(25)可愛げのない私
喫茶店を開くという夢を胸に秘めた私は、部署に戻っても午前中ほど鋭い視線に怯まないで済んだ。
とはいえ、全く怖くないと言ったら、それは嘘。いつもの無表情が幸いして何事もないように仕事を進めているけれど、自然とため息が零れてしまう。
そんな私を見て、上条さんはクスリと笑った。
「石野さん、大丈夫ですか?顔色が悪いですよ」
心配していると見せかけて、この状況に追い込まれている私の様子を楽しんでいるのが伝わってくる。
彼女が羨ましい。上条さんが持つしたたかな部分は、多種多様な人間がひしめく現代社会で生き抜くためにはある意味必要なものだと思う。
私のように、睨み付けられたくらいで意気消沈してしまうような人間は、根性無しの甘ったれだ。
実際に嫌がらせをされたわけでもないし、理不尽な扱いを受けた訳でもないし、ましてや暴力を振るわれたわけでもないのだ。
睨まれたぐらいで怯むような弱虫では、自分の店を持った時、トラブルのたびに寝込んでしまいかねない。そんな自分は嫌だ。
―――しっかりしなくちゃ。こんなことに負けていられない。
息を深く吸い、ゆっくりと吐き出す。そして、向けられる視線を振り払うように集中した。
すっかりいつものペースを取り戻した私が面白くなかったようで、上条さんは私に話しかけることもない。話かけられても、仕事に関係ない話題はすべて突っぱね続けた結果だ。
それが良かったとも言えないし、もっとスマートな対応があったかもしれないが、私にしてはこれが精いっぱい。不器用な自分が情けなくもあるが、今はやたらと吹っ切れていて、気持ち的にはスッキリしていた。
話しかけられることがなければ、ますます仕事に集中できる。周囲の話し声が一切耳に入らなくなっていた私は、ひたすらデータ処理をこなしていった。
そして終業時間を少し過ぎた頃、テキパキと帰り支度を済ませて席を立つ。上司と周囲に声を掛け、足早に営業部を後にした。
一義さんの恋人になりたかった女性社員たちの視線が、廊下を歩く私に容赦なく向けられる。
待ち構えていたのか、上条さんが名前を上げた女性社員たちが勢ぞろいしてこちらを睨んでいた。彼女たちの容姿は可愛い、綺麗、上品、といったように、それぞれ特徴がある。そんな彼女たちに共通しているのは『華がある』ということ。一介の事務員である私とは違い、そこにいるだけで存在感を示しているのだ。
彼女たちが放つオーラを無視することが出来ずに、思わず立ち止まってしまった。顔を向ければ、こちらを射抜くような目つきに一瞬肩が跳ねる。
だけど、私自身は何も間違ったことをしていない。周囲に責められるようなことはしていない。ただ、一義さんを好きになって、彼の気持ちを受け入れただけ。それは罪に問われるようなことではないのだ。
足が震えてしまいそうになる自分にそう言い聞かせ、私は視線を前に据えて歩き出した。
彼女たちの視線は気になるけれど、気にしない。肩に下げたバッグをグッと抱えなおし、私は怯むことなくしっかりした足取りで社員通用口へと向かう。
オドオドした様子を見せない私の態度に呆気にとられたようで、彼女たちは誰一人として声を掛けてこなかった。
自分がしっかりすることで切り抜けられる事態があるのだと分かり、それがちょっとだけ自信に繋がる。
それも一義さんのおかげだ。彼が新しい道を示してくれたから、新しい居場所を作ろうとしてくれるから、私は強くなろうと思うことが出来たのだ。
―――やっぱり、一義さんは素敵な人だわ。
自分の恋人を心の中でこっそり褒めると同時に、バッグのポケットに入れていた携帯が震えた。着信画面を見てみれば、弟からのメールだ。
『雅美ちゃん、お疲れ様。何時に帰ってくるの?今日は撮影がないから、雅美ちゃんとゆっくり話せるよ。すごく楽しみ。気を付けて帰ってきてね。大好き、雅美ちゃん』
最後に大きなハートマークで締めくくられたメール。末っ子のせいか甘えん坊で、いつまで経っても姉離れが出来ないようだ。
特別可愛がった覚えもないのに、出来が悪くて不愛想な姉をよくもここまで慕えるものだと、弟の言動にはもはや感心する。
「昨夜は心配させちゃったみたいだし、今夜は隆志の好きなメニューにしてあげようかな」
外泊した私を寝ないで待っていた心配性の弟を思い浮かべ、クスクスと笑う。
その時、後ろから伸びてきた腕に捕らわれた。
「きゃっ」
がくんと後ろに傾いだ背中が、逞しい胸板にぶつかって止まる。危なげなく私を受け止めたその人は、素早く私を抱き留めて囁く。
「どうして一人で帰ろうとするんだ?」
不機嫌丸出しのその人は、先程心の中で褒めた一義さんだった。
「あ、あの、放してくださいっ」
慌てて身じろぎするものの、暴れるほどに彼は腕の力を強めて私を抱き込む。幸いなことに今は周りに誰もいないけれど、帰宅する社員がいつここに現れるか分からないのだ。
「お願いです、放してください!」
「駄目だ」
「どうしてですか⁈」
「雅美が心配だからに決まっているだろう」
そう言った雅義さんはいったん腕の拘束を解き、私の肩に手をかけてクルリと半回転させる。そして、マジマジと私の顔を覗きこんできた。
「大丈夫か?……って、どうやら心配するほどでもなかったか」
一義さんはホッとしたように、だけど、どこか寂しそうに言った。
私の表情が午前中に見せたものとまるで違っていたからだろう。食欲を失うほど気落ちしていた私はどこにもおらず、まるで普段の私がそこにいた。
それにしても、彼がホッとする理由は分かるが、なぜ寂しそうなのだろうか。
首を傾げる私に、一義さんは苦笑する。
「もっと俺の事を頼ってほしかったんだよ」
「……え?」
意味が理解できないと瞬きする私に、彼は苦笑を深めた。
「怖いって言って俺に泣きついて、甘えてほしかったんだ。『私のそばにいて』って、縋り付いてほしかったんだ。それなのに、雅美はいつの間にか気持ちを切り替えて仕事に打ち込んでいるし。帰りは帰りで、一人でさっさと帰ろうとするし」
どうやら、一義さんは儚くて可愛げのある私を望んでいたようだ。
実際の自分が彼の要望とかけ離れていたことに、胃の奥がズンと重くなる。
「ご、ごめんなさい。私、そういうことに気が付かなくて……。課長にこれ以上ご迷惑をかけたくはありませんし、それに、私はもう大丈夫ですから。それで、あの……」
何を言い繕ったところで、結局、私は可愛くない女なのだ。甘えることも出来ないし、今だって、口を突くのは彼の名前じゃなくてこれまで通りの役職。
言葉を探せば探すほどなにも出て来ず、胃の奥はますます重くなる。
―――やっぱり、私は恋愛なんて向いてないんだわ。一義さんには、可愛げがあって素直に甘えられる女性がお似合いよ……。
可愛いくない上に融通が利かない女なんて、彼にはふさわしくない。
目を合わせることが出来ずに俯けば、一義さんは私をきつく抱きしめた。
「雅美。俺といる時に、そんな悲しそうな顔をするな」
「ですが、私は課長の望むような可愛らしい女性ではありませんし……」
そう言ったきり黙り込めば、いっそう強い力で抱きしめられる。
「俺にとって、雅美はメチャクチャ可愛い女だから」
少しの隙間も許さないとばかりに私をしっかりと抱き寄せ、一義さんは甘く囁いてきた。
「何をおっしゃるんですか?泣きつかない、甘えない、縋り付かない私の、どこが可愛いと?」
言っていることがどうもずれているような気がして、私は不思議に感じる気持ちを隠せずに尋ねた。すると、背の高い彼は、私の頭にソッと顎先を乗せて優しく囁いてくる。
「可愛げのない雅美が可愛いって言ってるんだよ」
「はぁ?」
ますます頭が混乱する。可愛くない私が可愛いとは、これいかに?それ、何のなぞかけでしょうか。
「まったく意味が解りませんが」
しきりに首を捻る私に、一義さんは
「だから、俺の目にはどんな雅美でも可愛く映るって言ってんの。いい加減、分かれよ」
と、楽しげな口調で告げてくる。
「いくらなんでも、それはおかしくないですか?課長の目、一度眼科で診てもらったほうが……」
最後まで言い切る前に彼の右手が私の顎を掴んで、グッと上向きにさせる。
「ゴチャゴチャうるさい口は塞いでやる」
ニヤリと不敵に微笑んだ一義さんは、私の唇を自分の唇で塞いだのだった。