(14)泣きじゃくる私
泣き続ける私をあやすように、課長が瞼に何度もキスを落とした。
優しく唇を押し当てながら課長は脚を進め、そして私は寝室の大きなベッドにゆっくりと降ろされる。スプリングの利いた上質なベッドは軋む音を僅かに立てただけで、難なく二人の体重を受け止めた。
課長が普段から使っている寝室に連れ込まれたことで、彼が本気であることがヒシヒシと伝わってきた。冗談であっても困るが、本気ということもそれはそれで怖い。
起き上がろうとする隙すらも与えられず、課長が私の上に馬乗りとなり、肩を掴んで私をベッドに押し付けた。
その状態で課長が前屈みとなって額、瞼、鼻先、頬にキスを降らせる。軽く触れるだけであったり、チュッとリップ音を立てたりと、様々にキスをされる私。
優しくて温かい感触が何度訪れても、涙は止まることはない。
こんなにも至近距離にいるのに、課長の顔は涙でぼやけてはっきり見えない。それだけで何故か不安になった。
課長のせいで泣いているのに、その張本人の顔が見えないことを淋しく思うなんて。それほどまでに、この人を恋しく思っているということだろうか。
私の心臓がトクン、と小さく跳ねる。
“恋しく思っているということだろうか”ではなく、恋しいのだ。だからこそ、こんな訳の分からない状態ではなく、冷静な状態で彼と向き合いたいのだ。
いや、冷静になったら、とてもじゃないが課長と肌を合わせるなんて出来そうにない。それならば、今、私は、どうすることが最善なのか。流されるべき?流されないべき?
答えが見つからず、またしてもグルグルと頭の中が回り始めて混乱を極める。ついに涙腺が壊れたかと思えるほど、涙は次々と溢れてゆく。
とりあえず、課長の顔が見たかった。
私はギュッと目を閉じて、溜まっている涙を押し出した。そしてゆっくりと目を開けると、私の唇に啄ばむようなキスを与えてきた課長の顔が見える。霞む視界を凝らして、静かに離れてゆくその顔を見つめた。
こんなに間近であっても、彼の凛々しい顔立ちは健在だ。だけど、その瞳は大きく揺らいでいた。強引に私を連れ込んだくせに、課長の目は何故か不安の色が濃かったのだ。
何を不安に思っているのか見当も付かないが、彼の不安が私に伝播して、押し出した以上の涙がせり上がってくる。肩を押さえつけられているせいで腕が自由に動かず、新たに視界を霞める雫を拭うことができない。
再び課長の顔がぼやけてゆく。
「お、お願いです、放して……」
やはり今は時間が欲しい。
泣きじゃくってみっともない私を、これ以上課長に見られたくない。たたでさえみっともない私が、更にみっともない姿を晒すなんて、そんなの笑い話にもならないではないか。
しゃくりあげながら懇願する私を、課長がひたすらに見つめていた。
「放して、くだ……さ、い……」
「済まないが、それは出来ない。……俺も不安なんだよ。顔に出てるだろ?」
ポツリと自嘲気味に漏らされた呟きに、私は一つ瞬きをすることで返事する。
フッと課長が口元を緩めるが、それはとても苦しそうな微笑みだった。
「お前に好きだと言ってもらえて嬉しいのに、夢じゃないかと疑ってしまう。これは、自分に都合のいい夢を見ているだけなのではないかと。目が覚めたら俺と石野は上司と部下の関係のままで、俺はまた石野を眺めることしか出来なくて、そんな歯痒い現実が待っているんじゃないかと……」
課長は私の肩を掴んでいた右手を離し、その親指で涙を拭ってくれる。左右の瞼を優しく撫でてから、涙で濡れている頬にソッと触れてきた。
「だから実際に石野の温もりを感じないと、どうにも不安なんだ」
いつも自信に溢れる課長もこうして不安に思うことがあるのだと、今更のように驚いた。『鬼と呼ばれる課長も人間だったのね』と、我ながら馬鹿げた独り言を心の中で零してしまった。
課長は手の平で頬の丸みを確かめるように、何度も触れてくる。
「我ながら子供じみているし、バカみたいにがっついているし、今の自分が心底情けないよ。石野よりも年上なのだから、“大人の余裕”って奴をこういうときにこそ見せたいが……。駄目なんだ、今すぐお前の心も体も手に入れないと、心配で堪らない」
課長が不安を抱いていることは伝わってきたものの、何を不安に思うのか、私にはさっぱり分からなかった。
今の私は混乱しているけれど、課長に告げた好きだという気持ちが嘘ではないということはきちんと理解している。それに私はフラフラと他の男性に靡いてしまうような性格はしてないし、そもそも、私を靡かせようとする男性がいるはずがないのだ。
直属ではないけれど、何年も同じ部の中で仕事をしてきたのに、どうして課長はそんな簡単なことを分かっていないのだろう。
「私は、誰かに奪われるような女じゃありませんから……」
自虐的でもなく、自分を卑下するでもなく、私は事実としてそう述べた。“だから課長は安心していいのだ”と言外に含ませたのに、不安一色だった課長がものすごい形相でカッと目を開く。
「まだ言うか!現に、阿川部長の息子との見合いが実現一歩手前まで進んでいたじゃないか!相手方の親が公認している見合いだぞ!そんなもの、見合いじゃなくて婚約だ!やり手の阿川部長のことだ。お前がオロオロしているうちに上手い事話を進めて、気がついた時には結婚式当日だった、なんて事になりかねないだろうが!」
あまりの剣幕にどうやっても止まらなかった涙が引っ込み、掴まれたままの肩がビクッと震えた。それが分かった課長は『大声を出して済まなかった』と謝ってきて、軽く咳払いをすると話を続ける。
「見る人が見れば、石野は嫁にしたいタイプなんだよ。家庭的で控え目で、それでいて全てを任せられる安心感がある。お前ほど結婚に向いている女性は、そうそういないぞ」
どうして課長は、こんなにも私を持ち上げるのだろうか。褒められて嬉しいというよりも、むず痒さが先立ってしまう。
これまでの自分を振り返るに、課長が言うような要素は微塵も見当たらない。
入社して以来、同僚たちとは差しさわりのない日常会話と仕事に関する用件しか話していないと思う。男女の関係を求めるような会話や誘いなど、何一つ心当たりがなかった。
「そうでしょうか?課長がそこまで褒めてくださるのに、私は誰からも声をかけられませんが」
首を傾げながら目の前の課長を見上げれば、課長は渋い顔で見下ろしてくる。
「当然だろう。お前自身が恋愛を完全に拒絶していたんだから、そんな女性に誘いを掛けたところで素っ気無く断られるのがオチだろうが。感情も見せずに淡々と断られたら、大抵の男は挫けるぞ。ヘコみまくって、再起不能だ」
「……男性もデリケートなところがあるんですね」
感心したように呟けば、課長がクスリと微笑んできた。
「そうだ。だから、俺の不安を取り除くためにもお前を抱くんだよ」
「そ、それは……」
何だかうまい具合に話がすり換えられた気がする。言葉に詰まる私に、課長は再びキスの雨を降らせ始めた。
「や、やめ、て……」
私は自由になっている片腕で顔を覆うように隠す。途端に課長がムッとした声を出した。
「往生際が悪いぞ」
課長が腕を掴んで退かせようとするのを、私は必死で抵抗する。
「だ、だって」
「“だって”、何だ?」
「私、思い切り泣いたから、顔がグチャグチャで……」
こんなに大泣きしたのは、いつ以来だろうか。幼稚園に上がって間もない頃、買い物に行ったデパートで家族とはぐれてしまった時以来かもしれない。その時に匹敵するほどの号泣ぶり。
だからこんな顔を誰にも見られたくないのに、課長がグイグイと腕を引っ張ってくる。
「石野は崩れるほどの厚化粧なんかしてないじゃないか」
「で、でも、目は真っ赤でしょうし、頬だって涙でカサカサになってるでしょうし。そんなみっともない顔、課長に見られたくないです……」
そう言いながら、またグズグズと泣き出してしまう。すると課長は肩を掴んでいたもう一方の手も放し、私のことを両手で抱きしめて無茶な要求をしてきた。
「いいから、もっと泣けよ。そして、その顔を俺に見せろ」
どうしてそんな嬉しそうな声で、そんな事を言ってくるのだろう。
「泣き顔を見せろだなんて、課長はおかしいです。もっと笑えと仰るなら分かりますが、こんなみっともない顔が見たいなんて……」
「みっともないなんて思わない」
課長が更に強く私を抱きしめてきた。顔を見せようとしない私を課長はすっぽりと腕の中に包み込んで、唇を寄せて耳元で囁く。
「泣き顔を見せるということは、自分の弱いところをその相手に見せるということだ。つまり弱い部分を見せてもいいと思えるほど、その相手を受け入れているということだ。だから目の前で大泣きする石野が俺にとってはすごく嬉しいし、メチャクチャ可愛いんだよ」
「か、可愛い!?」
ありえない言葉を聞いて、思わず顔を覆っていた腕を解いてしまった。隙を逃さない課長は素早く身を起こすと、一瞬のうちに私の腕ごと捕らえて抱きしめてくる。そして泣き腫らした瞼と、涙が乾いていない頬にキスをした。
「普段は感情なんてめったに表さない石野が、ボロボロと泣きじゃくったりして、まるであどけない子供のようだ。ったく、お前はどこまで可愛いんだよ」
「わ、私は可愛くないです」
「可愛いよ、石野は」
間髪入れずに返ってきた甘くて真剣な囁きに、私は次の言葉が出てこない。
「なぁ。俺に抱かれること、まだ迷っているか?」
課長の肩口に額を押し付けていた私は、そのままの体勢で小さく頷いた。すると課長は私の髪に頬擦りしてくる。
「迷うということは、抱かれてもいいと思っている石野がいるということだろう?100%の嫌悪感があったら、迷うことなく拒絶しか示さないはずだ」
「そ、それは……」
課長の言葉は図星であり、とっさに言い返せない。黙り込んでしまった私に、課長は尚も囁いてくる。
「頼むから、俺をその身に受け入れてくれ。お前が俺の恋人だって事を、俺に教え込ませてくれ。……雅美、愛してる」
脳が痺れそうなほど甘美な囁きに、私はしばらくしてから静かに頷き返した。
●言葉巧みに雅美ちゃんを唆す楠瀬課長(笑)
余裕がありそうで、実は全く余裕のない男性を書くのは、なかなか楽しかったです。