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(37)受け入れられた私

 それから二年が経ち、店を出す準備がある程度まで整ったので、私は退職届を出すこととなる。

 一義さんとの付き合いを認めようとしない女性社員たちとのやり取りは、退職する寸前まで続いたものだ。

 しかし、そこは見方を変えてみると、意外と平気だった。

 いわれのない文句をつけてくるお客をあしらうための練習だと思えば、卑屈にもならず、感情的にもならずに済んだのである。

 真正面からぶつかるのではなく、いったん相手の要求を聞き、それに対して落とし所を見つけてゆけば、大きな騒動にならなかった。

 もちろん、一筋縄でいくような彼女たちではなかったけれど。

 それでも逃げも隠れもせず、シャンと背筋を伸ばして応対すれば、彼女たちは私の本気を認めざるを得ず、やがて、表立っての言動は消えていったのだ。

 それから、心がけていたことがもう一つ。少しずつでも笑顔を浮かべるようにしたことだ。

 これまでろくに笑顔など浮かべなかった私を見て、はじめはぎこちなかった同僚たちだったが、やがては気安く話しかけてくれるようになっていった。

 その時になって、私がこれまで周囲の人間から受け入れてもらえなかったのは、私が彼らを受け入れようとしなかったからだと気付かされた。

 自分を守るために頑なに守り通してきたものは、実は、自分と周囲を隔てる壁だったと分かった。

 確かに、誰だって憮然とした表情の人間とは関わり合いになりたくない。避けたり、攻撃したりするのも、結局は私の態度にも原因があったのだ。


 そういったことに気付かされたのは、すべて一義さんのおかげ。


 彼が安直に退職を勧めたりせず、将来と私の欠点を見据えて、会社に残るように話してくれたから、私は人として成長できた。

 他にも彼のおかげで色々助けられ、私は胸を張って退職することを決めた。




 前々から部長にはそれとなく話をしていたのだが、いざ退職するとなると、少しだけ惜しい気持ちになる。

 そんな思いを振り切るように、ズバッと部長のデスクに退職届と書かれた封筒を置いた。

「こちらの受理をお願い致します」

 頭を下げる私に、部長は苦笑した。

「石野君が辞めてしまうとなると、書類提出が難しくなるなぁ」

 それを聞いて、横に立っていた一義さんも苦笑い。

「彼女の書類作りは、総務の佐々木チーフが認めるほど完璧でしたからね。誤字脱字、言葉を間違って使うこともなかったですし。では、今後は部長自ら書類を作っていただかないと」

 一義さんの言葉に、イスに座っている部長はニコリと笑って私を見上げた。

「なぁ、石野君。社を辞めたら、書類を添削するバイトをしないか?」

「はい?」

 パチクリと瞬きをすると、一義さんが少しばかり呆れた表情に。

「部長。退職後も彼女をこき使うのは、この私が許しませんよ。ただでさえ、店の開店準備と結婚準備で忙しくなるんですから」

「おお、怖い。鬼の楠瀬君にそうまで言われたら、石野君にはお願いできないなぁ」

 大げさに肩を竦めてみせる部長に、一義さんは私を見て小さく微笑む。

「退職してしまうのは非常に残念だが、応援する気持ちに嘘はない。それは、営業部のみんなも同じだ」

 部長は大きく頷き、背後からは「石野さん!オープンしたら、店に行くから!」、「楽しみにしてる!」といった言葉が次々に投げかけられる。

 そのことに、ジワリと眼窩が熱くなった。


――よかった。私の居場所は、ちゃんと「ここ」にもあったんだ。


 だが、この居場所を作ってくれたのは、他ならぬ一義さん。私一人では、今もきっと、彼らとの間に壁があったはずだ。

 私はようやく不自然さが抜けた笑顔を、一義さんに向けたのだった。




 届けを出してから、一ヶ月後に退社となる。

 それまでの間に、引継ぎを完全に終わらせなくてはいけない。

 私の仕事は大がかりではなかったが、その分、細かい仕事が多かった。それを一つ一つ説明しながら教えていくのは、意外と時間がかかる。

 ちなみに、私の仕事を引き継ぐのは上条さんだ。

 部長からそのことを申し渡された時、正直、人選に不安を覚えた。何しろ、散々私を見下げてきた彼女。素直に私の仕事を引き継いでくれるのだろうか。

 それに、上司命令だからと逆らえず、渋々引き受けるのであれば、なんだか後ろめたい。

「あ、あの、よろしくね」

 始業時間となり、引継ぎを始めようとして声をかけると、先に座っていた彼女はニコッと笑った。

「はい、よろしくしてあげます」

 言葉としては上からの態度だが、上条さんの笑顔はすごく素直なものだった。目の奥には、こちらを蔑む光がない。

 どういうことだろうかと怪訝に思いながら腰を下ろせば、彼女は綺麗な色の唇を軽くとがらせて吹き出した。

「石野さんって、ホント、鈍いですよねぇ」

「それは、自覚しているけど……」

 一義さんにも、それは何度となく言われた。上司と部下という関係であった時、彼の気持ちに一切気が付かなかった。本当に気付いていなかった。

 彼は散々サインを送っていたと言うが、振り返ってみても、そのことには全く思い当たらない。

 しかし、そのことを、どうして今さら上条さんに言われるのだろうか。

 私の表情に、彼女はまたプッと吹き出す。

「ああ、もう、そういうことじゃないです。私がとっくに石野さんのことを馬鹿にしなくなったってことですよ」

 上条さんの言葉に、失礼ながらも目を丸くしてしまった。

「ええと、それは……」

 困惑気味に眉尻を下げると、

「だって、石野さんの仕事を引き継ぎたいって、自分から部長に言ったんですよ」

 さらに衝撃発言を突き付けられた。

 再び目を丸くして固まる私。

 営業二課の中では、私と一番話をしていたのは上条さん。とはいえ、けして親しいものではなかったのだ。

 口調も表情も態度も、いつだって、私を小馬鹿にしていることを隠しもしなかったのだ。

 私が自分と周囲との壁を少しずつ壊していくようになってからは、彼女の態度も軟化したように思えたが、これまでの印象がどうしても抜けることはなかった。


 上条さんは、私のことが嫌いなのだ。


 ずっと、そう思ってきた。なのに、彼女が言ったことは……。

 戸惑う私に、上条さんは「ああ、おかしかったぁ」と言って、ようやく笑いを収める。

「初めて石野さんに会った時は、本気で馬鹿にしていました。女を捨ててるっていうのが、同じ女性として何となく許せなかったんです。努力する前に諦めたってことは、すぐに分かりましたしね」

 上条さんほどはお洒落な格好ではなかったと認めるけれど、社会人として変ではなかったはずだ。

「でも、人前に出ておかしくない程度には、身ぎれいにしていたと思うけど……」

 そう答えると、即座に言葉が返ってきた。

「見た目は確かにそうでしたね。それなりに気を遣っていることは伝わってきました。ただ、心の中ではそうじゃなかったでしょう?」

 クリッとした大きな目でジッと見つめられ、私は息を呑んだ。

 私を見透かすように、彼女は視線を逸らさないままで話を続ける。

「そういう人を見ると、無性に腹が立つんですよねぇ。別に、着飾って職場に来いって話じゃないです。心構えの問題ですから」

「それは、いったい、何の話?」

「まぁ、最後まで聞いてくださいよ」

 これでは、どちらが先輩なのか分からない。だが、私は大人しく口をつぐんだ。

「人間なんて、誰しも限界を持っていますからね。諦め所を知るっているのも、必要だと思います。でも、石野さんの場合は、自分の限界を知らないうちに諦めて。私はそういう人間だって思いこんで、自分のことを信じようともしなかった。そんな人、どうやって先輩として尊敬できます?」

 彼女の話は一方的にも思えるが、私には耳の痛い内容だった。

 自分を信じない。そして、周囲のことも信じない。それが私にとって息をするように当たり前になって、疑問に思う事すらなくなっていた。

 一義さんと付き合うまで、ずっと、そうやって生きてきたから。

「感情を表に出さないってところも、私は苦手でしたね。何を考えているのか、さっぱり分からないって感じで」

「でも、事を荒立てないために、受け流すってことも必要よ?」

 いちいち真っ向から衝突していたら、社内では口論が絶えない。間違いだと分かっていても、正さないということも、社会人には必要なことだ。

 上条さんが少しも分かっていないことはないはずなのだが……。

 しかし、彼女はさらに話を続ける。

「ですが、私が何を言っても、言い返しませんでしたよね?後輩としてあるまじき態度だったと思いますが、それを嗜めることもしなかった。怒りたいなら、怒ればよかったのに。少しでも感情を表に出せば、石野さんはみんなに受け入れてもらえたんですよ。……今のように」

「えっ?」

 マジマジと上条さんを見遣った。

「私が石野さんをわざと怒らせようとしていたこと、気づいていなかったでしょう?」

 してやったりと、ニンマリ笑う彼女に、私は唖然となった。

「か、上条さん?」

「人を笑わせるのは難しいですけど、怒らせるのは結構簡単ですからね。だから、あれこれ突いてみたんですけど。石野さんってば、『そうよね』とか言って、流しちゃうんだもんなぁ」

 はぁ、と大げさにため息を吐く。

 私は頭の中が混乱して、彼女の言葉が理解できないでいる。

「あの、上条さん。どうしてそんなことを?」

「だって、私、石野さんのことは特別嫌いじゃないですもん」

 ケロッと言ってのける彼女に、私の眉が寄った。

「え?でも、さっき、私のことを苦手だって」

「そうですよ、苦手ですよ。だけど、嫌いじゃないってことです」

 なぞなぞのような言葉に首を捻れば、ヤレヤレと彼女は華奢な肩を竦めた。

「自分でもよく分からないんですけど、なんか、放っておけなかったんですよねぇ。今はそこまで苦手意識はないですよ。石野さんが何を考えているのか、表情に出るようになってきましたし。……そうさせたのは、楠瀬課長でしょうけどね」

 彼女の言葉に、フワッと顔が熱くなる。

「やっと人間としての石野さんになったんだなぁって。そういう石野さん、嫌いじゃないですよ。ま、好きでもないですけど」

 と、意地悪そうに笑う上条さんに向けて苦笑を浮かべた途端、いきなり後から腕が回ってきて抱きしめられた。

「雅美を好きでいる人間は、俺一人で十分だ」

 鋭く言い放つ一義さんに、彼女は形の良い眉を盛大に顰める。

「あー、はいはい。分かりましたけど、課長、職場でそういう事は言わないでもらえます?けっこう鬱陶しいですよ」

 上司に向かって、その口の聞き方はいけないと思う。

 私は息を呑んでから、おっかなびっくり上条さんに声をかけた。

「……その口調は失礼よ。気を付けなさい」

 反発されるかと思いきや、

「はい、分かりました。以後、気を付けます」

 と、素直な言葉が返ってきた。

 一義さんはそんな彼女の態度に苦笑を零すと、私のこめかみにチュッとキスを落とす。

「よかったな、雅美」

 さっき以上に顔が熱くなった。

 いくら恋人同士とはいえ、こういう態度は流石に駄目だ。

 しかし、私が彼を窘める前に、上条さんがパンプスのつま先で彼の向う脛を蹴飛ばした。

「か、上条さん!?」

 今さっき注意したばかりだというのに、何てことをするのだ!

 驚く私に、彼女がニッと笑う。

「私は課長を蹴飛ばしただけで、失礼なことは言ってませんよ」

「蹴飛ばす方が、よほど問題でしょうが!」

 そんな私たちのやりとりに、一義さんは声を出して笑ったのだった。


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