(30)夕食と家族の思いと私
私が帰宅してから、三十分ほどで料理は終わった。
さすがは母だ。この短時間で、美味しそうな料理を何品も作れるとは。
私といえば、そんな母をちょっと手伝ったくらい。
母に比べたら何もできない私は、下手に手出しをしない方がいいのだ。その方が母の邪魔にもならないし、せっかくの料理を駄目にしてしまうことがない。
私を気遣って母があれこれとやらせてくれようとするが、私はサポートする方が性に合っている。
そんな私に、母は苦笑まじりに言った。
「雅美。あなたの腕を信用しているんから、好きなように料理していいのよ。楠瀬さんにあなたの手料理を食べさせてあげなさいよ」
そんなことを言われても、料理を仕事としている母と比べたら、私が作った料理なんて格段に味が落ちるに決まっている。
私一人で作ったものを食卓に並べるならいいが、母が作った料理と並べられたら、その味の差はすぐさま分かってしまうだろう。
「私の料理は、そのうち食べてもらうから」
――母の料理の方が、一義さんだって喜ぶもの……。
苦笑まじりに答えれば、母は
「奥ゆかしいというより、歯がゆいわねぇ」
と、困った様に笑ったのだった。
リビングの大きなテーブルの上には、料理が盛られた皿が所狭しと置かれている。
見るからに美味しそうな料理を囲み、夕食が始まった。
私の家族に囲まれ、普段は物怖じしない一義さんもちょっとだけ緊張していたようだ。それでも、社交的な彼なので、時間が経つごとに聞き上手で話し上手な面を発揮していた。
和やかな雰囲気で進む夕食。
弟の隆志だけがなにやら不機嫌全開だった。皿に取り分けていた大好物のエビチリを、姉が横から掻っ攫ったからだろうか。
さっきからなかなか助けの手を差し伸べることが出来なかったので、私はエビチリが入った皿を向かいの席にいる弟にソッと押しやった。
「隆志、よかったら食べて」
「え?雅美ちゃん、いいの?」
パァッと顔が明るくなる。
とっくに二十歳を超えているというのに、私の目にはその笑顔がとても可愛らしく見えた。
「うん、いいよ。私は、もういくつか食べたし。少し箸を付けちゃったけど、それでもよければ」
「雅美ちゃん、大好き!むしろ、箸をつけてくれてありがとう。……やった、間接キスだ」
何故、ここで礼を言われるのか意味不明。そして、最後にボソボソと囁かれた言葉も、聞き取れないので理解不能。
時折こちらが首を傾げる言動をするが、こうやって素直に喜ぶ弟は姉から見て可愛いのだ。
深く考えることもなく小さく微笑んでやると、
「じゃ。ついでだから、食べさせて」
隆志は口を大きく開けた。
――ついで?何の?
意味が分からないが、口を開けて待っている隆志に箸でつまんだエビを口元へと運んでやる。
ところが、その手を一義さんがガシッと掴んできた。
「え?」
キョトンとする私に、一義さんが笑う。
「そういう事は、俺にしてほしいな」
「は?」
私は手首を掴まれた状態で、オドオドと視線を彷徨わせた。
隆志は自分の弟だからあまり羞恥は感じないが、一義さんに対して同じことは恥ずかしくてできない。
「ええと……」
迷った結果、私は腕を下ろした。
一義さんは強引に迫ることもなく、手首を開放してくれる。
途端に、向かいの席から声が飛んだ。
「せっかく雅美ちゃんに『あ~ん』ってしてもらえるところだったのに、邪魔すんな!……んがっ」
しかし、すかさず姉が隆志の口に酢豚の皿から拾い上げたピーマンを突っ込む。
弟の綺麗な顔が苦痛にゆがむ。隆志は大のピーマン嫌いなのである。
「だ、大丈夫!?」
口を押えて悶絶する弟が哀れで、私は慌てて立ちあがった。
「大丈夫、大丈夫。ビタミンたっぷりのピーマンは美容にいいんだから、モデルの隆志はなおさら食べないとねぇ♪」
嬉々としている姉だが、隆志は今にも死にそうな顔なのだ。彼のピーマン嫌いは筋金入りで、何があってもピーマンだけは口にしないほど。
姉に大丈夫だと言われても、隆志が心配だ。まぁ、ピーマンで実際に死ぬわけではないが。
「隆志。ほら、お水」
グラスを手に立ちあがるものの、そんな私の手首を、またしても一義さんが掴んだ。
「俺の前でそんなに弟さんに一生懸命になると、ちょっと妬けるな」
「はい?」
私は首を捻る。そんなにおかしなことをしただろうか。
パチパチと瞬きをして一義さんを見遣ってやれば、奥に座る父と母がクスリと笑った。
「雅美、隆志のことは放っておきなさい」
「そうよ。余計な事をして、馬に蹴られているみたいなものだから」
「馬?」
更に意味が分からない。
はて、と深く首を傾げると、
「まぁ、馬じゃなくて私が蹴飛ばしてやるけどね」
姉は私を見てニコッと笑ったのだった。
ちょっとごたついた感はあったけれど、夕食は無事に終わった。
一義さんを見送ろうと、玄関の外に二人で立っている。
「とても楽しい時間だった。それに、料理も美味しかった。お父さんとお母さんに、改めてよろしく言っておいてくれ」
一義さんの笑顔はお世辞には見えない。その様子に、ホッと胸を撫で下ろす。
「はい」
そう頷き返すと、彼は私の髪をサラリと撫でた。
「今度は雅美の手料理が食べたいな。楽しみにしているよ」
確かに、今夜の私は母の手伝いをしただけなので、手料理と言える状態ではなかった。
「でも……、母に比べたら、私の料理なんてお粗末で……」
謙遜ではなく素直にそう言えば、一義さんはポンと私の頭を軽く叩く。
「雅美は自分のことを低く見過ぎているな」
「え?そうでしょうか?」
自分としてはまっとうな評価を下していると思っているのだが。
思わず訊きかえした私に、一義さんは小さく笑う。
「ちょっと過小評価すぎるな。だから、周りの人間が寄せる好意を簡単に見過ぎしてしまうんだ」
なんだか、すごく意外な事を言われた。
「好意……ですか?」
呆気にとられたように口にすれば、彼はまた頭をポンと叩いてきた。
「そうだよ。例えば、雅美の家族」
「私の家族がなにか?」
「誰も彼もが、あんなにも雅美を溺愛している」
一義さんの言葉に、またポカンとなった。
「は?まさか……」
そんな私に、彼は僅かに眉を寄せる。
「気付いてないのか?」
「あの……、家族ですからそれなりに親愛の情があるのは分かりますが、溺愛ということは無いと思いますよ」
そう答える私に、一義さんは更に笑う。
「それが分かっていないというんだ。お父さんもお母さんもお姉さんも弟さんも、みんな、君が可愛くてたまらないんだ」
「……本当に、そう思いますか?」
一義さんは笑っているけれど、その瞳には冗談の色は一切ない。本気でそう思って言っているのだ。
オズオズと尋ねれば、彼は深く頷き返す。
「そうだ。誰もかれもが、雅美から目を放そうとしない。そして、優しい目で見つめているんだ。はたから見ていた俺には、その様子が良く分かった」
「そんな……」
自分では気が付かなかった。
だって私は、キラキラした家族とは違って出来損ないだと思っていたから。こんな自分に引け目を感じ、いつしか『私は皆と違うのだ』と決めつけ、ずっと卑屈に生きてきた。
みっともない自分を嫌いになることはなかったが、好きになることは出来なかった。
そんなもどかしさを抱えて今まで生きてきたから、彼の言葉をすぐに信じることが出来ない。
戸惑いも露わに目を伏せると、頭にあった手がスルリと背に滑り、優しく私を抱き寄せる。
逞しい一義さんの腕がすっぽりと私を包んでくれたおかげで、不安定な心が少し落ち着く。
「あんなに丸分かりなのになぁ。雅美は、もっと家族と向き合うべきだぞ」
「そんなに分かりやすかったですか?」
彼の肩口に額を付けて問えば、クスクスと笑われる。
「ああ。特に弟さん」
「隆志?」
「雅美の事は“お姉さん”ではなく、“雅美ちゃん”と呼んでいるんだな」
「はい、小さい頃からずっとそうです。私は彼にとって姉として扱ってもらえる価値はないようですので」
思っていたことを言葉にすれば、一義さんは首を横に振る。
「違うんだよ」
「違う、とは?」
「弟さんにとって、雅美は大切な女の子で、女性なんだ。だから“姉”という単純な存在にしたくなかったんだよ。大好きな人だから」
彼の言葉に唖然となる。
家族の中でひときわキラキラと眩しい隆志が、私の事をそんな風に見ていたなんて信じられない。
「そんなはずは……」
「あるんだよ。雅美が台所で料理をしている間、弟さん本人の口から散々聞かされた」
私の言葉じりを捉えた和馬さんは、私の髪にソッと頬ずりしてくる。
「“雅美ちゃんは家族で姉だけど、そんなつながり以上に、自分にとっては大切な存在なんだ”と、はっきり言われた。それから、“血が繋がってなければ、自分と結婚するのに”と、心の底から悔しがってもいたな。だからこそ、俺に対する風当たりが強かったんだよ」
「…………へ?」
――隆志が、私と、結婚したい?そこまで、私の事が好き?
そんなこと聞かされて、私は戸惑うばかりだ。自分が考えてきたことと、正反対なのだから。
驚き過ぎて何も言えない私にかまわず、一義さんは話を続ける。
「それから、お姉さんが実家に来るときは、手土産にクロワッサンを欠かさないらしいな。気づいているか?」
「はい。クロワッサンは家族のみんなが好きですから」
答えた私に、苦笑が降ってきた。
「違うよ。雅美がクロワッサンを好きだから、お姉さんは必ず買ってくるんだ。雅美以外の家族は、違うパンが好物らしい」
「そうだったんですか!?」
初めて聞かされた、衝撃の事実。
ああ、確かに一義さんの言うとおりだ。自分に向けられていた好意に、まったく気が付いていなかった。
きっと、父も母も、私に対して、私が感じていたものとは違う思いを向けていたに違いない。
自分を情けないと思いこみ、その考えが、家族の愛情を間違って受け取っていた。
ずっと、ずっと、私のことを大事にしてくれていたのに。
ちゃんと、愛してくれていたのに。
その愛情を、分かろうともしなかった。
「私、家族みんなに酷いことをしていました……」
「そう気に病むことはないさ。今からでも、その愛情に応えてやればいい」
私を優しく抱きしめ、優しい声で告げてくれる一義さんに、私はコクリと頷く。
「そうですね」
居場所がないと思っていた家にも、私の居場所はあった。はじめからきちんとあったのだ。
そのことを、もう誤解しないようにしなくては。
「そうですね」
もう一度頷く私を、一義さんはいっそう強く抱きしめてくる。
「だが、雅美が一番に愛情を向ける相手は、この俺だぞ。それだけは忘れるな」
小さく笑いながら、それでも本気を滲ませた口調に、私も思わずクスリと笑ってしまった。