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(27)帰宅する私

 結局、私は一義さんの車で家まで送ってもらうことになった。話の流れで、この先の出勤や退勤も、彼の都合がつく限りすべて一緒ということに。

 帰るときはまだいいが、朝、わざわざ家まで来てもらうのはさすがに心苦しい。

 そこまでしてもらう必要はないのだと何度言ったところで、一義さんは頑として譲らない。こんな事なら、電車内で痴漢に遭ったことを話さなければよかった。

 申し訳ない気持ちでいっぱいになり、自然と私の顔が俯きがちになってしまう。

 すると、すかさず一義さんが話しかけてきた。

「俺が車を出すことに対して悪いと思っているなら、それはお門違いだぞ」

「ですが、出勤前に私の家へ寄ってもらうとなれば、それだけご迷惑が掛かります。通勤の電車に乗っている時間はそう長くもないですし、私がちょっと我慢すれば……」

 膝の上に乗せているバッグの取っ手を手持無沙汰に弄っていれば、運転席から低い声が。

「ちょっと我慢すればだと?」

 信号待ちで車が止まったと同時に、一義さんがグリッと首を横に向けて私を軽く睨み付けてくる。

「痴漢に遭っているのに、それを我慢するのか⁉」

 少しだけ『鬼の楠瀬課長』の顔になっている彼に怯えつつも、私は口を開く。

「いえ、あの……、先程もお話したように、偶然手が当たってしまった場合もあるでしょうし。一概に痴漢とは……」

 しどろもどろに話す私を、課長がさらに睨む。

「俺もさっき言っただろう。たまたまだろうと何だろうと、雅美の体に俺以外の男が触れるのは気に入らないと。それに心配なんだよ」

「私の事を気にかけてくださるお気持ちは、本当に嬉しいですけど。何と言いますか、その……、私はこんな地味な人間ですし、顔立ちもパッとしません。なので、そうそう痴漢に遭うことも……」

 と言ったところで、彼の目が不機嫌そうにスッと細くなる。

「雅美、お前は甘い」

「どういうことでしょうか?」

「痴漢ってのはな、女性の顔を見て判断する訳じゃないそうだ」

「え?」

「触られても抵抗出来そうにない、周りに助けを呼びことも出来そうにない、そういったおとなしそうな女性を狙うらしい。顔やスタイルでターゲットを選ぶ痴漢もいるだろうが、大抵はそういう女性を狙うんだそうだ。おまけに雅美は割合小柄で華奢だ。痴漢にしてみれば格好の獲物なんだよ」

 知らなかった事実に少し驚いた。そうか、美女や美少女ばかりが狙われている訳ではないのか。

 とはいえ、自分がこれまでに遭遇した痴漢(と思われるもの)は、『本当に触られている?』と言った感じの疑わしい物ばかりだった。

「そうは仰いますが、今まで大きな被害に遭っていませんし。これからは気を付けて電車に乗りますので、きっと大丈夫ですよ」

 一義さんを安心させようと微笑みかけると、彼の瞳がグワッと開かれる。

「被害に遭ってからじゃ遅いんだよ!俺が雅美を送り迎えしたいと言ってるんだ、何も問題ないじゃないか!むしろ、俺の我がままだ!」

 ものすごい迫力に腰が引け、思わず窓際へとずり下がる。

「あ、あの、落ち着いてください」

 弱々しく声を掛ければ、シートベルトを物ともせず、一義さんが助手席へと身を乗り出した。

「それからな、例え雅美が我慢できたとしても、俺の方が我慢できないんだ!自分の恋人が自分以外の男に触られた日には、はらわた煮えくり返って仕事にならない!絶対にそうなる!断言してもいい!」

 真面目な顔で告げられた言葉に、目をぱちくり。

「そんな大げさな……」

 いつでも穏やかで冷静と評判の楠瀬一義課長が、プライベートでの出来事で業務に支障をきたすわけがない。

 と思っているのだが、彼の瞳は真剣そのもの。

 言い返す言葉が見つからずに黙っていると、

「だったら、俺も電車で通勤する」

 一義さんが言った。

「はい?」

 何かの聞き間違いだろうかと首を傾げれば、彼は満足げに大きく頷く。

「雅美と一緒に電車に乗って、周囲からの圧迫と痴漢から守ってやる。よし、そうしよう。これで解決だな」

「い、いえ、そんな、それこそ申し訳ないですって!」

 何てことを提案してくるのだと慌てて彼の左腕に縋りつく。すると、一義さんがひたりと私を見すえる。

「だったら、大人しく俺に送り迎えされろ」

 ここまで言われてしまえば私が返せる答えは、

「……はい、お願いします」

 意外にはなかった。




 家まで送ってもらうと、一義さんは私の親に挨拶すると言って玄関までやってきた。

「ただいま」

 声を掛けると同時にリビングの扉が壊れそうな勢いで開き、次いで、

「雅美ちゃん、お帰り!」

 満面の笑みを浮かべている隆志が顔を覗かせた。

 そしてものすごい勢いで駈け寄ってきて、いつものように私にガバッと抱き付こうとした瞬間。

「は~い、ストップ♪」

 いつの間にか現れた姉が素早く腕を伸ばし、隆志の襟首をむんずと掴んだ。

「ぐえっ」

 途端にTシャツの襟首が締められ、結果、弟の整った顔が苦しげに歪み、ヒキガエルみたいな声が漏れ出る。

 ちなみに、弟が私だけを眼中に入れて駆け寄ってきた瞬間、一義さんは即座に私を背後に隠したのである。彼がどうしてそんな行動を取ったのか不思議だ。

「げほっ、な、何すんだ!ったく、姉さんは雅美ちゃんと違って乱暴なんだよ!あぁ、義兄さんがかわいそうだ!少しは雅美ちゃんの優しさを見習え!……ぐほぉ」

 隆志の言葉に、笑顔を浮かべつつも姉が更に締め付けをきつくしたようだ。弟の顔がいっそう歪み、人間のものとは思えない声が漏れる。

「あなたたち、玄関先で何をしてるの?」

 姉と弟の仲裁に入るべきかと戸惑っていれば、穏やかに声を掛けてきたのは優しい笑顔を浮かべた母だった。

 姉は母に場所を譲ろうと、弟をズルズルと引きずってゆく。この光景、数時間前にも見た気がする。

 私は一義さんの背中から抜け出て、改めて帰宅の挨拶。

「ただいま。あ、あの、か……、か、か、彼に家まで送ってもらったの」

 これまで使ったことのない『彼』という言葉がすんなり口から出て来なくて、みっともないほどにどもる私。

 そんな私のことを、嬉しさを隠さずに柔らかい表情で見つめている一義さんの視線にかえっていたたまれなさを感じる。

 モジモジと俯けば、母親が優しげに小さく笑った。

「まぁ、そうだったの。楠瀬さん。よかったら、夕飯を召し上がっていきませんか?簡単なものしか用意出来ませんが、量はたくさんありますから」

「よろしいんですか?」

 一義さんが答えたところで、

「さっさと帰れ!そして、雅美ちゃんと別れろ!」

 リビングの方から隆志の怒鳴り声が。

 弟はあまり人見知りをしない性格なのに、いったいどうしたことだろうか。隆志はいつだって社交的な性格を発揮して、初対面の人とでも和やかに接することが出来るのだ。

 そんな弟が、一義さんにあんなことを言うなんて。

 ハラハラしながら隣の一義さんを窺えば、気分を害している様子はなさそうだ。さすが、懐の深さが違うと言ったところか。

 まだ学生の隆志から見たら、一義さんはあまりにも大人びているから気後れしているのだろう。だから、変に気を張って口調が乱暴になっているのかもしれない。後半の『雅美ちゃんと別れろ!』の意味はよく分からないが。

 私が軽く首を傾げていると、「うぐっ……」と低い呻き声が。またしても姉が弟に何かを仕掛けているらしい。お客さんがいるのに大声を出した弟に対する、姉なりの躾けなのだろう。

 春になれば大学を卒業するというのに弟はまだまだ子供だと苦笑していると、そんな私を一義さんと母が微笑ましい物を見るような目をしていた。

「え?」

「いや、雅美は気にしなくていい。そのまま何も気が付かないでいてくれ」

「そうよ。隆志はちょっと雅美にかまい過ぎるのよ。ただそれだけ」

「はぁ……」

 何だかよく分からない。

「ああ、それより。弟が騒がしくてすみません」

 私は慌てて一義さんに頭を下げた。

「普段はもう少し静かなんですけど、このところ情緒不安定なのか、落ち着きがないようで。彼女でも出来たら少しは違うのかもしれないんですけど、なぜか弟は恋人を作ろうとしないんです。同じ男性として、弟の気持ちは分かりますでしょうか?」

 私が真剣に尋ねると、一義さんは少しだけ同情を帯びた目をした。

「あれほどあからさまに気持ちを向けているというのに、本人には全く伝わっていないとは……。彼女を作れと言われる弟くんは、いささか不憫ではあるな」

「楠瀬さんが気になさることはないんですよ。いい加減、あの子は現実を見るべきなんですから。

さ、どうぞ。上がってください」

 笑みを浮かべながらスパッとした口調で告げる母が、来客用のスリッパを並べる。

「では、お言葉に甘えてお邪魔させていただきます」

 一義さんが背筋をピシリと伸ばし、頭を下げた。

「いずれ家族になるんですから、そんなにかしこまる必要はないですよ。楽になさってください」

 柔らかく微笑む母の言葉に、私はほんのりと顔を赤らめる。

『いずれ家族に』というのは、私が一義さんと結婚するということ。それを考えると、気恥ずかしくて何やら落ち着かない。

 照れくささを隠すように私も急いで靴を脱いで玄関に上がれば、一義さんは母に見えない位置で私の手をソッと握った。

 その仕草にますます顔を赤くしていると、

「俺はその人が家族になるのは認めないし、雅美ちゃんの恋人だって事も認めないからな!……ね、姉さん、ギブ、ギブ!お、俺、し、し、死んじゃうからーーー‼」

 今日一番の絶叫が、この家に響きわたったのだった。



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