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(1)地味な事務員の私

 私、石野雅美は日本最大手の文具メーカーKOBAYASHI本社の営業部営業二課に所属している。 

 営業一課に所属する営業マン&営業ウーマンたちが恙無く業務をこなせるように、忙しく飛び回る彼らをサポートするのが二課に所属する営業事務職である私たちの仕事だ。

 必要な資料を取り寄せたり、データを作ったりが主な作業だが……。

「石野、F社の阿川部長が見えられた。お茶の用意を頼む」

「……はい」

 部の扉を開けて室内に顔を出した営業一課課長が、いつものように声を掛けてくる。営業部に間仕切りはなく、部屋右側を一課、左側が二課という配置となっているだけ。

 私はパソコンのキーボードを叩いていた手を止め、保存を掛けた。


 こうしてお客様が見えた時にお茶出し係として借り出されることが多い。

 私の他にも二課には女性社員がいるにも拘らず、常に私だけ。

 以前は別の人にも声を掛けていたが、いつの間にか私だけが声を掛けられるようになった。それはまるで、『雑用を頼むなら、お前のような地味でどうでもいい女がぴったりだ』とでも言いたげに。


「石野先輩、いつもご苦労様ですね」

 私の隣の席に座る上条鈴花がフワリと笑って、労いの声を掛けてきた。

 しかし柔らかな笑顔とその言葉の裏には『地味なアンタは、地味な仕事をすればいい』という意味が込められているのを知っている。

 彼女は29歳の私より5歳も若く、おまけにとても愛らしい顔立ちをいている。メイクもヘアスタイルも服装も華やかで、飲み会ともなれば上条さんの周りには男性社員が群がっていた。

 反対に私は野暮ったくない程度に整えた眉。小さくはないが、一重の瞳はどこか寂しげな印象を与える。

 鼻は高くない。低いと言われたことは無いが、鼻筋が通っているとは思っていない。

唇は女性にしては厚みが足らず、無難なピンクベージュの口紅を薄く載せているだけ。 

 服装は基本的に黒や紺、灰色ばかり。そのせいもあり、いつだったか、『通夜見舞いに来た弔問客だな』と同じ課の男性社員に言われた。 

 それ以来、少しは気を遣って一部分に差し色を用いるようにしている。大して色気のない首元を隠すスカーフだったり、肩まで伸びた何のしゃれっ気もない黒髪をまとめるバレッタだったり、日々の仕事で荒れた指先にあるネイルだったり。それでも華やかさとは程遠い色味ばかりを選んでいたが。

 自分がいかに地味な女なのかは、これまでの人生で重々承知している。

 だからまかり間違っても、上条さんのような格好はしない。地味な女が頑張る姿は、健気ではなく痛いだけだから。


 半ば蔑みの視線を向けてくる上条さんにソッと苦笑だけを返し、私は席を立った。




 彼女に対して言いたいことは色々あるが、言ったところで素直に聞いてもらえるとは思えない。


―――目上の人に向かって、「ご苦労様」は違うんだけどな。


 入社して一年も経つのに、基本的な言葉使いが出来ていない上条さん。


―――私が細かいのかも。ううん、分かっていて「ご苦労様」って言ったのかもしれない。


 こんな風にグルグル考えているのであれば直接彼女に言えば簡単なことだが、私は彼女の教育係ではない。私より1つ上の先輩が上条さんの担当だった。

 ここで私が彼女に注意をすれば、その先輩の指導に文句を付けたと取られかねない。ちなみに、その教育係の先輩は上条さんと同系統の人間だと、秘かに感じている。

 そんな先輩に対して悪意がなくとも進言すれば、私の立場が危うくなるのは火を見るより明らかだ。

 だから私は腹の中に何の足しにもならない思いを溜め込む。

 会社での居場所を失うことに比べたら、愚痴の10や20、どうってことはない。


 先ほどのやり取りを思い出しながら、課長の数歩後ろについて廊下を進む。

 目の前にある広い背中の持ち主である楠瀬くすのせ 一義かずよし営業一課課長は、先日の10月8日の誕生日で35歳になった働き盛りで男盛りな人だ。

 どうでもいいことだが、彼の誕生日は自分から調べたのではない。その日にプレゼントを持った独身女性社員が、この営業部に押し寄せてきたからである。

 私が配属された時から課長は営業一課にいて(当時はチーフという肩書きだったが)、それが毎年の恒例行事となれば、嫌でも覚えるというものだ。

 この若さで営業部の役職につくというだけあって、やっぱり仕事は出来る。

 課内では“仕事の鬼”と秘かに呼ばれている課長だが、男性的な色香を持つ顔立ちもスラリとしたスタイルも見事に整っていて、おまけにいまだ独身であるがゆえに女性社員からの支持は篤い。

 課長のことを芸能人のように眺めているだけで楽しむ人もいるが、かなり本気で彼女の座、ゆくゆくは妻の座を勝ち取ろうとしている女性社員はかなり多いように見受けられる。

 そして営業部のみならず、他の部署からも彼に熱い視線が向けられる毎日だ。


―――ま、私には一切関係ないことだけど。


 課長と私の間にあるのは、上司と部下という関係のみ。しかも直属の上司ではなく、隣の課の上司なので、その繋がりはさほど深くは無いだろう。

 彼の姿に癒しを求めたりしないし、彼女の座を射止めようとも思わない。

 私はただ、地味な自分に相応しく、淡々と仕事をこなすだけだ。

 正であれ負であれ、少しでも感情を露にすれば、会社での私の居場所などあっという間に無くなってしまうのだから。




 給湯室に差し掛かったところで、課長の仕事用携帯電話が鳴る。

「部長はミーティングルームAにいるから、先に行ってくれ」

 そう告げて、課長は廊下の端に寄って通話を始めた。

 私は再び足を進め、給湯室に入る。そして食器棚からお客様用に備えてあるお茶道具一式を取り出す。

 その中から迷わず煎茶を選んだ。

 他の人は誰が相手でもコーヒーを出しているようだが、私はお客様に応じて飲み物を変えていた。  

 阿川部長は一年を通して、渋めのお茶を好まれる。

 私は電気ポットのお湯を煎茶用の80度に設定した。お茶の種類によって適温が違うからだ。

 煎茶であれば風味を活かす為の80度。玉露であれば甘味を活かす為の60度。コーヒーであれば水も変えている。硬水のペットボトルを常備していて、コーヒーを出す際はそれを沸かしてから淹れている。

 紅茶の場合は湯質よりも茶葉の蒸らし時間が大切で、腕時計の秒針と睨めっこ。

 どうでもいいことなのだろうが、何も出来ない私に出来る精一杯の配慮だ。礼を言ってもらおうなどとは、毛頭考えていない。

  

 課長はまだ戻ってこないので、先に部長の分だけお茶を出してしまうことにする。

 ミーティングルームの扉を軽くノックして、静かに開けた。

「失礼いたします」

 私は会釈と共に入室する。

「お待たせして、申し訳ございません。楠瀬は間もなく参りますので、今しばらくお待ちいただけますでしょうか」

 謝罪を添えて、お茶を差し出す。

 すると、阿川部長は立場が上の自分が待たされていることに腹を立てることもなく、穏やかに微笑んだ。

「いやいや、今日は急ぐ案件もないから気にしないでくれ。では、石野君のお茶をいただこうか」

 苦労と努力の分だけ顔に刻まれた皺は一見すると威圧的だが、ゆるりと目を細めるとお地蔵様のように穏やかな表情に変わる。

 その様子は単なる事務員に向けるまなざしとは違うように感じた。それはまるで私の存在を認めてくれているかのように。そのことが実はかなり嬉しかったりする。


―――今日も喜んでもらえて良かった。


 事務員というのは、他の部署の社員のように仕事で結果を残すことが少ない。だからこそ、こうやってお客様に喜んでもらえる事が、私にとって何より嬉しいものなのだ。

 まして、厳しい顔の阿川部長がフワリと表情を緩めてくだされば、その嬉しさは格別。

 私には阿川部長が来訪した時にお茶をお出しするくらいしか、基本的に接点はない。営業に関する仕事の概要はある程度分かるが、私は営業事務員なのだ。部長と仕事の話をする機会などあるわけがなかった。

 楠瀬課長が来るまでの時間つぶしとして、お話しの相手ならば何度かしたことはあるが、それでも仕事に関することには触れた事が無い。

 なので、私は本来の阿川部長の姿を知らない。聞くところによると、彼の仕事ぶりと不用意な失態を犯した者に対しての姿はまさしく般若だとのこと。

 そういうことであれば、楠瀬課長も負けてはいないだろう。


―――鬼と般若、どっちが怖いのかしら。


 そんなことをぼんやり考えていた時、扉が開いた。

「遅くなりまして、大変失礼いたしました」

 深く頭を下げた楠瀬課長に、部長はニコリと笑う。

「お陰で美味しいお茶をじっくり味わうことが出来たよ。なにしろ、このお茶が楽しみでここに来ているようなものだからな」

 湯飲みを軽く持ち上げ、部長は私を見る。

 例えお世辞でも、そう言われれば素直に嬉しい。だが、気の利いたセリフなど言えない私は、「恐縮です」と一言告げて静かに頭を下げただけだった。



 改めて阿川部長にお茶を差し上げ、課長には砂糖抜きのレモンティーを出して私はミーティングルームを後にした。


―――戻ったら、A地区の販売実績をグラフ化しなくちゃね。あとは……。


 頭の中で今後の仕事を組立て、足早に営業部へと向かう。

 扉を開ければ、今日はそれほど仕事が差し迫っていないのか、皆がのんびりと仕事をしていた。

 ザッと室内を見回してから席に着こうとした時に、上条さんが

「さっき、一課の人たちがボールペンとか、プリンターのインクとかが足りないって言ってましたよ」

 と、話しかけてきた。

 基本的に、社内の備品は総務部庶務課が在庫管理して、各部署に届けている。時には備品が足りなくなることがあって、庶務課に連絡を入れることもあった。

 そういった足りない備品を追加で用意するのは私の仕事でもあるが、上条さんの仕事でもある。

 なのに、彼女はそういった仕事を自ら進んでは行わない。

 その代わり、一課の社員がプレゼンで使う資料をまとめたり、取引先に出向く社員の手伝いとしてついていくことは嬉々として引き受ける。

 要は、一目で見て“仕事をしました”と分かる作業をやりがいとしているのだ。


―――どんな小さなことでも、仕事は仕事で、大切なのに。


 そうは思うが、上条さんに言ったところで埒が空かないのだから、私は「分かったわ」と短く返して、総務部に向かうことにした。




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