(16)彼女の家族と俺 SIDE:楠瀬
「雅美……」
本日何度目かの熱を放出し、手早く後処理を終えた俺は雅美の隣に横になる。そして、自分の腕の中に閉じ込めた愛しい人の名前を小さく呼んだ。
しかし、汗ばんだ四肢をクタリと投げ出している彼女は答えない。乱れた浅い呼吸が微かに返ってくるだけだ。
情交に慣れていない彼女の恥ずかしがる様が、どうにも可愛らしくて。
泣き濡れた瞳でこちらを見つめてくる様が、どうにも色っぽくて。
華奢な指先でこちらに縋り付いてくる様が、どうにもいとおしくて、いとおしくて。
どれほど彼女と体を重ねても、この胸の奥で渦巻く切なさを鎮めることが出来ず、宣言通り抱き潰してしまった。
呼びかけても、多少揺さぶっても、雅美はまったく目を覚まさない。
「自分では、もっと理性的な人間だと思っていたんだがな……」
自嘲の笑みを浮かべながら、額にかかっている彼女の前髪をソッと払ってやった。すると、閉じられている瞼の縁が赤く色づいているのが見て取れる。
雅美の胸の中に深く根付いている自分に対する自信のなさによる涙と、激しい情事の最中に湧き上がる様々な感情が入り乱れたことによる涙で、彼女の目元はうっすらと腫れていた。
そこに優しく唇を寄せる。ありったけの愛情を篭めて。
「愛してる、雅美」
ひとしきりキスを送ると、俺はゆっくりとベッドを抜け出す。
「さすがに、連絡を入れないのはまずいな。雅美は当分起きられそうもないし、俺が電話をするか。付き合い始めていきなり無断外泊をさせたとなっては、俺の印象も悪くなるしな」
再び苦笑いを浮かべた俺は、静かに寝室を後にした。
ザッとシャワーを浴びて部屋着に着替えた俺は、携帯電話を手にリビングのソファへと腰掛ける。
サイドボードの上に置かれた時計は20時過ぎを指している。夕飯が終わって一段落着いた頃で、電話をかけるにはいいタイミングだろう。
一つ咳払いをしてから、彼女の家の電話番号を指先で辿る。
ちなみに、なぜ雅美宅の番号を知っているのかということだが、けして後ろめたい方法で入手したのではない。部下の緊急連絡先を把握しておくのは、上司として当然だからだ。そう、当然のことなのだ。
やや緊張しながら呼び出し音を耳にしていると、三度目のコールで
『もしもし?』
という落ち着いた女性の声がした。おそらく、母親だ。阿川部長に電話をかける時よりも硬い声で、それでも言葉に詰まらないように努めて冷静に話し始めた。
「私、雅美さんと同じ会社に勤務している者で、営業部の楠瀬と申します」
『娘がいつもお世話になっております。ですが、まだ娘は帰宅しておりませんので』
申し訳ない声音でそう告げられたところを、
「いえ、雅美さんが帰宅されていないのは承知しております。そのことでお話が」
と、切り出す。
『はい?』
戸惑いが感じ取れる声がしたが、俺はすかさず話を続けた。
「実は、雅美さんと本日よりお付き合いさせていただくことになりまして」
『え?』
「それでですね、雅美さんが今、私の家にいるんです」
『え!?』
ひときわ大きな声が返ってくる。
その声に嫌な汗がうっすらと滲むが、自分でしでかしたことをうやむやには出来ないし、もう少し彼女と一緒にいたいという思いが強い。
「そ、その……、雅美さんは眠っておりまして。しばらくこちらでお預かりして、目を覚ましましたら、お宅に送り届けることをお伝えしようと」
ほんの少しだけ言葉に詰まりながらそう伝えると、
『雅美は具合が悪いんですか!?』
心底心配そうな声のお母さん。俺の心臓がギュッと縮む。
「具合は悪くないのですが、何と言いますか、私の辛抱が足りなかったという事でして……」
嫁入り前の大事な娘になにするんだ、と怒鳴られることを覚悟で息を呑めば、どうしたことか雅美の母親は電話の向こうで小さく笑った。
『でしたら、いっそのこと一晩泊めていただけませんか?」
と、予想外の返答が。
「よ、よろしいのですか?」
こうもあっけなく賛同されてしまうと、逆に腰が引けてしまう。おっかなびっくり訊けば、
『楠瀬さんは、営業一課の課長さんですよね?』
何だか的外れな言葉が返ってくる。
「は、はい。そうですが」
『なら、安心だわ』
ますます意味が分からない。なにがどうして安心なのだろうか。
「と、仰いますと……」
首を傾げながら尋ねると、フッと短く息を吐いた音の後にお母さんが話し出す。
『あの子ったら、本当に恋愛に奥手で、親としても心配していたんですよ。かなりおとなしいですけど、嫁にもってこいだと思うんですよね。なのに、いつまで経っても恋人を作らないし。いっそのこと、お見合いで無理やりにでもくっつけてしまおうかって、私の姉と話しをしていたところなんです』
―――なんだと?
思わず眉間に深く皺が寄った。どうやら、自分の告白は滑り込みセーフといったところらしい。
『あまり会社の事は話さない子ですけど、それでも、時折楠瀬さんのことは話に上っていたんです。本人はおそらく自覚してなかったと思いますが、娘としても楠瀬さんが気になっていたんでしょうね。その方とお付き合いするとなったら、母親として俄然応援しますよ』
なんとも心強い味方を得たものだ。ここでようやく肩の力が抜けた。
「雅美さんが私のことを話題にしてくれていたなんて、とても嬉しいです。実は、もう長いこと片想いをしておりまして」
『そうなんですか?』
返ってきた相槌に、俺は少々照れながらも素直な気持ちを言葉にする。
「大変真面目で責任感の強いところや、それでいておしとやかで聞き上手で、上司からも得意先からも信頼が厚いんです。ですが少しも鼻にかけずに、常に控えめで。そして、時折見せる笑顔が非常に愛らしいんです。そんな雅美さんに、ずっと想いを寄せておりました。その想いが無事に実り、こうしてお母様に応援していただけると、感激もひとしおです。本日はお電話で申し訳ございません。後日、改めてご挨拶に伺いますので」
雅美を慈しみ、育ててくれた家族には感謝を伝えなければ。そして、結婚の許しも乞わねばなるまい。
俺の申し出に、お母さんは嬉しそうな口調で話し出す。
『お会いできる日が楽しみです。ただ、我が家には手強い人間がおりますので雅美との付き合いは少々大変でしょうが、あの子が選んだ楠瀬さんでしたら私は大賛成ですから』
「そう仰っていただけると、大変ありがたいです。それで、その、手強い方というのは、やはり雅美さんのお父様でしょうか?」
娘を男に取られたくないという父親というのは、この世の定番的存在だ。
こちらが出向いていっても追い返されたり、怒鳴りつけられたり、口を利いてくれなかったり、会ってもくれなかったり。そんな話は、多少の誇張はあれど耳にした事はある。
もちろん、俺はそのことも覚悟の上で、雅美と結婚する気でいるのだ。父親の存在に怯えて愛する雅美を手放すつもりなど毛頭ない。
改めて決意を秘めていると、コロコロと明るい笑い声が返ってきた。
『いいえ、違います。主人も雅美のことは思いっきり可愛がっていますけど、それ以上にあの子に執着している者がいるんですよ。雅美に恋人が出来たと聞いたら、間違いなく大暴れするでしょうね。でも、楠瀬さん、負けないでください』
「は、はぁ」
さっぱり意味が分からない応援に、気の抜けた言葉しか出てこない。しきりに首を捻っていると、
『では、雅美のことは今晩と、これからも、よろしくお願いします』
母親らしく、穏やかでいて芯の強さを窺わせる口調で挨拶される。俺はとっさに居住まいを正した。
「雅美さんのことは、何を置いても大切にします。では、失礼いたします」
相手が通話を切る音を聞いて、こちらも電話を切る。
「雅美に執着する、父親以外の家族?誰のことだ?」
疑問は残ったが、無事、彼女の家族に了承を得たので、堂々と外泊させることが出来る。
俺は弾む心で寝室へと戻っていった。
《その直後の石野家》
「ただいまぁ」
少し乱暴気味に玄関の扉が開き、雅美の弟である隆志が帰宅した。
「お帰りなさい。随分と遅かったのね」
廊下に設置されている電話の受話器を戻した母親は、疲れた顔をした息子に声をかける。すると隆志は左右に首を倒して、ゴキリと鈍い音を立てさせた。
「撮影の段取りが急に変わって、スタジオの中がメチャクチャになってさ。予定より二時間も遅くなったんだよ。あぁ、疲れたぁ」
上がり口に荷物をドサリと置いて、隆志が大きく背伸びをする。スリッパを履いて、相当疲れた様子で廊下を歩いてゆく。
「これはもう、雅美ちゃんに癒してもらうしかないよ!雅美ちゃん、膝枕して!」
そう言って、リビングを見回す隆志。
いつもなら大好きな姉は夕飯の後はソファに座ってテレビを見るか、愛犬のブラッシングをしているはず。
しかし、どこにも愛する姉の姿が見えない。首を傾げる隆志。
「雅美ちゃんがいないんだけど、なんで?お風呂に入っているわけじゃなさそうだし。……もしかして、具合が悪くて、部屋で休んでいるとか!?雅美ちゃん!雅美ちゃん、大丈夫!?」
これは一大事とばかりに顔を青ざめさせ、愛しの姉の部屋へと駆け出そうとする。そんな彼に母親が静かに声をかけた。
「雅美は今夜帰らないわ。泊まってくるのよ」
どこか楽しげに告げてくる母親に、隆志はぱちくりと瞬きを繰り返す。
「え?寝泊りさせてもらえるような友達が出来たの?」
不思議そうな顔をする隆志に、母親はにっこりと笑った。
「ふふっ、出来たのは友達じゃなくて恋人よ」
その言葉を聞いて、隆志は即座に不機嫌な顔となる。
「……はぁ?母さん、何言ってんの?今日はエイプリルフールじゃないんだけど」
まるで威嚇するかのような鋭い視線だが、その程度で怯む母親ではない。ますます笑みを濃くして、説明を始めた。
「何って、本当のことを言ったのよ。さっき、雅美とお付き合いを始めた男性から電話があって、今夜はその方の部屋に泊まらせるという話がついたのよ」
それを聞いて、隆志の怒りが爆発した。
「何だよそれ!何で俺の許可もなく、勝手に雅美ちゃんを外泊させるんだよ!しかも男の家!?母さん、雅美ちゃんを何処の馬の骨とも分からない男にくれてやるなんて、それでも母親なのかよ!大事な大事な雅美ちゃんに何かあったら、どうしてくれるんだよ!!」
隆志の全身が怒りで震える。
その剣幕に、絨毯の上で寝転がっていた愛犬がビクリと飛び起きた。
しかし、母は強し。そんな息子の怒りなど、どこ吹く風だ。
「失礼ね。私はそんじょそこらの男に大切に育ててきた娘をくれてやるほど、ロクデナシな親じゃないわよ。雅美のお相手は、KOBAYASHI本社営業部の課長さんなの。ちっとも馬の骨じゃないでしょ?」
どうだ、とばかりに母親が勝ち誇った顔で言いやれば、隆志の怒りが少しだけ萎む。だが、そんなものは一瞬で、握った拳が再び怒りでブルブルと小刻みに揺れ出した。
「そ、それにしたって、そんな、が、が、外泊だなんて!」
ワナワナと唇を震わせ、隆志は床を睨み付けている。甘いルックスと穏やかな雰囲気が特徴の隆志だが、今はモデルをしている時の彼とはまるで違う。般若もかくやといった様相だ。
そんな息子に、母親は呆れ気味にため息をつく。
「あのねぇ、雅美は二十九よ。外泊するぐらい、何の問題ないでしょ。ましてや恋人の家に泊まるんだから、大丈夫よ」
ここで隆志の怒りが頂点に達した。
「大丈夫じゃない!俺の雅美ちゃんが、俺の雅美ちゃんがーーー!俺だって、大きくなってからは、雅美ちゃんと二人きりでベッドに入ったことがないのに!!ちくしょう、その男、呪ってやる!!」
「あんた、いい加減に姉離れしなさいよ。いつまで経っても雅美を追い掛け回して……」
完全に呆れた顔で息子を見れば、隆志の形のいい瞳がカッと見開かれる。
「だって、雅美ちゃんは俺の理想なんだよ!おしとやかで料理がうまくて、聞き上手で、裁縫も出来て。なのにちっとも鼻にかけたところがなくて、控えめで。はにかんだ笑顔が、すっげぇ可愛いんだよ!」
「それ、課長さんも言っていたわね」
しれっと呟かれた母親のセリフに、隆志の怒りは頂点を突き抜ける。
「だぁぁぁ!もう、寝る!!」
ダン、と床を強く踏みつけ、隆志は怒りを迸らせてリビングを後にしたのだった。