(20)バスローブと私
一義さんは私の髪を撫でながら散々キスをして、ようやくキッチンに向かった。
私は変わらず肌掛けから顔だけを出した状態で、横に置かれた自分用に準備されていたバスローブにチラリと目を遣る。
「私が、これに袖を通す日が来るとは……」
勝手なイメージではあるが、バスローブはワイングラスやブランデーグラスが似合うセレブな方たちが着るものだと思っていた。
ホテルのスウィートルームでゆったりとソファに寝そべり、気ままにアルコールを嗜むことが似合う人種こそが、バスローブを纏うにふさわしい。主に欧米の。
一義さんのように、背が高くてスタイルが良ければ、日本人でも問題ないだろう。事実、先程の彼のバスローブ姿は、映画のワンシーンのように様になっていたから。
日本人女性の平均身長にちょっと届かない上にスタイルに自信のない、私のような庶民中の庶民が安易に袖を通していいものではないのだ。
とはいえ、これを着ない事にはバスルームには行けない。
一義さんには体のあちこちを既に見られているものの、それは“ベッドの中”という限られた空間だからこそ許される。そして、妖しい熱に浮かされていた時間だからこそ、私も裸で彼に向き合えたのだ。
すっかり正気に戻った今、肌を重ねあった恋人の家の中とはいえ、全裸で寝室以外を歩き回る度胸は、この私にはない。一切ない。
「はぁ……」
改めて置かれているバスローブに目を向けると、深いため息が零れた。
いつまでもベッドの中でグズグズしているわけにはいかない。いったん家に戻って、着替えてから出社しなくては。
そのためには、いち早く身支度を整えて、一義さんの家を出るべきだ。
「仕方ないわね……」
諦めにも似た覚悟を決めて、私はベッドの中から這い出した。そして、バスローブを取り上げる。
袖を通してみて気が付いたのだが、サイズは私が着て丁度いいものだった。てっきり一義さんのバスローブを貸してもらったのだと思ったけれど、肩幅や身の丈を見れば明らかに女性用。
「前の恋人の物かしら?」
ポツリと呟いた言葉が自分の胸にチクリと刺さる。
一義さんは素敵な男性で、これまでに恋人がいてもおかしくない。いや、いない方がおかしい。
だから、女性用のバスローブが彼の家にあっても、少しもおかしなことではないのだ。それは分かる。理解できる。
なのに、チクチクとした痛みは消えてくれない。
バスローブの前合わせを握り、肩を落としてため息をつく。すると、軽いノック音の後に
「開けるぞ」
という声がした。
ハッと顔を上げて視線をやれば、Yシャツにスラックス姿の一義さんが扉の間から顔を覗かせている。
「なかなか部屋から出てこないから、具合が悪いのかと思って心配したんだぞ。何か不都合な事でもあったか?」
「ごめんなさい、何でもないです。すぐに、シャワーを」。
私は少しふらつく足で、慌てて扉へと駈け寄った。ペコリと頭を下げて彼の横をすり抜けようとした瞬間、後ろから回ってきた腕がウエストに絡みついた。
「きゃっ」
私が前に進もうとする力よりも大きな力で背後に引かれ、彼の胸にドンと鈍い音を立てて背中をぶつける。
一義さんに体を預けるようになってしまった私が体勢を立て直す前に、彼の長い腕がギュッと私を閉じ込めた。
「な、何を?」
振り返ろうとしたら、私の右肩に彼の顔が埋められた。一義さんの高い鼻が私の首筋をくすぐる。
そのおかげでソワリとした落ち着かない感触がうなじに走り、私はビクリと肩を竦めた。
そんな私をより一層抱き締め、一義さんは満足そうに頬ずりを始める。
「雅美のバスローブ姿、思っていた以上にいいな。可愛いよ」
なぜか嬉しそうな様子をみせる彼に、私は首を傾げた。何がいいのだろうか。どこがいいのだろうか。着ている私には、さっぱり分からないけれど。
「そ、そうでしょうか?初めて袖を通すので、絶対に着慣れていない感じが溢れているはずですよ」
視線を落とし、見える範囲でバスローブに目を遣る。サイズ的にはあっているけれど、私という人間には合っていないように見える。
なのに彼は、
「馬鹿だな、その初々しいところがいいって言ってんだよ。いつものキチッしたOLファッションもいいが、ぎこちないバスローブ姿はもっといい」
と、しきりに頬ずりをしてきた。
褒められたことには違いないけれど、気恥ずかしさが先に立って嬉しいとは思えない。
「あの……。それより、良かったのでしょうか?」
「何がだ?」
「私がこのバスローブに袖を通しても、本当に良かったのでしょうか?もしかしたら、どなたかの物では……」
新品のように見えて、これは何度か洗濯されたものだ。適度に布地が柔らかくなっていて、こんな私の体型にもしっくりと馴染んでいる。つまり、前の彼女が着ていたものだと推測したのだ。
私と恋人関係になったという事は、これまでの彼女とは完全に別れているだと理解できる。それでもこうして女性用のバスローブを取ってあるという事は、今でもその恋人の事が忘れられないのではないだろうか。
語尾を濁して答えた私の言葉を聞いて、これまで頬ずりしていた一義さんが顔を上げ、パクリと私の耳に噛みついた。
「ひ、あっ!」
まだ十分には足の力が戻っていなかったところに弱い部分を刺激され、カクンと大きく膝が折れる。ずり下がる私の体を一瞬で抱き上げ、一義さんは痛いほどに私を抱きすくめてきた。
それから私の耳元に唇を寄せ、不機嫌だと分かる低い声で話し出す。
「ったく、俺は過去をいつまでも引きずるような情けない男じゃないんだよ。なんで別れた女の物を後生大事に取っておかなくちゃいけないんだ?いや、違うな。大事に残しておきたいと思うほどの特別な女はこれまでにいなかったんだ。雅美を好きになって、それが痛いほど分かったよ」
「……は?」
耳元でブツブツと話し出す一義さん。息が耳にかかるので即刻辞めてほしいのだが、彼は身じろぐ私に構わず話し続ける。
「だから、このバスローブは今まで誰も着ていない、雅美専用のものだってこと。下ろしたばかりだと糊が利いていて着心地が悪いだろうから、前もって何回か洗濯したんだよ。それを何だってそういう方向に考えるかな……」
深く長いため息を耳元で聞かされ、私ははシュンと肩を落とした。一義さんの気遣いを捻じ曲げて受け取ってしまった自分が恥ずかしい。
「す、すみません……。ですが、昨日の今日で、私のためのバスローブが用意されているなんて思いもしなくて」
そうなのだ。これが事前に私が泊まりに来る日が決まっていれば、私だって前の彼女さんのものだなんて考えもしない。
それなのにお泊りはおろか、昨日恋人同士になったばかりなのだから、誤解しても仕方ないではないか。無理もないではないか。
―――それより、いい加減放してもらえないかしら。
身支度をしたいし、それに、こうして抱きしめられていることが恥ずかしくなってきた。頬どころか耳まで赤くなっている自覚がある。
モゾリと身じろぎしてみるが、彼の腕の力は一向に緩む様子をみせない。
困ったなぁと息を吐けば、また耳をパクリと食まれた。
「や、んんっ」
声を上げつつ首を横に振っても、彼の唇は耳から外れてくれない。それどころか耳の輪郭に沿って、ハムハムと甘噛みしてくる。
おかげで耳の後ろからうなじ、そして腰に掛けてゾクゾクとした何かが走り、とうとう自力では立っていられなくなった。
クタリと脱力して凭れかかる私の耳を、一義さんはずっと食んでいる。たまに舌先がチロリと舐め上げ、ますます私は窮地に追い込まれた。
「やめ、て、くださ……。やめて……」
震える声で必死にお願いすれば最後に大きく一噛みされて、ようやく彼の唇が遠ざかった。ふぅ、ヤレヤレである。
完全に足の力が抜けてしまった私をグイッと抱き直し、一義さんが頭を下げてきた。
「すまない。真っ赤な雅美の耳がすごく美味しそうで、つい……」
つい、で、人の弱点を攻めて来られてはたまらない。私は自分のお腹の前で交差されている一義さんの腕を右手でペチンと叩いてやった。
すると、
「怒った雅美が可愛すぎる!」
と、耳元で大声を出した彼が、私を締め殺す勢いで抱き込んできた。お腹に逞しい腕が食い込み、のしかかってくる一義さんの体重で私の背骨が変な音を立てている。
おまけに、猛烈な勢いでグリグリとこちらの肩や首筋に頬ずりを仕掛けてくる一義さん。
そんな彼に、私は悲鳴を上げる。
「や、やめてーーーーー!」
切羽詰った私の叫びに、一義さんはハッと我に返って腕の力を緩めてくれた。
「雅美、本当にすまない!お前があんまり可愛いから!」
仕事の時の楠瀬課長と今の一義さん、あまりに違い過ぎる。これほどベタベタに甘い人だとは思いもしなかった。
まぁ、それも愛されている証拠といえば腹も立たない。……かもしれないが、照れくさいので、もう一回ペチンと腕を叩いてやった。
結局一義さんは私を開放することなく抱きしめたままで、話を再開した。
「俺は準備を怠らない男なんだよ。そのバスローブは来たる日に備えて、前もって買っておいた」
今度は私が良く知る穏やかな口調で話し出したので、内心ホッと胸を撫で下ろす。
……が。
「前もって買っておいた?」
それを聞いて盛大に首を傾げる。
「どうしてそんな事を?私が一義さんと実際に付き合う可能性なんて、地を這うほど低かったでしょうに」
疑問に思ったことを素直に口にすれば、
「何だよ?俺じゃ雅美に釣り合わないっていうのか?俺の告白、蹴飛ばすつもりだったのか?」
と、不機嫌そうな低い声が再び耳元で響く。
私は慌てて首を横に振った。
「ち、違います!その反対です!私が一義さんに釣り合わないんです!私はあなたの恋人にふさわしくないから、一義さんが私を好きになる可能性が皆無だったってことが言いたくて!それに、告白を無下にするなんて、とんでもない!それどころか、一義さんに好きになってもらえるなんて、夢にすら見ませんでしたよ!」
アワアワと口を開く私に、一義さんはつむじの辺りにチュッとキスを落としてきた。
「まぁ、いいさ。可能性が皆無だろうが、夢にすら見なかっただろうが、今は俺の恋人だしな」
優しい声で告げられ、私の耳はまた赤く染まる。だけど、今度は食まれることはなかった。
「この年になって、片想いで胸が締め付けられることになるなんて、考えもしなかったよ。雅美の事を考えるたびに、胸が苦しくてたまらないなんてな」
クスリと笑って、彼はまたつむじにキスをする。
「だが、こうしてお前を腕に抱きしめることが出来たんだから、その苦しさも無駄じゃなかったってことだな」
クスクスと幸せそうな彼の笑い声を聞いていると、私の胸の奥がフワリと温かくなる。
足の脱力のせいではなくて、彼にちょっぴり甘えたくなってもたれかかると、またまたつむじにキスされた。
早くしないと支度する時間が無くなるのに、それでも、彼の腕の中は心地よくて、なかなか抜け出せないでいる私だった。