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(19)起きる私

 一義さんは『私の事を抱き潰す』と言っていたが、実際にはそんな事はなかった。

 いや、まぁ、念入りにというか丁寧にというか、じっくり抱かれたという覚えはある。ただ、初めて異性と肌を重ねる私を慮ってか、一義さんは無茶な事をしなかった……と思う。最後の方は半分意識が飛んでいたので、実際にどうであったか判別付かないが

 運動というにはいささか語弊があるけれど、全身運動ともいえる時間を過ごしたおかげで体が休息を欲し、彼に抱かれた後は深い眠りへと落ちていった。

 そして眠りから覚めた時には、存外意識がしっかりしていたのである。

 だからこそ彼とあれこれ話すことが出来たのだが、意識と違って体の方は思った以上に疲弊していた。

 それでも好きな人と抱き合った結果に生じた疲労感は、意外なほどに清々しい。

 体は疲れていたし、腰も脚も怠くてたまらない。しかし、倦怠感はあっても嫌悪感が一切ないのだ。

 それは精神的なものが大きいだろう。

 

―――何だかんだで、私って一義さんの事が好きなのね……。


 彼の腕の中で優しく穏やかな体温に包まれながら、人知れず小さく微笑む。すると、これまで以上にしっかりと彼に抱き寄せられた。

「そろそろ起きるか?」

 問いかけられて、

「そうですね」

 と短く返す。

 何気ないやり取りではあるが、胸の奥がとてもくすぐったい。

 相変わらず裸のままなので気恥ずかしさは消えてなくならないけれど、その感覚すらも胸を甘くくすぐっていた。


―――こんな私にでも恋人と朝を迎える日が来るなんて。人生、何があるか分からないわね。


 心中で漏らした呟きに、心底頷く。

 本当に分からないものだ。

 このまま一生独身で過ごすものだと、漠然とではあるが密かに覚悟を決めていた。

 私だって、結婚願望が全くない訳ではない。

 三十歳を目前に控え、自分を迎えに来てくれる白馬の王子様を夢見ていたわけではないものの、純白のウェディングドレスや清楚な白無垢に対する憧れは心のどこかにあった。

 寿退社をしていく女性社員や、ご主人の姓に名字が変わった女性社員を見て、羨ましいと感じていたのも嘘ではない。

 ただ、結婚というのは自分一人が頑張ってどうにかなるものではないのだ。相手があってこそ、初めて成り立つものなのだ。

 冴えない私が一念発起して、世間で言われるところの『いいオンナ』になったところで、その自分と結婚してもいいと思ってくれる相手が存在しなければ、いくら結婚したいと必死に願って努力を重ねても結局は水の泡。

 ところが瓢箪から駒というべきか、棚から牡丹餅というべきか、まさかまさかで私に恋人が出来た。しかも相手は、結婚を視野に入れての交際を真剣に望んでいる男性。

 はるか遠くで揺らめく蜃気楼のような『結婚』という文字が、一気に現実味を帯びて迫ってきたのである。

 この急展開に嬉しいと思う半面、戸惑う気持ちもあった。

 一義さんのことは好きだ。その気持ちをきちんと自覚したのはつい先刻の事だけれど、無自覚ながらも彼に惹かれていた期間は、けっこうなものだと思う。

 本人でも分からないほど長い期間片想いをしてきて、それが、ほんの数時間前に気持ちが通じ合って、そして身も心も恋人という位置に納まった。

 これまで私が過ごしてきた人生を考えたら、この数時間は有りえないことだらけ。戸惑うのも無理はないと思う。

 心なしか不安な表情を浮かべていたのだろうか。一義さんが私の額に唇を押し当て、優しくキスをしてきた。

「どうした?何だか考えこんでいるようだが」

 やんわりと押し当てられる柔らかい唇の感触がくすぐったいけれど、それから逃れるのはもったいない気がして、私は大人しく彼のキスを受ける。

 逞しい腕が私をしっかりと抱きとめ、広い胸に抱き込み、私のすべてを抱きしめてくれる一義さん。優しくて、穏やかで。それでいて情熱的に私を愛してくれる、私にはもったいないくらい素敵な人。

 そんな彼が私の恋人?やはり現実味がない。

「考え込むといいますか、その……、いまだに頭が衝撃についていけてないんだと思います」

 私は言葉を選びながら口を開いた。

「衝撃とは?」

 一義さんはチュッチュッと額にキスを落としながら、先を促す。触れてくる唇のくすぐったさに身を捩ると、それを咎めるように彼が腕に力を込めて私を拘束してきた。おかげでキスの雨から逃れるすべがない。

 小さなリップ音のたびに頬を赤く染める温度を上げながら、何とか話を続ける。

「だって、まさか私に恋人ができるなんて、思ってもいなかったんです。それなのに、一義さんのような素敵な人が私を恋人にしてくれて、ええと、その……、肌を重ねあうなんて……」

 しどろもどろに言葉を繋げば、すぐそばにある彼の瞳がユルリと弧を描く。

「夢だと思っているのか?俺が雅美をあんなに深く愛した事も、ぜんぜん覚えてないというのか?それならば、今すぐその体に分からせてやるが」

 艶めく笑みを浮かべて低い声で囁いてくる一義さんに、私は慌てて首を横に振った。

「い、いえ、そんな!だ、大丈夫です、しっかり覚えていますので!」

 彼に抱かれた時間は嬉しくて幸せだったが、今日はこの後に仕事が控えている平日なのだ。足腰が立たないという理由で欠勤するなんて、それは絶対に嫌だった。

 フルフルと必死に首を振る私に、一義さんはクスッと笑う。そして唇で私の鼻先に触れてきた。

「ま、いくらでも戸惑えばいいさ」

「え?」

 彼の言葉に、私の唇が半開きとなる。そんな私の唇へと、一義さんが触れるだけの軽いキスを贈ってきた。

「好きなだけ戸惑えばいい。俺はいつだって雅美のそばで見守ってやるから」

 優しいキスと共に囁かれる優しいセリフ。

 これほどまで底抜けに愛してくれる彼を知れば知るほど、私は心配になる。こんなにも愛情を注ぐ相手がいい年をしていちいち戸惑うことに、彼は嫌悪を感じたりはしないのだろうか。 

「いいんですか?そういう恋人は面倒ではないのですか?」

 おずおずと尋ねてみれば、まるで黄金の蜂蜜のようにトロリと甘い微笑みが返ってきた。

「ちっとも面倒なんかじゃないさ。雅美が戸惑うたびに、俺がいくらでも現実味を味あわせてやる。何かあるたびに、俺の愛情を思う存分教え込んでやる。不安に押し流されそうになっても、俺が雅美をしっかり掴んで放さなければいいだけだ。だから、好きなだけ戸惑えばいい」

 目一杯の愛情を惜しげもなく差し出されて、目の奥が自然と熱くなる。ジワリと涙が浮かびかけると、すかさず彼が瞼にキスをしてきた。

「雅美は雅美のままでいいんだよ。どんなに迷ってもいい、どんなに悩んでもいい。だが、泣く場所は俺の腕の中だけだぞ。雅美の居場所は、俺の腕の中なんだからな」

 一義さんは一層きつく私を抱きしめ、何度も何度も私の瞼にキスを贈る。

 そんなに優しくされたら、そんなに大事に想われたら、ますます涙が止まらなくなってしまうではないか。照れ隠しに拗ねた顔で『キスはやめてほしい』と告げれば、

「雅美が泣き止んだら、キスをやめてあげるよ」

 と、極上の笑みを浮かべた一義さんが私の唇をソッと啄んだのだった。




 それからしばらく彼にキスをされながらも、どうにか泣き止むことが出来た。

 私の事をしっかりと胸に抱き込んだまま放さない一義さんが、ヘッドボードに嵌めこまれている時計を見遣る。

「雅美は早起きだな。この時間なら雅美を家に送り届けても、十分すぎるほどに時間がある。もう少しのんびりすることも出来るが、いい加減に起きた方がいいか」

 腕の中に納まっている私に柔らかな笑みを向けた彼は、私をギュッと抱きしめてから解放した。そしてスルリとベッドから抜け出すと、脇にある椅子にかけていたバスローブを羽織りながら私へと話しかけてくる。

「一応は綺麗に拭いたが、やっぱりシャワーを浴びたいだろ?」

「は?え?拭いた⁉」

 ギョッと目を瞠れば、一義さんはニッコリと笑う。

「そうだよ。雅美を抱え上げるのは造作もないが、意識のない人間を風呂に入れるのはちょっと危ないしな。万が一足を滑らせて雅美に怪我をさせる訳にもいかないし、だけど汗だくのままで寝かせるのも気が引けてな」

 汗だくでもいいから、そのまま朝まで寝かせてほしかった。手足や背中はもちろん、あらぬところまでさっぱりとした肌触りであることを自覚すると、穴を掘ってでも埋まりたいほどの羞恥を感じる。

 肌掛けに潜り込んで恥ずかしがっていると、肌掛けの上から抱き締められた。

「恥ずかしがっている雅美は可愛いな」

 嬉しそうな声で、私の頭があるであろう位置に頬ずりしてくる一義さん。そんな彼に抱きしめられて、布の下でアーウーと呻く私。

「いつまでも潜ってるなよ。俺は朝食の支度をするから、その間にシャワーを浴びておいで」

 家に帰る前にシャワーは浴びたいが、恥ずかしくて恥ずかしくて肌掛けから抜け出せない。

 引き続き呻いている私にクスクスと笑いながら、

「いい加減にしないと、無理やり布団を剥いで風呂場に押し込むぞ。そして俺の手で、雅美の体を隅々まで洗ってやる。恋人記念の特別サービス、受けてみるか?」

 ちょっとだけ意地悪そうに言ってくる一義さんに、私は慌てて肌掛けから顔を出した。

「ま、間に合ってます!」

 髪を乱してガバッと顔を覗かせた私に、彼はフッと頬を緩める。

「間に合ってるってなんだよ。ホント、雅美は可愛いな」

 ボサボサになった髪を大きな手で優しく撫でながら、一義さんは

「冗談だから、安心して一人で風呂に行って来い」

 と苦笑まじりに言った。


―――なんだ、冗談だったのね。


 彼に髪を整えられながら、私はホッと息をつく。

 ところが。

「今日はしないが、いずれ特別サービスを思う存分味あわせてやるから楽しみにしていろ」

 ニッコリと満面の笑みで告げられ、羞恥に顔を真っ赤に染めた私はアウアウと意味不明の言葉を漏らしながら半泣きになったのであった。


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