(23)嫌がらせと黒い恋人に怯える私
上条さんは私に向けて好意的なセリフは言わないけれど、それでも、これまで嘘を口にしたことはない。だから一義さんに想いを寄せている他部署の女子社員たちが、腹いせとして私に何かするかもしれないというのは、無視できない話だった。
実際に上条さんが挙げた他部署の女性社員たちは、何かと用事を作っては始業直後からこの営業部に足を運び、そして私の事を殺気が混じった視線で見遣ってくる。
周囲の人たちから信頼と好意を寄せられる彼と付き合うことになり、大なり小なり反発があることは覚悟していたものの、ここまで攻撃的に感情をぶつけられるとは思ってもみなかった。
今はまだ勤務中ということで他の人目もあるし、なにより一義さんが席にいる。だから、彼女たちもあからさまな行動には打って出ない。
だが、一義さんが外回りや打ち合わせのために席を外してしまったら?仕事終わりに、一人の所を狙われてしまったら?
その状況を見過ごすことなく、彼女たちは途端に詰め寄ってくるだろう。
そんなものは被害妄想に過ぎないと言ってしまえればいいのに、これまでに彼女たちが見せていた一義さんへの執着ともいえる情熱をずっと目にしてきた。考え過ぎだと、簡単に言えないのだ。
今もまた、経理部の女性社員が大して急ぎでもない書類の提出を迫りに、営業一課の社員たちの元へとやってきた。そして帰り際に、私へと一瞥をくれてから部屋を出ていく。
それほどまでに、私と一義さんは釣り合いが取れていないということなのか。
憧れの男性社員を射止めた私を恨みたくなる気持ちも分からないではないが、こうも鋭い視線を向けられるとなれば、気分はどんどん下降してゆく。想いが通じ合って幸せなはずなのに、このままでは一義さんと別れた方がいいとまで思考が落ち込んでいきそうだ。
――しっかりしなくちゃ。
軽く頭を振って、余計な考えを追い出す。
しかし、上条さんから聞かされた話と、女性社員たちから絶えず向けられる威嚇を含んだ静かな視線によって、私の精神力は時間を追うごとに削られてゆく。
それでも、表面上は何事もないかのようにして仕事をこなしていった。手を止めたら余計な事を考えてしまいそうで、それが怖くてひたすら仕事に没頭する。
そんな時間がどれほど続いたのか分からなくなるほどになった頃、ポンと肩を叩かれた。目の前の書類や資料にしか目に入っていなかった私は、ビクリと大げさに体を跳ね上げる。
怯えに引き攣った顔で横を見遣れば、一義さんが心配の色を瞳に滲ませてこちらを見ていた。
「あ、あの、何か?」
「そろそろ休憩にしないか?」
「え?」
その言葉に慌てて周囲を見遣れば、他の社員たちはとっくに出掛けて行ったのか、私と一義さんしか残っていなかった。
「もう、そんな時間ですか?」
驚いて腕時計に視線を落とせば、昼休憩に入って既に十五分が経過していた。私はそそくさとバッグから財布を取り出す。
「今日はお弁当を持って来ていないので、外に出てきます」
ペコリと頭を下げて歩き出そうとすれば、後ろからサッと伸びてきた腕に抱きすくめられた。
「きゃっ」
とっさに回された腕を振りほどこうとすれば、更に力を込められてすっかり抱き込まれてしまう。
「何をなさるんですか!」
「今は俺たちしかいない」
「ですが、ここは職場です!」
「少しの間だけでいい」
そう言って、一義さんが私の肩口に顔を埋めてきた。
誰かに見られたら困るという思いもあったが、塞いでしまった気持ちが彼の温もりによって徐々に和らいでゆくのを感じ、私は大人しくされるままに。
体の力を抜いて、背後の一義さんに少しだけ寄りかかる。
「どうされたんですか?」
「何となく、雅美が俺から離れていきそうに思えてな」
別れようという思いがほんの少しだけでも脳裏に過っていた私は、その言葉に小さく息を呑んだ。
すっかり私を抱き込んでいる一義さんが、それを見逃すはずはない。腕に一層力を込めて、ギュッと強く抱きしめてきた。
「雅美、本気でそんな事を考えたんじゃないよな?」
部下を叱りつける時のように、低い声が私の耳に届く。
「いえ、その……」
何と言い返せばいいのか言葉に詰まった。まぁ、言い返したところで、彼には分かってしまっているので今更だろうが。
結局黙り込んでしまった私に、一義さんは長く息を吐いた。
「勤務中にもかかわらずあんな顔で雅美を睨むなんて、社会に出た大人としてどうなんだ?ったく、嫉妬は醜いな」
呆れた口調でボソボソと零した彼に、私はちょっと驚く。
「え?気付いていたんですか?」
彼女たちはいくら腹を立てていても、一義さんの前では良い顔をしたいがために、彼の死角から私を睨み付けていたのだが。それに気がついていたとは、この人は後頭部に目があるのだろうか。
仕事が出来る人というのは些細な事も見逃さないのだなと感心しつつ、
「ですが、それだけあの方たちも本気だったということではないでしょうか?」
と言えば、彼の顎先が私の頭に乗せられる。
「本気だったら何してもいいってことじゃないだろうが。あんなに睨まれて、なんで雅美は庇うようなことを言うんだ?」
「いえ、庇ったつもりは……」
思ったことを口にしただけなので、あまり意味はない。再び黙ってしまうと、私の頭に一義さんが頬擦りしてくる。
「雅美は奥ゆかしくて可愛いな」
奥ゆかしくはないと思う。私の場合は臆病だから、単に彼女たちと対峙できないだけ。それがどうして奥ゆかしくて可愛いとなるのか。『これが痘痕も靨というものか』と心の中で呟いていると、一義さんが話を続ける。
「いくら彼女たちが本気でも、俺が好きなのは雅美なんだ。その事実は、何があってもひっくり返らない。……それにこの状況で雅美に何かあったら、俺は容赦なくアイツらに仕返しするぞ。犯人は明らかだしな」
最後のセリフは一段と声が低くなり、『鬼』と化した彼の声に私は震えあがった。
「あ、あの、仕返しはよくないかと。それに、まだ具体的に何かされたわけでもないですし……」
ビクビクしながら口を開けば、フンと鼻を鳴らした一義さんが不機嫌全開で返してくる。
「だーかーら、さっき散々睨まれていただろうが!それだって十分嫌がらせに値するし、だからこそ雅美は暗い顔をしているんだろう?なんだって雅美は、そんなに心が広いんだか。ああ、雅美の爪の垢を煎じてアイツらに飲ませてやりたい」
一義さんにかかると、私の控えめな発言はすべて肯定的に捉えられる。それが気恥ずかしくてまた黙ってしまうと、彼はクスリと小さな笑みを漏らす。
「自分の恋人が嫌がらせを受けているのを目にして、彼氏の俺が黙っていられるはずがないだろう。実際に手を出していないとはいえ、雅美に精神的負担を掛けただけでも腹が立つ。倍にして、きっちり返してやるさ」
クスクスと笑いながら告げられたセリフに、私は改めて震えあがる。
「い、いえ、あの、私なら大丈夫ですからっ」
「ん?遠慮は必要ないぞ」
「え、遠慮とか、そういうことではなくっ」
「心配もいらないぞ。雅美に反撃する気が微塵も起きないほど、徹底的に追い詰めてやるからな」
黒い。黒すぎる。自分の彼氏が、とてつもなく黒いオーラを放っている。
――私、とんでもない人の恋人になってしまったのではないだろうか。
やけに楽しそうに、それでいてかなり本気を滲ませている口調で一義さんは言う。それを間近で耳にして、私は三度震えだした。