(18)彼の名前と私
課長に抱きしめられて話をしているしばらくの間は意識があったものの、やがてうつらうつらと微睡み始めた。
初めての情事で激しく求められためか、体は思った以上に疲れていたらしい。腰から下全体が異常に怠く、腕にも力が入らない。
それもそうだろう。課長よりも若いとはいえ、入社以来事務作業しかこなしてこなかった私の体力は非常に情けないモノなのだ。週に何度かスポーツジムに通っている課長についていけるはずがない。
それをあんなに時間をかけて、しかも何度も抱かれてしまっては、日頃運動をしていない私にとってハードすぎる。
課長が私の顔中にキスの雨を降らしながら何かを囁いているけれど、眠りに引き込まれつつある私には緩慢な頷きを返すことが精いっぱい。
そのうち、頷くことさえも難しくなってくる。
―――だめ、眠い。もう、限界……。
裸で抱きしめられていることに羞恥は消えなかったが、課長はどうあっても離れてくれないし、それに襲ってくる睡魔にはそれこそ勝てそうにない。
ほどなくして、私は課長の腕の中で再び眠りに落ちたのだった。
翌朝。
いつも起きる時間に、うっすらと意識が戻ってくる。
休日であっても平日とほとんど同じ時間に起床している私は、目覚まし時計が鳴らなくても、時間になれば目が覚めるのだ。
―――朝一番で、販売促進課に提出する売上結果を纏めないと。あと、他に何かすることはあったかしら……。
毎朝の習慣で、取り急ぎこなさなければならない仕事の予定を横になったままぼんやりと思い浮かべている。
すると、
「今度こそ、おはよう」
と声が掛けられ、額と鼻先にチュッ、チュッとリップ音を立てて軽くキスされた。
情事後、気絶するように落ちた眠りと違って、二度目の眠りはそこそこしっかりとした睡眠だった。おかげで意識もすぐに戻り、自分の置かれている状況を即座に理解する。
ハッと目を見開いてみれば、僅かな距離の先にあるのは課長の整った顔。フワリと崩れた髪がやわらかい雰囲気を醸し出しており、勤務中とは違う優しげな美形に心臓が跳ね上がった。
課長に一瞬見惚れていると、今度は唇を軽く啄まれる。
「ひゃぁ!」
突然キスをされ、悲鳴と共に肩も心臓も跳ね上がった。
そんな私の肩をやんわりと抱き寄せ、己の胸に閉じ込める課長。
「何をそんなに驚くんだ?」
「し、失礼しました。課長のかっこいいお顔が間近にありましたことに、殊の外驚きまして……」
寝起きに怪獣や猛獣とのご対面も怖いけれど、至近距離で見る美形の微笑みも意外と心臓に悪いのだ。異性との接触に免疫がない私からすれば、課長のきれいな笑顔は恐怖と紙一重だったりする。
バクバクと激しく脈打つ心臓を感じながらスーハ―と深呼吸すれば、ギュウッと抱き寄せられた。
「雅美の言葉に怒るべきか、喜ぶべきか……」
きつく抱き寄せた私の額にスリスリと頬を寄せて、悩んでいるような口調でそんな事を呟く課長。
ハァとため息をついては、頬ずりを繰り返している。
―――悩むなら、とりあえず私を離してもらえないだろうか。そして思う存分、一人で考え込めばいいのに。
そう考えるものの、原因は私にあるようなので放っておくのも忍びない。
「あ、あの、私の発言に何か?」
おずおずと切り出せば、目尻にキスをされた。
「雅美が俺の事をかっこいいと言ってくれたことは、すごく嬉しいが……。相変わらず“課長”と呼んでくることに、やはり納得がいかない。雅美の恋人は俺なのに」
どうやら私が彼を呼ぶ時、自然に“課長”と呼んでしまうことにこだわっているらしい。
だが、これまで何年も『課長』としか呼んだことがないので、いきなり名前で呼ぶことには戸惑いがある。
「いずれ慣れたら、ごく自然にお呼びできると思います」
そう口にしたら、切れ長の瞳がジッと見つめてきた。
「いずれって、いつだ?どのくらいしたら、慣れるというんだ?」
いつの間にやら体勢は、仰向けになっている私を見下ろすように覆いかぶさっている課長。
苦しくない程度に課長が体重をかけているので、彼の逞しい胸板に私のささやかな胸の膨らみがやんわりと押し潰されているという感じで、抱き合っているとはまた違う密着具合。
しかも切れ長の瞳で鋭く見下ろされているものだから、色々な意味で心臓が暴れている。
「あ、あの、それは……その……」
流れる前髪の隙間から窺える課長の瞳に、課長の素肌に胸が触れている感触に、羞恥と緊張とちょっとした恐怖で言葉が詰まった。
逃げ出そうにも圧し掛かる課長をどかせそうにもないし、私の顔のすぐ横には課長の手があるので、首を背けることも出来ない。
どうしようかと考えていると、課長がスッと顔を寄せてきた。
「いずれ呼ぶというなら、今呼べばいいだろうが」
―――なんですか、その理屈は⁉
今は無理だと言っているのに、どうして今だというのだ。
「で、ですから、慣れたら、すぐにでもお呼びしますから……」
しどろもどろに言い返せば、課長の視線はますます鋭くなる。
「そんな曖昧な逃げは、俺には通用しない。呼びたくないという明確な理由がないのであれば、今すぐに呼べばいい」
「たかが名前ではないですか。それほどムキにならなくてもいいのでは……」
ポソリと呟くように漏らせば、課長の瞳がカッと見開かれた。
「これがムキにならないでいられるか!雅美は恋人の俺の名前よりも先に、赤の他人の男の事を呼んだんだぞ!」
「いえ、赤の他人ではなく、滋さんは大変お世話になっている阿川部長の息子さんですから……」
「また呼んだな!」
すかさず、短い一言でピシャリとやられる。
睨んでいると言えるほどの強い視線に、私の背中に冷汗がジワリと浮いた。
流石に今のタイミングは失敗だったと、我ながら思う。だが、口から出てしまった言葉は、なかったことに出来るはずもない。
そうである以上、私が取るべき行動は一つしかなかった。
「もう、他の男性の名前は不用意に呼びません。だから、許してください。……一義さん」
最後の一言は囁くような小声になってしまったが、彼にはきちんと聞こえたらしい。
「雅美!」
感極まったように私の名前を呼んだ彼に、まさしく押しつぶす勢いで抱きしめられてしまう。その腕の強さに、思わず『く、苦しいですっ』と声を上げてしまった。
「すまない、雅美。嬉しくて、つい。本当にすまない。悪気はなかったんだ」
慌てて腕を解いた彼が、申し訳ない表情で何度も謝ってくる。
圧迫された胸が楽になり、無事に空気を取り戻した私は、何度か深呼吸を繰り返した。
「い、いえ、まぁ、喜んでいただけたのなら、それはそれでいいです。私は大丈夫ですから、もう謝らないでください、一義さん」
結局流れ的に呼ぶ羽目になってしまったが、一度口に出してしまえば、割と大丈夫なのかもしれない。二度目の名前は、すんなりと言葉になった。
不意に自分の名前を呼ばれた彼は驚いたように目を大きく開いた後、フワリと相好を崩す。その自然な微笑みは、大げさではないからこそ、彼の喜びがヒシヒシと伝わってくるようだ。
―――こんな嬉しそうな顔が見られるなら、呼んでよかった。
私も彼につられて、ちょっとだけ笑顔になったのだった。