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(28)弟の挨拶と姉の関節技と私

 思いがけなく、一義さんに夕食をふるまうことになった。

 母は簡単なものしかできないと言っていたが、料理が得意で仕事にもしているほどの腕前なのだ。たとえ有りあわせの材料しかないとしても、あっという間にお客に出してもおかしくない料理に仕上げてくるだろう。

 

――結婚するなら、私も本格的に料理を勉強したほうがいいのかも。


 私は和、洋、中、一通りの料理は作れるものの、それはごく一般的な家庭料理の域を出ない腕前でしかないと思う。

 せっかく身近に最適な先生がいるのだ。教わらない手はない。


――そうだ。私がお弁当を作ったら、一義さんは会社に持っていってくれるかしら?


 彼が起きる前にキッチンに立ち、朝食の準備を進める傍ら、仕事に向かう一義さんのためにいそいそとお弁当を仕上げる私。

 家を出る彼を見送るために玄関まで一緒に行き、『これ、今日のお弁当です』などと言ってはにかみながらソッと差し出すのだ。

 そのお弁当を、彼はどんな顔で受け取ってくれるだろうか。

 照れた顔?嬉しい顔?

 いずれにせよ「ありがとう」と言って、会社に持っていってくれるだろう。

 と、考えが及んだところで、私ははたと気が付く。

 この私が『結婚』という二文字をすんなり思い浮かべるとは。更には、結婚後の生活を思い描くとは。

 我に返った途端に、頬がブワッと赤くなる。

「雅美、どうした?」

 横に立つ一義さんが不思議に私の顔を覗きこんできた。

「あ、あの、いえ……、何でもありません」

 フルフルと首を横に振った後、私は深呼吸をして落ち着きを取り戻そうとする。

 一義さんと付き合うことになって、まだまだ日も浅い。というか、やっと一日経っただけだ。

 それなのに、私の中ではこれまでにない変化を見せている。

 さえない事務員として、定年まであの居心地の悪い職場で過ごし、一生一人で生きていくのだと思っていた。

 それが私の人生で、そういった人生がお似合いだと思っていた。それを疑いもしなかった。 

 ところが、一義さんという素敵な男性が自分の恋人になり。喫茶店を開くという夢を与えてもらい。結婚という、私の人生には訪れないと思っていたイベントが現実となりつつある。

 ほんの二十四時間で、まさしく激動という名に相応しい変化が私に降りかかっているのだ。

 それに対して正直戸惑いは大きいが、これまでにない環境へと身を投じる期待感もある。

「一義さん」

 母は既にキッチンに向かったので、玄関の上り口には私と彼しかいない。静かに名前を呼ぶと、彼はフワリと目を細めて、ポンポンと私の頭を軽く叩いた。

「なんだ?」

「そ、その……、ありがとうございます」

 いきなりお礼を言われ、一義さんが不思議そうな顔をする。

 私もこの場面で「ありがとう」などど言うのはおかしいとは思ったが、どうしても言いたい気分になってしまったのだ。

「あ、いえ、急にこんなことを言っても、意味が分かりませんよね。す、すみません、気にしないでください」

 取り繕ったように笑いながら両手をパタパタと左右に振れば、その手を一義さんの大きな手がキュッと包み込んだ。

「礼を言われて、嫌な気分になる人間などいないさ。じゃ、俺からも雅美に。ありがとう」

 目を優しく細めて、一義さんが優しい声で告げる。

 何に対しての礼なのか分からないが、確かに、嫌な気分ではない。

 クスクスと笑い合う私たちだった。


 笑いを治めると、改めて彼にスリッパを勧める。 

「さぁて。お母さんの料理、楽しみだな」

「はい、期待してください。母の料理は、本当に何でも美味しいですから」

 と言ったところで。

「雅美ちゃーん!早く来てよー!お帰りのチュー、してあげるからー!雅美ちゃんの可愛いおでこに、いっぱいチューしてあげるねー!……ぎゃぁぁぁ!」

 隆志の大声がリビングから響いてくる。セリフの後の喚き声は、例のごとく、姉による躾けからだろう。

 私は弟の悲鳴も心配になるが、それ以上に、あのセリフが一義さんに聞かれてしまったことへの動揺を隠せないでいる。

 弟が仕掛ける朝の『おはよう』の挨拶と、帰宅後に行われる『お帰り』もしくは『ただいま』の挨拶は、私の中では「ああ、相変わらずね」程度にしか思わない。

 だが、こうして人様に聞かれると、その羞恥心は計り知れなかった。

 今すぐ消えていなくなってしまいたいが、一義さんを残して逃げ去る訳にはいかない。

 私は出来る限り体を小さくしてひたすら俯いていると、頭の上に彼の声が降ってきた。

「雅美。今、弟さんが言ったことって?」

「え?!あ、その、まぁ……」

 ゴニョゴニョと言葉を濁していると、私の肩を彼の手がガシリと掴んでくる。彼の手にジリジリと力が篭められていった。

「本当なんだな?」

「ええと、何と言いますか」

「……本当なんだな?」

 低さと凄みを増した彼の声に、私はガクガクと首を縦に振った。

「そ、そのですね、弟は中学二年の時、アメリカにしばらく留学していまして。その時、覚えた挨拶と言いますか、コミュニケーションと言いますか……」

 大きな手で掴まれた私の肩が鈍い痛みを訴えているが、一義さんの醸し出すオーラが怖すぎてそれを指摘できない。

 そのオーラを引っ込めることなく、一義さんが呟く。

「お母さんの料理を頂く前に、やらなくてはならないことがあるようだな」

「はい?」

「雅美が誰の恋人なのか、骨の髄まで分からせてやらないと」

 微笑む彼の顔は優しいはずなのに、どこか『鬼の楠瀬課長』を思わせるものだった。 

 

 何やら決意を秘めた一義さんを不思議に思いながらも、私は彼をリビングへと案内する。

 部屋の中央には、木製の大きなテーブルがどっしりとした存在感を放っていた。

 そのテーブルを挟んで三人掛け用のソファが置いてあり、テーブルの短辺には一人掛けのソファがある。

 奥に置かれた一人掛けソファは父の席なので、私は手前の一人掛けを彼に勧めるつもりだ。

 ちなみに、右手にある三人掛けソファには、弟を押し込めるようにして姉が座っている。

 体格も身長も男性である弟の方が勝っているのだが、常にスポーツと関わっている姉の腕力に軍配が上がっているようだ。

 それに、後ろに捻り上げられている弟の手首の角度がちょっとおかしい。あれは完璧に関節技が決まっている。あと三センチも上にずらせば、激しい痛みが弟を襲うに違いない。

 護身術として姉にあれこれ習っていた私は、その状況を見て取ると、弟の事が少々かわいそうになってきた。

 しかし、弟に抱きしめられて額にキスされる挨拶の様子を一義さんに見られたくないので、今日の所は全面的に姉の味方でいようと思う。

 隆志は恨めしい顔つきで姉を見ているものの、姉は弟の視線をまったく気にもかけず、私を見て笑顔で頷いた。

「雅美。こっちは大丈夫だから、任せといて。お母さんと夕食の支度をお願いね」

「う、うん。分かった」

 助けを求めてくる弟の目が良心をチクチクと刺激するが、今日ばかりは許してもらおう。私はスッと視線を逸らして、姉に頷き返す。

 もとより、定時で仕事が終わった時は、夕食の支度を手伝うことがもはや日課のようになっているので、姉の言葉には異論はない。

「あ、あの、一義さんはこらにかけて、楽にしていてください。今、お茶をお持ちしますから」

「ありがとう」

 ニッコリと笑った一義さんは、右腕を私の肩に回してグイッと引き寄せた。

「きゃっ」

 突然のことにバランスを崩した私は、そのまま彼の胸に飛び込む形になる。一義さんはよろめくことなく、私の事を抱き締めてきた。

「な、何を?」

 驚いて一義さんを見上げた瞬間、彼の唇が私の額に押し当てられる。

「……え?」

 目を見開いて唖然とする私に、ニッコリと微笑む一義さん。

「雅美が作る料理も楽しみにしてるよ」

 と言って、もう一度額にキスをしてきたのだった。


●雅美ちゃんのお姉さんの前で、一義さんが弟くん見せつけるようにデコチューしていますが。

「敢えて」ということで、ご理解いただけるとありがたいです。

一義さんは、いくらなんでもそこまでマナー知らずな人ではないのです。。

……たぶん(え?)


●一義さんと詩織姉さんにやっつけられる隆志君が面白くて、ついつい書いてしまいます。

 弄られキャラって、どうしてこうも楽しく書けるのかしら♪←ここに鬼がいます



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