(33)見送りする私
付き合ってまだ間もないというのに、一義さんのご両親と会うことになってしまった。
その話を聞いた直後は、正直まだ無理だと思ってしまったが、覚悟を決めてしまえば動揺は長続きしなかった。
しかし、動揺はしないが、緊張はする。
――無難に和食がいいわよね。でも、せっかく手料理が食べたいと仰っているのだから、白いご飯に煮魚じゃつまらないし……。なら、炊き込みご飯のようなものがいいかしら。
お二人の年代が好むであろう味付けのメニューを脳裡にリストアップしつつ、真剣なまなざしで買い物をしてゆく。
出来るかぎり家庭的なメニューをということはありがたくあるが、逆にプレシャーでもある。
ごく一般的な料理で失敗してしまったら、私はどんな烙印を押されるのだろうか。
口元に手を当ててブツブツと何事かを呟いている私の横にいる一義さんが、クイッと繋いでいる手を引いた。
「そんなに考え過ぎなくても大丈夫だって。あまり気合を入れすぎると、親父たちも気を遣うって」
「でも、やっぱり美味しいものを召し上がってもらいたいし。それに、料理が下手だからという理由で、その……、一義さんと別れさせられるのも、ちょっと……」
モゴモゴと口ごもると、彼がフワリと優しく笑う。
「あ、あの、なんで笑っているんですか?」
落ち着きのない私がそんなに滑稽だろうか。はて、首を捻ると、また彼が笑みを浮かべる。
「雅美が俺と別れたくないって考えてくれていることが嬉しいんだよ。ちょっと前までは、付き合うことに戸惑ってばかりだったのにな。ちゃんと付き合っているのに、雅美はそのことがどこか信じられないって感じだったし」
確かに彼の言うとおりだ。
どう考えたって、私は一義さんとは釣り合わないと思っていた。彼の想いに嘘はないだろうが、彼が素敵な男性だと分かっているから、こんな私と付き合いたいと思うなんてありえないと。
彼のことを身も心も受け入れてさえも、何度なく否定的になってしまう自分がいたのは本当だ。
それでも、そんな私と辛抱強く向き合ってくれて、深い愛情で包んでくれた一義さんだからこそ、私は彼の隣にいたいと思えるようになったのだ。
自信なんて、いまだにない。もしかしたら、自信満々で彼の隣に立ちことなんて、一生出来ないかもしれない。
そんな不器用で弱虫な私でも、一義さんが愛してくれるから。その彼のために精一杯出来ることをしようと思えるようになってきたのだ。
「わ、私、ちゃんと、一義さなんのことが、す、好きですよ……」
すぐそばにいる彼にだけ聞こえる小さな小さな声で囁く。
すると、分かっているとばかりに、繋がれた手がギュッと握り締められた。……ん?握り締められた?
「あ、うそっ!どうして!?」
私は自分の左手と彼の右手を見て愕然となった。
手を繋いで歩くなんて恥ずかしいからと、エレベーターを出てすぐに振りほどいたはずなのに。スーパーに入るまでは、繋いでいなかったはずなのに。
いったい、いつの間に。し、し、しかも、これって、こ、こ、こ、恋人繋ぎではないか。
「雅美が集中するあまりに気が付いてなかったから、その隙に」
ニコッと笑う一義さんに、私の顔は赤くなったり青くなったり忙しない。
「は、放してもらえませんか?」
「駄目」
即答した彼は、絡めた指に尚も力を篭めてがっちり握り込む。
「何でですか!?」
「前にも言っただろ、雅美は存外そそっかしいところがあるって。買い物に夢中になって、足を取られたりしたらどうする?」
「そ、そんな簡単には転びませんよ!」
繋がれた手を取り戻そうとグイと引っ張れば、ツルッと足が滑った。硬いリノリウムの床に、少量だが水が零れていたようだ。
「きゃっ」
短い悲鳴ともに体が大きく傾いたが、一義さんがすかさず私の手を握っている手に力を篭める。そして、彼に引き戻される形で体勢を整える羽目に。
「ほらな」
得意満面の表情を浮かべる一義さん。
「何があっても、俺が助けてやるから大丈夫だ。だから、手を繋いでいてもいいよな?」
返す言葉のない私。たった今、彼の目の前で失態をやらかした私に、何が言えるだろうか。
しばらく黙り込んでいたが、小さな頷きを一つ返した。
「普段の雅美は、俺の手を必要としないほどしっかりしているからな。こういう時くらいじゃないと、俺の出番はないし」
クスクスと笑う一義さんに、私はポソポソと告げる。
「……こんな時じゃなくても、一義さんはいつだって頼りになる人です」
顔を赤らめて呟く私に、彼はいっそう嬉しそうに微笑んだのだった。
若干のトラブルはあったものの、買い物は無事に終了。
マンションに戻って、私はすぐさま調理を開始する。一義さんはお客様用の湯呑を用意したり、スリッパを玄関の上り口に並べたりしている。
バタバタと慌ただしく調理を終え、どうにか準備万端と言ったところで、彼の電話に着信があった。
「親父たち、駅に着いたって。迎えに行ってくる」
車の鍵を手に、彼が玄関へと向かう。私はエプロンで軽く手を拭いながら、その後についていった。
「十分くらいで戻って来られると思う」
「はい、いってらっしゃい」
靴を履いている彼の背中に、そう投げかける。何気なく口から出た言葉に、一義さんが少し目を瞠った。
「あの、なにか?」
不思議そうに尋ねると、彼ははにかんだように笑った。
「……いや、雅美にいってらっしゃいって言われたのは初めてだなって。それが妙に幸せだなって感じてさ」
この部屋を出る時は二人揃ってなので、彼に向かっていってらっしゃいとは言ったことがなくて当然だ。
それにしても、そんな些細な一言で嬉しそうにするなんて。こっちが気恥ずかしさを感じてしまう。
「え、ええと、お見送りする機会がれば、これからも言いますよ」
同じようにはにかみながら言えば、
「そうだな。結婚したら、そういうことも増えるだろうし。ああ、雅美と結婚するのが、楽しみになってきた」
と、彼は本当に嬉しそうな顔になる。
「気が早いですって。それより、駅でお二人が待ってますよ」
「あ、そうだった。じゃ、いってくる」
口早にそう告げた一義さんはチュッと私の唇にキスをしてから、慌ただしい様子で出掛けて行った。
残された私は、口元を手で覆い隠し、その場にしゃがみ込む。
「……うわ、なにこれ」
耳まで真っ赤にした私が、呻くように零す。
いってきますのキスなんて、ドラマや漫画の中だけだと思っていたのに。こうして自分の身に起こると、対処できないほど恥ずかしい。
それでも、嬉しいと思ってしまうのは彼に感化されているからだろうか。
「とりあえず、みんなが来るまでに顔の赤みをなんとかしないと!」
私は手の平で扇いで風を送りならが、深呼吸を繰り返した。