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(24)お弁当と喫茶店と私

 それからようやく私を開放した一義さんは、空いている小会議室へと向かった。

「お昼はもう召し上がったんですか?」

「これからだ。雅美と一緒に食べようと思って、仕出し弁当を取った」

 そう言って彼が扉を開けた先には、長机の上に薄紫の風呂敷包みが二つある。

「今朝の雅美には弁当を作る暇はなかったし、それに社員食堂は好奇の目が合って落ち着かないだろう。だから、弁当を用意したんだ。役員たちも利用している仕出し屋だから、味はかなりいいぞ」

 そう言って、一義さんは風呂敷包みが置かれている前に私を座らせた。

「あ、あの、でも、こんなにいいお弁当はもったいないです」

 この手のお弁当は、そう安くはないはずだ。少なく見積もっても、三千円はするだろうか。

 遠慮をすれば、一義さんは苦く笑う。

「せっかく配達してもらったのに、食べない方がもったないぞ。さすがの俺も、二人前を食べるほど胃は大きくない」

「では、せめて私の分の代金をっ」

 手にしている財布を慌てて開こうとすれば、

「このくらい、奢らせろよ。俺の給料は、そんなに安くないぞ」

 と、軽く睨まれる。

「いえ、その、課長は仕事に見合う分の高いお給料をもらっているとは思いますが。それとこれは別と言いますかっ」

 言い訳をする私の唇を、彼は右の人差し指で封じた。

「今、俺の事を“課長”と言ったな?」 

「は?は、はい、そうですが」

 唇から指が離れたのでそう答えると、彼の眉がグッと寄る。

「こっちは散々“雅美”と呼んでいるのに、どうして役職で呼ぶ?」

「社内ですので、思わず」

 素直に言葉にすれば、一義さんは眉間にシワを一本刻んだ。

「ここには俺たちしかいないのだから、名前で呼んでほしいんだが」

 不機嫌そうな声で言われるが、いくら他の人がいない場所でも昼休憩中でも、『ここは会社』という意識は、私の中から簡単には抜けていかないのだ。

 こういう不器用な自分が嫌になる。一義さんだって、素直に甘える可愛い恋人の方がいいはずなのに。

 私は彼の顔を見ていられなくなり、視線を伏せた。

 すると一義さんは親指で私の唇をなぞってくる。

「別に、責めた訳じゃないんだ。俺がわがままを言っただけなんだから、雅美が気にする必要はない」

 優しい声で慰めてくれるけれど、しょんぼりと落ち込む私は顔を上げることが出来ない。唇を辿る彼の指の動きを感じながら、ただ、大人しくしている。

 すると、クスリと小さく苦笑された。

「そういうキチッとしている所も雅美らしくて、俺は好きだよ」

 そう言って親指を唇から顎先に滑らせると、クイッと私の顔を上向きにして、チュッとキスをする一義さん。

 散々深いキスもしたというのに、こんな軽いキスでも私の顔は瞬時に赤く染まる。

「可愛いな、雅美は」

 ユルリと目を細めた一義さんはさっきより少し強めに唇を押し付け、離れる時に私の下唇をやんわりと食んだ。

 そんな甘ったるいキスをされれば、私の胸は一杯になってしまう。これからお弁当を食べるというのに、一口も手を付けられなくなりそうだ。




 結局、お弁当の代金は払わせてもらえなかった。

 金額に見当をつけて一義さんの手にお金を握らせようとしたものの、力では彼にかなうはずもなく。

 その上、

「今朝、車の中でたっぷりキスをもらったからな。代金はそれで十分だ」

 と言われてしまった。

 それが恥ずかしくて一瞬ひるんでしまったが、自分のキスがお弁当分の価値があるとは思えず、その後も必死になって彼にお金を渡そうと頑張ったものの。

「だったら、俺が満足するまでキスをさせてもらおうか」

 壮絶なほどに艶っぽく微笑む彼が怖くなって、私は大人しくお金を財布にしまったのだった。


 こんな風に何やかんやとあった後、 

「さ、食べようか」

 彼は私の隣に腰を下ろす。そしてペットボトルを差し出してきた。

「あの阿川部長を惚れこませた腕を持つ雅美にお茶を入れてやる勇気はないから、ペットボトルのお茶で勘弁してくれ。これならば、味はある程度保障されているからな」

 その冗談は、午前中の業務で気落ちした私に対する彼なりの気遣いなのだろう。苦笑いを浮かべている彼に、私も小さな微笑みを浮かべる。

「ありがとうございます」

 諸々の意味を込めてお礼を述べ、差し出されたペットボトルを受け取った。そして、さっそく風呂敷を解きにかかる。

 上品な黒塗り物の蓋を取ってみれば、綺麗に詰めらている幕の内弁当が現れた。

 煮物を一口食べてみれば、出汁が十分に染みていて美味しい。思わず顔が綻ぶ。

 そんな私を見て安心したのか、一義さんもお弁当を食べ始めた。


 美味しいお弁当を食べて気持ちがいくらか落ち着き、今はゆっくりとお茶を飲んでいる。

「ごちそうさまでした。こんなに美味しいお弁当を、わざわざありがとうございます」

 横にいる彼に改めて頭を下げると、

「この程度で礼を言われると、かえって居心地が悪い。俺が勝手にやったことなんだから、雅美は気にするな」

 と言われてしまう。

 だが、一義さんの気遣いで塞いでいた心が楽になったのは事実だ。本当に彼は素晴らしい恋人である。

 ただ、彼が素晴らしい人であればこそ、自分はちっぽけな存在に思えてしまう。睨み付けられただけで挫けてしまいそうになるなんて、いい年をした大人のくせに情けないにもほどがある。

 私はお弁当を包み直すという名目で彼から目を逸らし、こっそりとため息を吐いた。

 しかし、目ざとい一義さんはそんな私を見逃さない。

「雅美」

 私の名前を呼んで、風呂敷を結んでいた私の手を掴む。そしてその手を引くように、自分の方へと向かせた。

 椅子の座面でお尻を九十度移動させた私は、一義さんと向き合うことになる。

「どうされましたか?」

 声を掛けると、彼は私の手を改めて強く握りしめた。

「会社、辞めるか?」

「え?」

 突然そんなことを切り出されて、私は目の前の恋人を凝視する。一義さんは冗談を言った様子はなく、すごく真剣な顔をしていた。

「俺としても、会社としても、出来れば雅美には仕事を続けてほしい。とはいえ、雅美がツラそうにしている顔を見たくないんだ。理不尽な扱いに耐える雅美を、これ以上見ていたくない」

「一義さん?」

 苦しそうな表情を浮かべて話をする彼を呼べば、いっそう渋い顔となる。

「お前がKOBAYASHIに残るのであれば、俺は全力でお前を守ってやる。だが、それでも不安だというなら、辞めるという手段もある」

「で、ですが、私には仕事しかないので、会社を辞めたら……」

 とたんに心細くなった。

『仕事しかない』と口にしたものの、私の存在などいくらでも代わりがいる。それでも、私がどうにか居場所を確保出来ているのは、今の仕事があるからだ。

 それが無くなってしまったら、私はどこに行けばいいのだろうか。

 不安のあまりに視線を惑わせれば、一義さんは握っていた手を思いきり強く引いてきた。

「きゃっ」

 短く悲鳴を上げた時には、彼の膝の上で抱き込まれている状態。咄嗟に立ち上がろうとするが、長い腕が私を抱きすくめてきた。

「あ、あの」

 戸惑う私を宥めるつもりなのか、一義さんは私の髪に頬ずりしてくる。そして、ゆっくりとしたリズムで私の背をポン、ポンと優しく叩いていた。

「そんなことはない。雅美なら、会社以外の場所でもやっていける。そうだな、美味しいお茶を入れる特技を活かして、小さな喫茶店でも開いたらどうだ?」

「え?」

 これまで考えもしなかった提案に、私は目をぱちくりとしぱたたかせる。

「大きな店じゃなくてもいいだろう。一人で手が回るくらいの、小ぢんまりとした店の方がかえって落ち着いた雰囲気でいいと思うぞ」

「……喫茶店」

 ポツリと呟いた途端、私の胸が楽しそうに小さく弾んだ。

 これまで事務職にしか携わってこなかったから、自分にはそういう仕事しかできないと思っていた。今の仕事内容には不満もなく、だから、他の道を考えたこともなかった。

 それが一義さんの言葉で、新しい道が見えてきた気がする。自分が好きなことを仕事に出来たら、どんなにいいだろうか。

 もちろん、そんな甘い物じゃないだろう。

 今までだってお客様に飲み物を出す時だって、それなりの使命感を抱いて臨んでいた。それがお客様からお金を頂くということになれば、これまで以上に気合を入れてこなさなくてはいけない。

 また、いくら美味しい飲み物を出したとしても、お客様商売というのはどうなるか分からないものだ。「水商売」とはうまく言ったもので、お客様次第で店は右にも左にも流される。

 つまり、自分の努力だけではどうにもならない事態が起こりえるのだ。


 それでも……。


「やってみたいです」

 これまで生きてきた中で、こんなに前向きな気持ちになったのは初めてのことかもしれない。

 フワリと顔が明るくなった私を見て、一義さんも表情を緩めた。

「やってみろ。いくらでも応援する」

 その言葉に、コクリと頷いた。

「なんだか、すごく嬉しいです。初めて私だけの居場所が出来るみたいで」

 思わずと言った風に零せば、やたら強い力で抱きしめられる。

「あくまでも、お前の居場所は俺の腕の中だぞ。それは絶対に忘れるな」  

 少し拗ねた風に言ってくる一義さんに、私はソッと体を預けたのだった。


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