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(17)情事の後の私

 深い眠りの淵から少しずつ意識が戻ってくると、自分がとても気持ちのいい温もりに包まれていることを感じ取った。

 それは穏やかでありながら、とても力強い。まるで私のことを何事からも守ってくれる、強固で居心地の良いゆりかごのようだ。私がここにいてもいいのだと、私の居場所はここなのだと、その温もりが教えてくれていた。


―――何だろう、これ……。


 今まで味わったことのない温もりをもっと味わいたくて僅かに擦り寄れば、私の体に何かがやんわりと絡みつき、その絡みついた何かにソッと引き寄せられる。そして、胎動のように静かなリズムが微かに伝わってきた。

 それによってますます居心地の良さを強く感じ、私は言いようのない安堵を感じる。

 静かに吐息を漏らすと、この“何か”から伝わっていた温もりが上半身だけではなく、全身を覆い隠すように脚にも絡みついてきた。

 私を痛くない程度に引き寄せ、背中と脚にしっとりと重なる何かの正体はさっぱり分からないけれど、きっととても良いものに違いない。


―――温かくて、気持ちいい……。


 ヌクヌクと穏やかな熱に包まれ、自然と口元が緩む。

 なんと幸せなひと時だろうか。出来ることならこのままずっと微睡んでいたいと思っていると、額にやんわりとしたモノが押し当てられた。 

 そのやわらかいモノは今なお閉じられている瞼に触れ、目尻に軽く吸い付いてくる。それがちょっとくすぐったくて、更に口元が緩んだ。

 ぼんやりとその感触を受けているうちにソレは鼻先へと移り、頬に触れたかと思うと、唇へとやってくる。

 少しだけかさついた感じのするソレは、私の唇にとてもよく似ていた。


―――……唇?


 頭の中で呟いた言葉にハッとして目を開ければ、課長の顔がぼやけるほどの至近距離にあった。

「えっ⁉」

 ギョッとした私が思わず仰け反ると、逃がさないとばかりにギュッと抱きしめられる。ほんの僅かにも距離ができることを咎めるように、逞しい腕と脚で強く引き寄せられた。

 おかげで私は身動きが取れなくなってしまう。

 その事にドキンと心臓が跳ね、掛けられている薄い羽毛布団の下は私も課長もお互い裸ということに気が付いて、なお一層心臓が跳ね上がった。

 体に絡みついていた“何か”とは、素肌の課長の腕と脚だったようだ。ドキドキと暴れる鼓動を感じている私に、課長が素敵な顔で素敵に微笑む。

「おはよう、雅美。……って言っても、まだ夜中だけどな」

 自分に向けられる優しい笑顔に、直に感じる課長の温もりに、カァッと頬が熱くなる。


―――わ、私、課長と……。


 意識が覚醒すると、数時間前の記憶も戻ってきた。


 激しくキスをされて、強く抱きしめられて、熱く滾る課長の存在を何度も、何度も、体に覚えさせられて。

 その間に艶っぽい声で繰り返し囁かれた『雅美、愛してる』が、耳の奥で鮮やかに蘇って。

 

 甘く蕩けそうな、そして強烈に脳裏に刻みつけられた記憶が私の顔をますます赤くさせた。 

 目が覚めた時に裸で抱きしめられているなどとは思いもよらず、今の私に余裕などこれっぽっちもあるはずがない。

 世の女性は、こんな時には恥ずかしそうにはにかんだりするのだろうが、体の関係はおろか、恋愛することさえも初めての私は、もうすぐ三十になる大人とは思えないほどオロオロと狼狽える。

「あ、あの、そのっ」

 泣きそうな顔で視線を彷徨わせていると、

「大丈夫か?」

 低くて耳に心地の良い声で問いかけられ、私を落ち着かせようと、温かな手が背中を軽くポンポンと叩いた。

 吐息が掛かるほど近い位置に互いの顔があるので、寝室の薄明りの中でもはっきりと見えるキリッとした涼やかな目元。その瞳が私を見つめて優しく細められる。

「ここがどこか分かるか?」

 綺麗に筋肉のついた課長の胸から響く鼓動と同じリズムで優しく背中を叩かれていると、少しずつ動揺が収まっていった。問いかけにコクリと頷きを返せば、

「じゃぁ、俺は誰?」

 と、意図の読めない事を問われる。

 なぜ、今、そんな事を問いかけてくるのだろうか。目の前にいる人物が分からないほど、私が錯乱しているように見えるのだろうか。

 心の中で首を傾げながら、私は小さく答えた。

「……楠瀬課長」

 そう口にしたとたんに、目の前の整った顔が思いっきり苦々しく歪んだ。

「この期に及んで、どうして役職で呼ぶ?」

 ついさっきまで優しかった瞳が、ユラリと厳しい光を浮かべた。おまけに私の体に絡みついていた彼の腕と脚が、キリキリときつく締め付けてくる。

「阿川部長の息子さんは名前で呼ぶのに、どうして恋人の俺のことは役職付きの苗字なんだ?普通逆だろうが」

 鋭い視線で見据えられて、言葉に詰まる私。

「そ、それは……、特に深い意味はないのですが……」

「深かろうと浅かろうと、意味があったら、絶対にお前をベッドから出さないぞ」

 威嚇するような低い声で言われ、ビクリと肩が跳ねた。

「え、ええと、それは、言葉のあやと言いますか。で、ですから、本当に何でもないんです。ただ、部長のお宅で夕食をご馳走になった時に“滋さん”と呼んでいたので……」

 つい口を滑らせてしまうと、課長の眉間にグッと縦じわが刻まれる。そして痛いほどに私の事をギュウギュウと抱きしめ、こちらの瞳を睨み付けながら一際低い声で言った。

「どうして恋人でもない男の名前を、そう親しげに呼ぶんだ?」

 整った顔立ちが苛立ちを露わにすると、迫力が半端ない。その恐ろしさに今すぐ逃げ出してしまいたいけれど、全身を締め付けられているので腕の一本も動かせないのだ。

「で、ですが、同じ席に阿川部長がいるのに、息子さんを“阿川さん”とお呼びするのはおかしいじゃないですか……」

 鬼と呼ばれる課長を前にすれば、普段は無表情と言われる私の顔も誰が見ても分かるほどに恐怖で色を失っていることだろう。

 そんな私を見て、課長が口元だけでニヤリと笑う。

「まぁ、今後一切、阿川部長の息子とは同席になる場面になることもないから、二度と親しげに名前を呼ぶこともないだろう。雅美、覚えておけ。お前の口から出てもいい男の名前は、俺の名前だけだからな。この先俺以外の名前を呼ぶ事があったら、即座に入籍するぞ」

 鋭い瞳で真っ直ぐに目を覗き込まれ、私はガクガクと首を縦に振ったのだった。


 しばらくすると課長の怒りも収まり、男らしい骨ばった指が私の髪を撫でている。ついさっき見せた鬼のような表情はすっかりなりを潜め、蕩けるような笑みを浮かべていた。

 そんな課長の顔を間近で目にして、どうにも居たたまれない状態の私。布団をかけているので視界に入ることはないがいまだに裸でいることも非常に居心地が悪かった。

 どうやってこの優しいけれど強固な腕の拘束から抜け出そうかと考えている時、課長が口にしたセリフを思い出して、再びハッとする。

「先程、夜中って言いましたよね⁉今、何時ですか⁉」

「ん?三時だよ。まだ夜明け前だし、もう一眠りすればいい。こうして抱き合ったまま寝よう」

 課長はフワリと目を細めるけれど、そんな場合ではなかった。

「私、家に連絡を入れてない……」

 社会人になってからは流石に門限を設けられてはいないものの、実家暮らしである以上は家族を心配させないように、帰宅が遅くなりそうな時には必ず連絡を入れていたのだ。

 それが夜中の三時に至るまで電話の一つも入れてないとなれば、いくらなんでも家族が心配するはず。

「どうしよう……」

 今さら電話をしてもどうにもならない。でも、私が無事であることを知らせないと、家族が心配しているに違いないのだ。

 それに、私にはものすごく厄介な身内がいる。やたらと過保護で心配性の弟は、きっと寝ないで私の帰宅を待っているに違いない。せめて弟には連絡を入れておいたほうが、帰宅した際にそれほど大騒ぎにはならないはず。

「あ、あの、家族に連絡を入れたいのですが……」

 だから腕を解いてほしいと言外に含めて告げれば、反対に強く抱きしめられてしまった。

「駄目だ。今は雅美を離したくない」

 そう言って、チュッと唇を吸われる。

 これまで職場で見てきた楠瀬課長は、こんなにも甘さを窺わせる人ではなかった。厳しいだけの人ではなく優しい一面も兼ね備えた素晴らしい上司ではあったが、ここまでとは思わなかった。

「い、いえ、でも……」

 そんな課長に戸惑い、そして確実に起きているであろう弟に連絡を入れなければと、課長の広い胸を手の平で押し返して距離を取ろうとする。

 すると、課長が腰を押し付けてきた。お腹よりも少し下の辺りに、妖しい熱を孕んだ硬いものが当たる。

「えっ?」

 熱の正体に思い当たって、顔を赤や青に染めていると、

「今から雅美を抱いていいのなら、その後で離してやるよ」

 と、艶めいた笑みを向けられた。

「そ、そんな!さっき、あんなに……」

 激しく長く、私の事を散々抱いたではないか。それなのに、もう“復活”しているって、どういうこと⁉

「あれじゃ、まだ足りない。想いが成就した喜びは、あんなものでは全然足りないぞ」

 背中にあった課長の左手が、意図を持ってサワサワと私の背筋を撫で上げてくる。髪を撫でていた右手は、うなじの辺りを弄りはじめた。

「あ、ん、も、もう……、無理……」 

 ならば、彼はどれだけ私を抱けば満足するのだろうか。底の見えない課長の愛情に困惑していると、私の肌を這っていた手の動きが止まる。

「雅美を抱きたいのは山々だが、流石にこれ以上は可哀想だからな。“今夜は”もうしないから、安心しろ」

 そう言って、不埒な動きを見せていた手は穏やかに私を抱き寄せた。『今夜は』というところを強調してきたことが気にはなるが、とりあえずは大丈夫なようだ。

 課長の言葉と仕草にホッとしてすぐそばにある肩口に額を寄せると、課長が私の髪に頬ずりする。

「それと、連絡なら俺がしておいたから心配しなくていい」

「え?」

 きょとんとして見上げると、課長がクスリと笑う。

「20時過ぎだったか、雅美の家に電話しておいたぞ」

「私の家にですか?」

「そうだ。雅美の母親が電話に出てくれてな、そこで諸々の事情を話しておいた」

 課長は母にどんな報告をしたのだろうか。何となく嫌な予感がする。私はコクリと息を呑んだ。

「……諸々って?」

 すると、課長はやたらと晴れやかにこう言った。

「雅美と俺が付き合うことになったことと、雅美が俺の部屋に泊まることだ」

「ええっ!」

 目を丸くする私に課長はニッコリと微笑みながら、更に話を続ける。

「話の分かる母親なんだな。雅美のことをよろしくってさ。雅美がここに泊まっていることは家の人にきちんと伝わっているから、何も心配ないぞ」


 いやいやいや、私の知らないところでお付き合いが家族に報告されているなんて、逆にあれこれ心配なんですけど!

 課長の部屋に泊まるということを伝えたということは、きっと、アレやコレがあったことも知られているに違いない。それって、ものすっごく恥ずかしい‼

 課長との交際を母に反対されなかったのは良かったが……。


―――どんな顔をして家に帰ればいいの?

 

 私は自分の眉毛が情けないほど下がりまくっているのを感じながら、深いため息をついたのだった。




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