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(29)料理する母と帰宅した父と私

 姉と弟の前で一義さんから額にキスをされ、私はその場から逃げるようにして、続きのキッチンへと駆け込んだ。

 弟による『帰宅の挨拶』を彼に見られるよりも、数倍恥ずかしい気がするのは間違いないだろう。

 お茶を出すといったものの、今、一義さんの顔をまともに見られる自信がない。

 どうしようかと思っていると、

「雅美。俺のことは気にしなくていいから、お母さんの手伝いを進めてくれ」

 と、声がかかった。

 そう言われても、お茶の一つも出すのが礼儀だろう。しかし、ここは彼の申し出に甘えてしまおう。

 内心で安堵のため息を漏らしていると、

「気安く『お母さん』なんて言うな!」

 という隆志の怒鳴り声が。

 続いて、

「うぐっ……」

 という低い呻き声も。

 見なくても、その状況が目に浮かぶ。 

 さっきは隆志の事を見捨ててしまったから、今度は助けに入った方がいいだろうか。

 どうしようかと考えていれば、

「気安く呼んだつもりはなかったんだが、気に障ったのなら謝るよ」

 彼の穏やかな口調が聞こえてきた。

 さすがは一義さんだ。隆志の失礼な発言に怒ることもしない。

 彼の懐の広さを感心していれば、再び彼の声が聞こえる。

「君の大事な大事なお姉さんと結婚すれば、俺にとっての母親にもなるからな。もっと丁寧に呼ぶべきだった。すまなかった」

 真摯な口調で告げる一義さんに、隆志がまた吠える。

「うるさい!俺の方が、雅美ちゃんの事をずっとずっと大事にしてるっての!それに、俺は絶対に雅美ちゃんとの結婚は認めないからな!……いてててててっ!!」

 そして、またしても呻き声が。

 騒々しいリビングの様子にオロオロする私。すると姉が私に呼びかけた。

「雅美、こっちは何の問題もないから、大丈夫。それより、早く夕飯にしようよ。私、お腹ぺっこぺこなの」

 どうしたって問題だらけの気がするが、とにかく夕飯の支度を終えることの方が今は大事だろう。一義さんをいつまでも待たせておくわけにもいかない。


――ごめんね、隆志。助けに行けなくて。


 私は心の中で、弟に謝ったのだった。




「えっと、何から手伝えばいい?」

 椅子の背に掛けてある自分用のエプロンを身に着けながら声を掛けると、母は野菜を洗う手を止めて振り返る。

 先程の額にキスの余韻が抜け遣らず、今にも火を噴きそうなほど赤い顔をしている私。そんな私を見て、母はなにやら楽しそうに微笑んでいた。

「何、お母さん」

 努めて普段通りに接しようとする私に、母がクスリと笑う。

「楠瀬さんは、とても素敵な方ね」

「え?ああ、そうね。仕事も出来る上司だし、とても頼りになる人よ。本当に素敵な人だと思う。あんなに素敵な人、私にはもったいないわ」

 感じている通りに答えれば、母の表情は少し寂しそうな笑みへと変わった。

「雅美、あなたは相変わらず自分への評価が低いわね」

「そう?」

 冷静に自分を顧みて、至極まっとうに評価しているはずなのだが。

 軽く首を傾げると、濡れた手を拭った母は苦笑を深める。

「あなたはあなたの良さがあるのよ。詩織とも隆志とも違う、あなただけの良さがあるの」

 それは、小さな頃から繰り返し言われてきた言葉。

 両親はとても出来た人たちで、何のとりえもない私の事を、決してないがしろにはしなかった。誰かと比べることも、一切しなかった。

 そして、隠れるようにひっそりと生きている私に、いつだって『雅美は雅美だから。あなたの良いところは、お父さんもお母さんも、ちゃんと知っているわ』と、優しい言葉を投げかけてくれていた。

 だけど、それがただの慰めであることは分かっている。姉や弟と違って華やかさを持たない私にために、父も母もずっとそう言って私を慰めてきてくれていたのだ。

 両親のそんな優しさのおかげで、私は手が付けられないほどの捻くれ者にはならなかったと思う。

「うん、分かってる」

 いつものように答えれば、母はまた寂しそうに笑う。

「もう、相変わらずね。いつになったら、本当に分かってくれるのかしら」

 母が漏らした言葉の意味が分からずに首を傾げれば、母は私の肩越しにリビングを見遣る。

 その視線の先には、隆志を組み伏せている姉と談笑している一義さんの姿があった。

「ま、楠瀬さんにお任せしておくのが良さそうね」

 いったい、何を彼に任せるのだろうか。

 キョトンと母を見遣れば、

「さ、とにかく、夕飯を仕上げちゃいましょ」

 と、母に肩を叩かれたのだった。


 母と並んで調理を進める。

 私が下ごしらえをし、母が火加減を見たり、味を調えたりしていた。

 それはいつもの光景だが、今夜は少し違う。

 母が私と一義さんについてあれこれ尋ねてくるのだ。

「雅美とこういった話が出来るなんて、感慨深いわ」

 しみじみ漏らす母に、私はちょっと苦笑する。

 確かにそうだろう。私には親に話せるような恋愛談が過去になく、結婚願望すらなかったのだから。 

 それなのに、彼氏が出来たかと思えば、その日のうちに外泊。そして、我が家に一義さんが来ているのだから。

 母親とそういった話をすることは非常に照れ臭いが、悪いものではない。

 料理の方もほぼ仕上がり、後は盛りつけと言ったところで、母が私を見た。

「私がさっき、楠瀬さんを素敵と言ったのは、仕事ぶりや見た目のことじゃないのよ」

「どういうこと?」

 取り皿を手にした私が母を見遣れば、とても優しい目をしていた。

「雅美の事を、本当に大事にしてくれているんだなって言う意味。雅美の不器用なところも、丸ごと包んで受け止めてくれるくらい、器の大きな人よね。とっても素敵な人だわ」

 自分の恋人を手放しで褒められ、なんだか気恥ずかしい。

「それは……、そうね。私の事、何があっても受けとめるって言ってくれたし……」

 照れながらも言葉を返せば、母は更に目を細める。

「それから、雅美のこと、凄く愛しそうな目で見ていたわ。可愛くて仕方がないって感じが、もう、ありありと分かって。なんだか、お母さんの方が照れてしまいそうよ」

 そう言って、母がわざとらしく自分の頬を手で押さえた。

 いやいや。そんな事を母親から言われた私の方が、よほど照れてしまうんですけど。


 調理をすべて終えて、皿に載せた料理をリビングのテーブルへと運ぶ頃には、父が帰ってきた。

 リビングに顔を出した父に、一義さんはスッと立って深く頭を下げる。

「初めてお目にかかります。雅美さんとお付き合いさせていただいております、楠瀬一義と申します。お言葉に甘えて、夕食をご相伴に預からせていただきます」

 さすがの彼も緊張しているらしく、表情も立ち姿もどこかぎこちない。

 そんな彼に、父は眉間にシワを寄せた。

 もしかして、父にはちゃんとした挨拶もなしに彼を家に上げてしまったことが気に入らないのだろうか。

 よく耳にするのは、娘の彼氏に対していい顔をする父親が少ないとのこと。

 こんな出来損ないの私でも父にとっては娘なのだから、やはり多少は面白くないと感じているのだろうか。

 私は急いで料理を置くと、一義さんのすぐそばに立った。

「お、お帰りなさい、お父さん」

 話しかけても、父はまだ鋭い目で彼を見ている。

 身長自体は一義さんの方が十センチほど高いものの、大勢の生徒を前に日々講義を行っている父は、かなりの存在感があるのだ。

 普段はとにかく穏やかな父ではあるが、今は不機嫌そうな様子を隠しもしないでいる。

「あ、あのね、お父さん、その……」

 何と言い繕うかと言葉を探しあぐねていると、父がゆっくりと一義さんへと歩み寄り、下からグッと睨み上げた。

 見たことのない父の様子に、小さく息を呑む。

 そんな私にかまうことなく、父はおもむろに口を開いた。

「その堅苦しい態度はなんだね?君と私たちは遠くないうちに家族になるのだから、もっと打ち解けてくれてもいいじゃないか」

 そう言った父は不敵に笑うと、一義さんの肩をポンポンと叩いた。

「……え?」

 自分が予想していた展開とは正反対のことが起こり、私はしばしポカンと立ちつくす。

「お父さん?」

 すると、父は一転して表情を和らげた。

「楠瀬君の事は、母さんと詩織から聞いたよ。手厳しいあの詩織があれだけ褒めちぎったんだ、悪い人であるはずないさ」

 そう言って、今度は一義さんへと向き直る。

「遠慮せず、たくさん食べていきなさい。我が家の料理は最高だぞ」

「ありがとうございます」

 普段通りの穏やかな父の様子に、一義さんが肩の力を僅かに抜いた。私は盛大に力を抜いた。


――よかった、特に何も起きなくて。


 胸を撫で下ろしていたその時、

「父さん!なんで、そんなにこの人のこと受け入れてんだよ!メチャクチャ大事な雅美ちゃんを奪いに来た男だぞ!叩き出すとか蹴り出すとか、そういうことをしないのかよ!?」

 再び隆志が騒ぐ。

 そして、その数秒後。またしても姉に沈められたのだった。


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