(21)朝帰りと私
さすがに時間が迫っていると分かったのか、一義さんはもう一度つむじにチュッとキスを落とすと私を開放した。
「さ、シャワーに行って来い。俺は朝食の準備に戻るから」
「は、はい。すみません。お宅にお邪魔させてもらっているのに、手伝いもしませんで」
と言葉にすれば、彼の右手が私の鼻をキュッと摘まむ。
「ひゃっ」
「俺と雅美は恋人だろ?そんな他人行儀な態度を取るな」
不機嫌そうに口を開いた彼は、グッと上体を屈めて私の顔を覗き込んだ。
「で、ですが……」
つい昨日までは上司と部下という立場だったのだから、諸々不器用な私がそう簡単にその関係から脱却できるはずもない。
そんな意味を篭めて一義さんをソッと見上げると、ヤレヤレといったようにため息を吐かれる。だけど、その表情はすごく優しい。
「そういうところも、雅美の可愛いところだ」
「私が可愛いという事には、大いに反論したいんですけれど……」
ボソッと呟けば、彼は不思議そうに首を捻る。
「何で反論するんだ?俺には雅美がむちゃくちゃ可愛く見えるぞ」
一義さんの目はどうなっているのだろうか。この私が可愛い?全く理解できない。
「あ、あの、一義さん。視力は?」
「ん?両方1.5だが」
おかしい。視力はいいのに、視覚情報が歪んで脳に伝達されているとは。そうなると、彼の美的センスに問題があるのだろうか。もしかして脳に何らかの問題が?
黙り込んだ私に、一義さんが正面から抱き締めてきた。
「こら、何を考えてる」
胸に抱き込みながら、彼は私の額や瞼に唇を何度も寄せる。
「や、やめて、くださいっ」
慌てて身を捩るけれど、彼の腕の力は緩むことはなく、キスの雨もやむことはない。
「どうせ、またロクでもない事を考えてるんだろ?」
「そんな、こと、ないですって」
といったところで、ゴツン、と頭突きされた。
「きゃっ」
衝撃に目を閉じて肩を竦める。
「な、なんですか、いきなり……」
文句の一つも言ってやろうと見上げれば、すごく真剣な瞳の一義さんと目が合った。
「いいか?俺にとって、雅美は可愛い恋人なんだよ。例えお前が納得いかなくても、それは変わらない」
「そんなこと、言われましても……」
モゴモゴと口を動かす私は彼と目を合わせていられなくて、思わず俯いてしまう。すると一義さんが片手で私の顎先を捉え、グッと上を向かせる。
「まぁ、いい。雅美が何と思っても、俺は可愛いって言い続けるからな」
私の事を軽く睨み付けた彼は、私の唇を自分の唇で塞いできた。少し強めに押し当て、下唇を吸われる。
寝室前の廊下には曇りガラスが嵌められた窓があり、そこから太陽の日差しが入っていた。そんな明るい中でキスをされ、私の顔は瞬時に赤く染まる。
「真っ赤な顔をしている雅美は可愛い」
満足そうに呟く彼のセリフを聞いて、私は更に赤くなった。
今度こそ無事に解放され、シャワーを浴びることが出来た。
フカフカのバスタオルで水分を拭き取り、カゴに入っている服に手を伸ばす。それを取り上げた私は、首を捻った。
てっきり私が着ていた服を一義さんが洗濯してくれたのかと思ったのだが、私が手にしている物は見たことがないデザインの白いブラウスだ。
そしてカゴの中には、緩やかに裾が広がっっているえんじ色の膝丈フレアスカートもある。
―――どういうこと?
不思議に思った私バスタオルを体に巻き付けて、カゴの中を確認する。スカートの下から出てきたのは、スカートよりも淡い色のカーディガン。滑らかで、とても手触りがいい。
ここまではそれほど驚かなかったけれど、カーディガンの下から出てきた物には目を疑った。上品なレースがあしらわれているベビーピンクのキャミソールに、それと同じデザインのブラとショーツが出てきたからだ。
「え?な、なにこれ……」
自分で用意した覚えのない下着に固まっていると、脱衣所の扉が軽くノックされる
「雅美、着替えは済んだか?」
「えっ?あ、その、これからですけれど!か、一義さん、これって」
扉の外に向かって声を掛ければ、
「さっきも言っただろ、俺は準備を怠らない男なんだよ。今時は通販で何でも手に入るから、助かるよなぁ」
と、得意げな口調が返ってくる。
恋人になったばかりの男性に下着を用意された私は、彼の周到さにめまいを起こしそうだった。
バスローブやら着替えやら下着類やら、色々な事で頭の中がグルグルしていたけれど、出勤が控えているのでノンビリもしていられない。
私は何とか気持ちを切り替え、着替えを済ませる。
キッチンに向かえば既に朝食の準備が終わっていて、一義さんは手を洗っている所だった。
「あ、あの、ありがとうございます」
日頃から暗い色ばかりを選んでしまうので、自分では買わない色のスカートやカーディガンに照れてしまう。
それでも、彼が私のために用意してくれたのは嬉しかったので、はにかみながらもお礼お言った。下着については恥ずかしいので、あえて口にはぜずに。
キッチンに現れた私を見て、一義さんはニコリと笑う。
「雅美には、そういう上品な色が似合うな」
「そ、そうでしょうか?」
上品という言葉なんて自分にはもったいないと困っていると、長い足で一義さんが歩み寄り、優しく抱きしめてくる。
「雅美は自分を知らないだけだ。本当の雅美は素敵な女性なんだからな」
ここまで私をべた褒めされると居心地が悪いのだが、反論すると、またあれこれ言われそうなので何も言えなかった。好きな人にそんな風に言われて、嬉しさで胸が詰まっていて何も言えなかったという事もあるけれど。
焼いた鮭や、野菜たっぷりのお味噌汁、お漬物などの朝食を済ませ、私は一義さんの車に乗せられた。
電話で連絡を入れたものの、やっぱり親には顏を見せておきたい。そんな私の事を考慮して、一義さんは早めに支度を進めてくれたおかげで、家に寄っても十分出勤に間に合う。
本当に良く出来た恋人だと思う。
心の中でひっそりと一義さんに惚れ直しているうちに、車は私の家に着いた。
「親に声を掛けてきますね」
シートベルトを外しながら運転席の彼に声を掛けると、
「いや、俺も一緒に行くよ」
と、さっさと降りてしまった。
「え?でもっ」
戸惑っているうちに一義さんは助手席に回ってきてドアを開け、私の手を引いて立たせる。
「こういうことは、最初が肝心だ。はじめの一歩で躓いたら、雅美との結婚に支障が出ないとも考えられないからな」
ベッドの中でも結婚についての話が出たけれど、あれは、ただの夢物語というか、ピロートークの延長というか、そういった類のぼんやりとしたものだと思っていたのに。
そこまで本気だったとは思っていなかった私は、狼狽して足が動かない。
「ほら、行くぞ」
「え?え?」
私の手をグイッと引っ張り、一義さんは迷いのない足取りで玄関へと向かっていった。
「ただいま……」
おっかなびっくり扉を開けて声を掛けると、二階からものすごい勢いで階段を駆け下りてくる足音がした。あまりの勢いに階段が踏み抜かれてしまうのではないかと心配になるほどだ。
こんなにも慌てて出迎えてくれる人間は、この家には一人しかいない。
残り五段の階段を飛び降り、玄関まで猛ダッシュで現れたのは、案の定弟である。そして、案の定眠っていなかったようだ。
「おかえり雅美ちゃん!心配したんだからっ!とりあえず、朝の挨拶だよ!その可愛いおでこにチューさせて‼」
息を切らせ、寝不足で目を真っ赤に充血させた弟の隆志が私の名前を叫んで飛びかかる。……ところを、母親が襟首をガバッと掴んで阻止した。趣味でママさんバレーをしている母は、『最強アタッカー』としてその名前を轟かせている。
料理研究家という女性らしい一面を持ちつつも、タフで頼もしい一面を持つ母には弟もかなわないようだ。バタバタと腕を振り回して暴れているけれど、ガッチリ押さえ込まれているので一歩も前に進まない。
おまけに何故かいる姉までもが弟の捕獲に乗り出しているので、隆志はひたすらジタバタとその場で暴れるだけ。
「騒々しい弟で、すみません」
私の後ろに立つ一義さんに恐縮しながら頭を下げると、
「手強いというのは彼の事か……。本当に手強そうだな」
と、ポソポソと何事かを呟いている。
一義さんは何を言っているのだろうかと考えていれば、
「雅美、お帰りなさい」
と、母が声を掛けてくる。
すると一義さんがスッと前に出た。
「おはようございます。先程は電話で失礼いたしました。楠瀬と申します」
出迎えてくれた私の家族に彼が頭を下げる。
「あら、誠実そうないい人じゃない。お母さんから電話をもらった時は、“私の大事な妹に何してくれるんだ!”って思ったけど、この人なら大丈夫そうね」
ニコニコと笑顔で姉が言う。
「でしょう?私も、楠瀬さんなら安心して雅美を任せられるわ」
母も姉と同じように笑顔でそう言ってくる。
「母さんも姉さんも何を言ってんだよ!俺の愛しい雅美ちゃんが盗られて一大事なんだぞ!」
二人に押さえつけられながら、なおも暴れる隆志。母と姉の手にグッと力が籠る。
「もう、いい加減にしなさい。みっともない」
「そうよ。雅美離れしなさいよ」
母と姉が弟を嗜め、そして、『心配しなくても大丈夫よ~』というオーラを私に向けてくる。
なんだか気恥ずかしくてたまらない。
朝帰りしたことを叱られても嫌だし、一義さんとの交際を反対されるのも困るけれど、こうして全面的に(弟を除く)受け入れられるのも、それでそれで恥ずかしい。
「あ、あの、夕べは帰らなくてごめんなさい……」
母に何と言っていいのか分からず、まずは外泊したことを謝った。
すると母は優しく目を細める。
「いいのよ、もう小さな子供じゃないんだし。それに、あなたは自分のしたことにきちんと責任を取れる子よ。だから、心配してないわ。あんまりしっかりしているから、親としてはちょっと寂しいけどね」
母は私を見て、クスリと小さく笑う。その表情を見てホッと胸を撫で下ろした。
……が、
「俺はそいつが雅美ちゃんの恋人だなんて、絶対に認めないからな‼俺の方が、そいつよりもずっと、ずっと、雅美ちゃんを大切に思っているんだからな‼」
再び暴れだした弟を見て、安堵のため息がどこかに吹き飛ぶ。
「弟が騒がしくて、本当にすみません。隆志はなぜか、私に対してはすごく心配性になるようで」
一義さんにペコペコと頭を下げる。
彼は怒った様子を見せてはいないが、弟をジッと見ていた。
「身内にライバルがいるとは……。まぁ、俺としても雅美を手放すつもりはないがな」
またしても何事かをポソポソと呟いている一義さん。ライバル?弟が?何の?美形度の?
はて、と首を傾げていると彼が母に顔を向ける。
「正式なご挨拶は、日を改めて伺わせていただきます」
背筋をピシッと伸ばし、穏やかな声で一義さんが言った。
それに頷きを返す母。
「ええ、その方がいいですね。主人は早くに出勤してしまって今はいませんし、それに、この子もうるさいですし」
暴れる弟の事を姉が後ろから羽交い絞めにして、母がその弟の口を手で塞いでいる。いったい、どういう光景なのだ。なんだかめまいがしてきた。
そんな私に構わず、一義さんと母が話を進める。
「ご都合は、雅美さんのお父さまのご予定に合わせますので」
「でも、楠瀬さんもお忙しいでしょう。そちらの予定に合わせますので」
「そんな滅相もありません。こちらが結婚のお願いをするのですから、お父さまのご都合を優先なさってください」
課長が『結婚』という言葉を口にした途端、更に暴れる弟。
「雅美ちゃんが結婚⁉うわぁぁぁぁ‼」
発狂ともいえる叫び声を上げる弟を、姉がズルズルと引きずってゆく。姉は私に向かってパチン、とウィンクすると、弟と共にリビングの奥に消えた。
それにしても、隆志は何であんなに大騒ぎをしているのだろう。この私に結婚話が浮上していることが、そんなにも信じられないのだろうか。
確かに、一義さんのような素敵な人が私の恋人だなんて紹介されたら、まさかと思うだろう。
隆志に比べたら全然見栄えはしないし、恋人が出来たことだって信じがたいだろうが、ちょっと寂しい。
「やっぱり、私に恋人が出来たなんて驚くわよね……」
シュンと俯くと、一義さんがポンと頭を撫でてきた。
「お前が気に病むようなことはないと思うぞ」
「そうよ。隆志のアレは、雅美が考えているようなことじゃないから。とにかく、素敵な恋人が出来て、母親として嬉しいわ」
母も優しい声で言ってくる。
その声に、俯いていた顔を上げた。
「雅美、良かったわね」
母の言葉に、私は照れながらもコクリと頷いたのだった。