが回っているらしい彼女は、そこから顔を離そうとしない。
それどころか、周りにいた人たちも、「え~、どれどれ……」と言って、私に群がりはじめた。
「本当ねぇ。自然な香りがして、石野さんにピッタリかも」
さすがに男性社員は匂いを嗅ぐことはしてこなかったが、上条さんの言葉に興味を持った女性社員たちにすっかり取り囲まれる。
すると一義さんが私を抱き締めたまま、グルンと半回転。女性社員たちから隠すようにして、壁際に私を立たせた。
そしてまだしつこく私にしがみついている上条さんの頭を、グワッと片手で鷲掴みにする。
「上条、いい加減にしろ。雅美のすべては俺のモノだ。香りでさえもな」
掴んだ彼女の頭をグイッと後ろへと押しやる一義さん。
だが、彼女も負けてはいない。
「うっわ、ここに俺様がいる~!石野さん、課長との結婚は考え直した方がいいですよ~!あと、暴力反対~!」
「うるさい。上条が何を言おうと、雅美は俺と結婚するんだ」
「課長は自分がイケメンだから、何をしても許されると思ってるんですかぁ?横暴です~!横暴すぎです~!石野さん、結婚をやめるなら今のうちですよ~」
「だから、上条は黙れ!そして、雅美から離れろ!」
――お願いだから、私を間に挟んで言い合いをしないでほしいんだけどなぁ。
社員たちから鬼と呼ばれる一義さんにまったく怯まない上条さんと、少しばかり大人気ない彼の様子に、私は苦笑いしながら静かに涙を続けたのだった。
退職届を出してから一ヶ月後、今日付けで私は退職となる。
終業時間を迎え、帰り支度を済ませた私は営業部の扉の前に立つ。
そしてクルリと振り返り、私を見送ろうとするみんなの顔を見渡した。
昨日の送別会では、お開きになる寸前まで楽しくて温かい雰囲気だった。それがすごく嬉しくて、おかげで泣き通しになってしまったけれど。
一晩明けてもいまだにうっすらと泣き腫らした瞼の私は、少々どころではなく、かなり滑稽だろう。それでも誰一人として笑うことなく、優しい視線を向けてくれている。
彼らの様子に熱くこみ上げてくるものを感じ、私の目にはジワリと涙が滲み出した。
それを慌てて指で拭い、軽く天井を仰ぎ見て、深呼吸を一つ。
最後は笑顔で立ち去るのだと決めていたので、懸命に堪える。泣き出したいのを必死に我慢して笑おうとしているので、余計に変な顔になっているかもしれない。
――ま、それも一つの思い出になるわよね。
もう一度息を吸いこんで、私は改めて営業部内にゆっくりと視線を巡らせる。
ここでは本当に色々な事があった。
入社してから何年経っても、私にはどこにも居場所が出来なかった。
そのことが本当は寂しかったはずなのに、あまりに長いこと独りぼっちだったから、寂しいと思えないほど心が麻痺してしまった。
人間関係の面ではけして良好とは言えず、楽しいとも思えない職場だった。
当時は、阿川部長をはじめとしたお客様にお出しした飲み物を褒められることが、唯一、素直に嬉しかった。
それだけを支えに、職場に通っていたといっても過言ではないかもしれない。
まさかその些細な支えが、これからの人生の支えになるなんて考えもしなかった。
そして、あれだけ疎外感を覚えていた職場であったのに、今では、こんなにも温かいもので溢れている。
上条さんはことあるごとに憎まれ口を叩いてきたけれど、慣れてくると、そんな彼女に応酬することが楽しくなってきた。
自分があれほど滑らかに、ポンポンと言葉を返せるようになるとは思わなかった。
『私のおかげで、石野さんの新しい一面が見えたじゃないですか。感謝してくれてもいいですよ』
ある日の昼休み。綺麗な顔で意地悪そうにニマッと笑う上条さんに、
『だったら、お茶くみを一から教えてあげた私に、贈り物の一つくらいしなさい。先輩の私に感謝を強請るなんて、十年早いわ』
と、返してやった。
その後、お互い顔を見合わせ、吹き出したものだった。
彼女は自分から進んで私の後任になったと言うだけあって、細かな仕事もきちんと引継いでくれた。
お綺麗な見た目だけで判断してしまっていたが、上条さんは実は仕事が出来る後輩だった。だからこそ、急ぎの資料作りを頼まれたり、接待の場に呼ばれたりしていたのだ。
私は表面だけで、または一面だけで人を評価していたのだと、彼女によって気付かされた。
そしてなにより、一番大きな出来事は、一義さんと付き合ったことだ。
この私に恋人が出来て、しかも、その人が結婚相手になるなんて。いったい、誰が予想できただろうか。
こんな逆転ホームランが待っていたのであれば、疎外感に負けて辞めなくて良かったと、つくづく思う。
色々なことがあった職場を辞めても、私のこの先の人生には、もっとたくさんの出来事が起こるのだろう。
それでも、ここで学んだこと、一義さんに教えられたことを忘れずにいれば、きっと前を向いて進んでいけるはず。
私は精いっぱいの笑顔を浮かべた。
「今日まで、お世話になりました。皆さん。どうか、お元気で!」
大きな声でそう告げる私に、
「こちらこそ、世話になったよ!」
「石野さんも元気でね!」
「楠瀬課長との結婚式には、絶対呼んでよ!」
「店がオープンしたら、すぐ駆けつけるからな!」
それ以上の大きな声が返ってくる。
昨日の時点で涙が枯れるほど泣いたと思ったのに、みんなの声を聞いて、ブワリと涙がせり上がってくる。
こうして、私はまたしても盛大に瞼を腫らすことになってしまったのだった。