(22)告白翌日の私
その後、着替えを済ませた私は一義さんの車で一緒に出勤することに。
先日、彼の爆弾発言により、私たちの付き合いが部内に知れ渡ってしまった。その時の騒然とした空気と独身女子社員たちの刺すような視線を感じ、非常に居心地が悪かった。大抵の物事に動じないこの私が、周囲から寄せられる好奇と驚愕には耐えられなかったのである。
だからこそ、今日は穏便に済ませたかった。
ところが、実家の玄関を出て駅に向かって進もうとする私の腰をがっしりと抱きこみ、その後は強引に助手席へと押し込めた一義さん。
「あ、あの、電車でっ」
咄嗟に車から降りようとするも、
「行かせるわけないだろう。どうせ行き先は一緒なんだから、車に乗っていけばいい。ほら、大人しくしろ」
そう言って一義さんがグイグイと私を助手席に沈ませ、手早くシートベルトを嵌めてしまった。
行き先が一緒だからこそ、一義さんと揃って出勤したくない。彼の告白であれだけ騒ぎになったのだから、二人で出勤となれば、更なる騒動を巻き起こすに違いないのだ。
それは避けたい。今まで地味な人生しか送ってこなかった私にとって、この現実はすでにいっぱいいっぱい。対処しきれない事態に、頭がブラックアウトしてしまいそうだ。
そうすれば、唯一の拠り所である仕事が満足にこなせなくなってしまう。何もできない私には、仕事しかないのだ。それなのに会社で“役立たず”の烙印を押されてしまうと、居心地が悪いどころか居場所すらなくなってしまう。
「でも、私っ、やっぱり電車で行きますから!」
そう叫んだ私はシートベルトを外し、運転席に彼が乗り込んできたと同時に慌て車を降りようとした。ところが、膝の上に置いていた私のバッグを一義さんがバッと奪う。そしてそのバッグを自分と運転席扉の隙間に捻じ込んでしまったのだ。
「返してください!そのバッグに財布も定期も入ってるんです!」
バッグがなければ、いくら私が車から脱出したところで会社には行けない。必死になってバッグへと腕を伸ばす。
すると、
「積極的で嬉しいよ、雅美」
と言われ、一義さんに抱きしめられた。
「は?え?」
ふと我に返って、今の体勢を確認する。
左腕をバッグへと伸ばしている私は、彼の上半身へ斜めに覆いかぶさる体勢になっていた。そんな私を笑顔で抱き寄せる一義さん。
「い、いえ、そう言うことではなくて!私は、ただ、バッグを!……んっ」
上から彼の顔が近づいていて、素早く唇が塞がれてしまった。身を捩ろうにも変な体勢なので、まったく力が入らない。それ以上にガッチリと抱きすくめられているので、本当に身動きが取れない。
慌てる私に構わず、一義さんがスルリと舌を忍び込ませた。
「やっ、んん……」
私の吐息に重なり、小さな水音が狭い車内に響く。彼の舌が絡みついてクチュリという音を立てるたびに、思考がボンヤリと霞んでゆく。
濃厚なキスを繰り返され、段々と弛緩してゆく私の体。ようやく唇が解放されたころには、一義さんの胸にくたりと凭れかかっていた。
浅い呼吸を繰り返してボンヤリとしている私の額にチュッと唇を寄せた一義さんは、満足そうに口角を上げる。そしてゆっくりと私を助手席へと収め、再び私のシートベルトを嵌めた。
「さ、一緒に出勤しような」
笑顔でエンジンキーを回す一義さんに、私はもう何も言えなかったのだった。
そして、会社に到着。地下駐車場に車を止めた一義さんは、私と自分のバッグを右手で持ち、私の腰を左腕で抱き寄せる。
「あ、あの、この体勢は⁉」
まだ足の力が戻っていないけれど、それでも懸命に踏ん張る。そんな私を左腕一本で容易にいなして足を進める一義さん。
「恋人同士なんだから、別におかしくないだろ?」
そう言って私のこめかみにキスをしてきた。
私が知っている会社での彼は、いつだって穏やかで、ストイックで、一部では『鬼』と呼ばれている人。そんな彼が見せる甘い態度に、私の脳がまだ追いついていけない。
「で、ですが!さすがに、これは……」
社内恋愛が容認されている我が社ではあるものの、互いの半身をピタリと寄せ合って歩く様子は、いくらなんでも常識外れだ。そんな気持ちを篭めて一義さんを見上げると、
「じゃ、これでいいだろ?」
腰にあった手が、スルリと私の右手を握る。
「え?」
てっきり放してもらえると思っていたのに、グイグイ手を引かれて歩くことになってしまって更に驚く。指同士をしっかり重なり合わせて握られているため、結局は腰を抱かれて歩くのと同じくらい恥ずかしい。
腕を引いても振っても放してもらえず、私は羞恥で泣きそうになりながら廊下を進むしかなかった。
そんな状態で営業部に顔を出したのだから、それを見た社員たちは一瞬唖然となる。妙な沈黙をものともせず、一義さんは足を踏み入れた。
「部長、おはようございます」
ニコリと爽やかに声を掛ける一義さん。
「お、おは、おはようございます……」
いまだに手を繋がれている私は、部長の顔を見ることが出来ず、消え入りそうな声で朝の挨拶をするのが精いっぱい。
対照的な私たちを見て、部長は呆気にとられた後、苦く笑った。
「おはよう。仲がいいのは結構だが、手加減したほうがいいぞ、楠瀬君。恥ずかしがり屋の石野君が少々かわいそうだ」
「ああ、すみません。長年の想いが叶った嬉しさで、どうしても彼女に触れていたかったものですから」
課長のその言葉に、部長と他の男性社員たちがまた苦く笑う。しかし、女性社員たちの態度は、一貫して冷たいものだった。昨日の一義さんの告白が冗談などではなかったと証明されたことが、彼の恋人になりたかった女性社員の視線を鋭くさせているらしい。
彼女たちに否定的な目を向けられたところで、今更自分の想いをなかったことにするつもりはないけれど、こういう視線を毎日浴びながら仕事するとなれば、いくら私でも少々精神的に厳しい。
今はまだ私の事を睨んでくるに留まっているものの、この先、一義さんから引き離そうと私に嫌がらせをしてこないとは言い切れない。それだけ、彼に向ける彼女たちの恋心は真剣で必死なものがあったのだ。
部長に言われて手を離した一義さんは、そのまま部長と打ち合わせに入るようだ。私は二人に頭を下げ、自分のバッグを受け取ってデスクへと向かう。席に腰を下ろしたとたん、上条さんが話しかけてきた。
「おはようございます、石野さん」
今日も可愛らしい彼女が、明るい声を出す。だけど、その目は笑っていない。それでも私はそんな彼女の様子に気付いていない振りをして、いつものように挨拶を返した。
「おはよう」
それ以上何も言うこともないので仕事を始めようとすれば、
「ねぇ、ねぇ、ちょっとお話しましょうよ~」
やたら砕けた口調で声を掛けられる。上条さんの中では、私は尊敬に値する先輩ではないようだ。彼女の態度には既に慣れているので、別段腹も立てることもない。
「でも、もうすぐ始業時間よ。仕事の準備をした方がいいんじゃないかしら」
さりげなく言い返した私は、昨日の仕事を再開するべく書類に手を伸ばす。
「でも、ちょっとだけですから。ね?」
私の腕を掴んで軽く揺すってくる上条さん。
このまま放っておくと、間違いなく彼女の態度はエスカレートしてゆくだろう。それならとりあえず相手をしておけば、下手にまとわりつかれることがないかもしれない。
「何、話って」
書類をデスクに置いた私は、椅子を少し回転させて上条さんへと体を向けた。
「何って、そんなの、決まっているじゃないですか。楠瀬課長と石野さんの事ですよ」
まぁ、そうだろう。それ以外の事で彼女が私に訊きたいことなどありはしない。何を言われるのかと内心ビクビクしていたら、上条さんはふっくらした綺麗な唇を楽しげに開いた。
「昨日はみんなで、“あんなドッキリをしかけるなんて、楠瀬課長もユーモアがあるんだね”って話していたんですよ。ほら、課長って堅物ではないけど、それほど打ち解けたところはないですし。それがまさか、告白が本当だったなんて。周りがビックリするのも、無理ないですよねぇ。だって、あの課長と、あの石野さんですし」
彼女は可愛らしい口からそこそこの毒を吐く。
上条さんが言う“あの課長”というのは、顔立ちが整っていて、背が高くて、仕事ができるという好意的な意味での“あの課長”で。そして“あの石野さん”というのは、地味で面白みがなくて、仕事でもそれほどパッとせず、せいぜいお茶くみくらいしかできないという中傷的な意味での“あの石野さん”に違いない。
そんな事は、自分が一番分かっている。否定するつもりはない。だけど、それを真正面から言われるのは、やっぱりキツイ。
「……そうね」
反論することも出来ない私は、困った様に笑って一言告げることが精いっぱいだった。
ところが、
「ずいぶんあっさりとした態度ですねぇ。それって、恋人になった余裕ですか?」
ニコニコと笑う上条さんは、私が思ってもいない事を口にする。彼女からすれば、嫌味を言われて傷つく私が見たかったのだろう。
だが、落ち込んだり泣きそうになったりすれば、すぐさま一義さんが割り込んできそうだ。そんな事になったら私と一義さんの交際を認めようとしない彼女たちの気持ちを逆なでしてしまい、職場での私の居場所が本当になくなるかもしれない。
余裕などこれっぽっちもない私は、取り乱さないようにするので必死なだけなのだ。
「違うわ。余裕なんて、ぜんぜんないもの」
もう一度困り顔で僅かに笑みを浮かべれば、
「そうなんですかぁ?」
と、上条さんが目の奥が笑っていない笑顔で返してくる。
「そろそろ始業十分前よ」
彼女の視線から逃れるように、そう言って話を切り上げた。デスクに向かって、先程手放した書類を取り上げる。
「石野さん、真面目ですねぇ」
おどけたような口調の上条さんが、続けて「そうそう」と、思い出したように話し出した。
「これから気を付けた方がいいですよ」
「え?」
思わず視線を上げて上条さんを見遣れば、形の良い瞳がユルリと細くなる。
「本気で楠瀬課長を狙っている女性社員が、石野さんに何をしでかすか……。あの人たち、熱狂的ってくらいに課長の事を好きでしたからね。ほら、総務と人事と、あと経理の。その他にも何人もいますよね」
そう言われて、脳裏に「綺麗」や「可愛い」、「艶っぽい」といった言葉が似合う女性社員たちの顔が浮かぶ。彼女たちは一義さんの誕生日やクリスマス、バレンタインといったイベントのたびにあれこれと攻勢を仕掛け続けていた。
上条さんがいう『何をしでかすか』との言葉をありえないと言い返すことが出来ないほど、彼女たちには良くも悪くも行動力がある。一人ずつでもかなり手強いのに、万が一、束になってかかってこられたら……。そう考えると、背筋がヒヤリと冷たくなる。
「私は一旦引き下がりますけど、あの人たちはそうもいかないんじゃないですかねぇ。……あ、隙があれば、私はまた楠瀬課長を狙いますよ。とにかく、気を付けてくださいね」
そう言って、彼女は仕事に取り掛かった
気を付けろと忠告しながらも、上条さんの言葉は単に私を怯えさせるものでしかなかった。いや、それが彼女の狙いなのだろう。
―――どうしたらいいんだろう。
私は書類を眺めながら、誰にも気づかれないようにこっそりとため息を付いたのだった。