表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
14/41

(13)混乱する私

 この会社では役付きの社員に限り、車で出勤していいことになっている。もちろん、電車で通勤する上司達もいたが、大抵は車を利用していた。

 楠瀬課長もその一人。課長は地下駐車場に迷うことなく進み、そして何台も停められている車の間を抜け、自分の車の助手席の扉を開ける。私のことを逃がさぬように、がっちりと腰を抱いたままで。

「ほら、乗れ」

 グイッと腕で押しやられたが、私は脚に力を入れて抵抗する。何故対抗しているのか、自分でもよく分からない。おそらく照れ隠しとか、変な意地とか、そういったものが原因なのだろう。恋人―――と呼ぶには、いまいち実感がないのだが―――のそばにいることが嬉しいという感覚が、今のところちっとも湧いてこない。

 まぁ、それも仕方がないとは思う。課長に告白されて、そして自分の気持ちを自覚して、ほんの一時間ほどしか経っていないのだ。たったこれだけの時間で課長と自分が恋人同士であると認められるほど、私は素直な人間ではない。捻くれているというよりは、この状況に理解が追いつかないのだ。

 それに、課長の気持ちには全く気が付いていなかったから、彼の言葉や態度は本当にびっくりしている。もしかして私は自分に都合のいい白昼夢でも見ているのではないか、とさえも思えてしまう。それほどまでに、この状況は青天の霹靂。

 自分としてもそれなりに覚悟を決めて、阿川部長の息子さんと会うつもりになっていたのに。私にしてみれば、男性に会うというだけでも一大決心なのだ。そこへ乱入してきた課長からいきなり告白されて。何だかもう、頭の中が大混乱。考えようにも、こんな状態では思考回路が定まらなかった。

 課長のことが好きだという気持ちには嘘はないが、そういった感情にずっと向き合ってこなかったので、どうにも自分の中で折り合いが付かない。正直なところ、こんな私にも恋愛感情があったことにもびっくりしている。一般的には異性を意識し始めるのが思春期なのだろうが、その頃には私の心は幼いころから抱き続けた“諦め”という感情が占めていたのだ。異性に胸をときめかせるという当たり前の感情は学生時代から今に至るまで、ついぞなかった。

 いや、全くなかったわけではない。ただそれは恋愛感情と言えるほどはっきりしたものではなく、単なる憧れ程度のものだった。

 そういうことで、私は現在、絶賛混乱中なのである。

 ここは、少し頭を冷やしたほうがいいだろう。そのためにも、今は課長と距離を取るのが一番だ。狭い車内で課長と二人きりだなんて、とてもじゃないが平静でいられる自信がない。

 尚もグイグイと背中を押してくる課長に、私は一つ息を吸い込んでから向き合った。

「帰るなら、電車で。私の家は渋滞する道路が多いので、電車のほうが早いですし。送ってくださるお気持ちは嬉しいですが、私はここで失礼します」

 腰に絡みつく腕を外そうと躍起になっていると、低い声が頭上から降ってきた。

「……誰が家に帰すと言った?」

「え?」

 課長の言葉が瞬時に理解できず、動きを止めて課長を見上げた。

「今から帰るのではないのですか?先ほど課長が私を早退させると、部長に仰ってましたよね?」

 確かに私の耳には、そう聞こえた。課長の言葉に対して、部長が許可を出したところも見ている。ならば、課長はこんなにも不機嫌な顔でそんな事を言うのか。

 首を捻る私に、課長は決意めいた強い光を宿す瞳を向けてきた。

「早退はさせる。だが、家には帰さない」

「どういうことでしょうか?私は帰ってもいいのですよね?」

 これはなぞなぞだろうか。それともとんちだろうか。楠瀬課長の言いたいことがさっぱり見当付かない。

 しきりに首を捻っていると、課長はクスリと笑う。

「今から行くのは俺の部屋だ。お前が自分の部屋に帰れるのがいつになるのかは、俺にも分からない」

「課長の部屋?それに、分からないって?」

 なんだか話が妙な方向に向かっている気がする。クスクスと笑い続ける課長の顔は、意地の悪さと艶っぽさが同居する不思議な様相を呈していた。

「……課長?」

 おずおずと呼びかけると、ニッコリと微笑まれる。だけどそれはいつも見る爽やかな微笑ではなく、一層艶を増したものだった。そんな課長の様子に不穏なものを感じて、思わず一歩下がる。

 が、それよりも先に課長の腕が正面から私の腰に回り、素早く抱き寄せられた。間近に課長の顔が迫り、すぐそばで瞳を覗き込まれる。

「俺が満足するまで、お前を放すつもりなど毛頭無いからな。お前の足腰が立たないほど抱き潰すかもしれないから、有休使ってしばらく休ませてやる」

「なっ!?」

 課長のセリフに全身が固まった。彼氏がいないとはいえ、課長が口にした言葉の意味くらいは理解できる。驚いたのは、この人が本気で私のことをそういう目で見ているという事に対してだ。自分が“そういう対象の女性”に見られていたなんて、どうにも信じられない。

 課長は何人もの女性社員に言い寄られているくらいだから、誰から見てもいい男の部類に入る。過去には付き合いの深い恋人もいただろうし、年齢もそれなりだし、女性とそういった関係もあったことだろう。


―――そんな課長が、この私とそういう関係を?しかも抱き潰すって、何!?

 

 呆気に取られてポカンと見上げていれば、課長は顎先に手を添えて私を少し上向きにさせると、唇を重ねてきた。

 びっくりして腰が引けたが、見かけ以上に逞しい腕が私の体をしっかり拘束しているので逃げるに逃げられない。

「んっ、んっ!」

 呻いて課長の胸を拳でドンドンと叩きつけるが、キスも拘束も解かれることはない。それどころか課長は強引に舌を捻じ込んできて、私の口腔内に侵入してきた。私の舌にネットリと絡みつき、きつく吸い上げる。そしてまた舐り上げては、吸い付いた。

「や、やめ……」

 首を振って逃れようとしたけれど、いつの間にか後頭部に課長の手の平があって、しっかりと頭を押さえ込まれていた。しかも背の高い課長が圧し掛かるようにしてくるので、舌が奥まで侵入してくる。ピタリと重ねられた唇の隙間から、時折クチュリ、という音がした。その音に顔から火が出るほど恥かしさを感じていると、課長は更に舌で私の口腔内を掻き混ぜた。

 今までに恋人と呼べる男性がいなかった私からすれば、唇を重ねるだけのキスでも初めてのことなのに。こんな風に舌を絡みつかせるキスなんてされたら、頭の中が真っ白になってしまう。

 激しいキスに私の意識は飛びかけ、体の力が抜けてゆく。

「あ、ふ……」

 息が苦しくなって短く喘げば、丹念に口腔内を掻き混ぜていた課長の舌が静かに後退していった。

 唇が離れても私は脚に力が入らず、課長の胸にグッタリと凭れかかる。そんな私の額にチュッと音を立ててキスを贈った課長は、嬉々とした表情で私を助手席に座らせる。そして素早くシートベルトを装着させると、自分は足早に運転席に乗り込んだ。

 嵐のようなキスをされてボンヤリとしている私はシートベルトを解除する気力もなく、助手席に沈んでいる。課長は運転席から身を乗り出して動かない私の唇に軽く触れると、クスッと小さく笑ってからエンジンキーを回した。




 ふと気が付けば、なかなかに立派なマンションの駐車場にいた。助手席の窓から見える景色にギョッとしていると、いつの間に車から降りたのか分からないほど素早い動きで、課長が助手席の扉を開けてきた。

「行くぞ」

 そう短く言った課長は、これまた素早い動きで私に掛けられているシートベルトを外し、そして私の手首を掴んで車内から引っ張り出した。空いている片手でバタンと勢い良くドアを閉めると、片手に二人分のバッグ、もう一方の手に私を抱えて力強く歩き始める。

 ピタリと半身を寄せて歩くこの格好は恋人としてそれほどおかしいものではないのだろうが、まだ夕ぐれには早いこの時間帯では、マンション内に出歩く人も多く、私たちの様子に気が付く人もいるだろう。

既に何人かは私たちに気が付き、遠巻きにこちらの様子を窺っていた。彼らは課長と同年代かそれよりも少し上の年代で、主婦同士の立ち話を楽しんでいたようだ。

 そこにいきなり現れた私たち二人。

 怪訝な表情ではなく、どこか微笑ましいものを見るような目つきだ。『あら、私たちにもあんな時期があったわねぇ』という聞こえてきた囁きに、羞恥心が煽られる。

 この性格のせいでいろいろと厭味を言われたりしてきたけれど、いちいち顔に出すことはなかった。大抵のことには何でもないことのように振舞うことは得意だが、こういう展開には慣れていない。どうやって表情を取り繕えばいいのか。……無理だ。羞恥を忘れて取り繕うなんて、私には出来ない。

「か、課長!離してください!」

 泣きたいのと怒りたいのと半々の表情で声を上げれば、課長はチラリと私を見遣っただけで歩みを止めることはしなかった。

「お前は存外そそっかしい。あの雨の日だって、何度も脚を取られて転びかけたじゃないか。まぁ、おかげで堂々と抱き寄せることが出来たから、俺としてはいい思いをさせてもらったが」

「あ、あれは、課長が強引に寄り添って歩こうとするから!放してくだされば転びません!」

「なぜ、放さなければならないんだ?俺とお前は恋人なんだぞ?」

 今度はしっかりと私の目を見てそう言ってきた。その課長の目を見返すことが出来ず、私は戸惑いを浮かべて俯いてしまう。ここで課長が足を止めた。気が付けば既にエレベーターホールまで来ている。丁度扉の開いたエレベーターに押し込まれ、扉が閉まると同時に奥の壁に体を押し付けられた。

「お前のことだから、すんなり俺との付き合いを受け入れるとは思ってなかったが……。それでも、

これは堪えるな」

 ギュッと眉根を寄せた課長は私の左肩に額をそっと載せて、

「俺の告白を信じてくれ。俺の想いを受け入れてくれ」

 と、掠れた声で小さく囁き、課長は私に縋る。

 いつにない弱々しい様子に私は少し慌ててしまう。そんな彼を宥めようと、目の前にある課長の右肩に自分の右手で触れた。

「え、あ、あの、信じてますよ。課長があの状況で嘘や冗談を言うとは思えませんし。何より、阿川部長を前にして、嘘を言うだなんて」

「だが、お前自身はまだ納得、というか、信じていないのではないか?」

 間髪入れずに返ってきた言葉に、私はギクリとなる。

「それは……」

 言葉に詰まってしまった。自分の心の内を課長に読まれてしまったことに、居心地の悪さを感じてしまう。信じていないのでなく、信じられないのだ。誰からも必要とされていないこの私を、物好きにも恋人にしようとする男性がいるとは。しかもこの楠瀬課長が。

 どう答えていいものか言葉が見つからずに黙ってしまった私に、課長はゆっくりと息を吐いた。

「今は信じられなくとも、俺とお前は恋人だ。それは覆らない。臆病者のお前にいきなり告白した俺も悪かったが、あそこで割り込まなかったら阿川部長の息子にマンマと持っていかれるだろうしな。何しろあの阿川部長が気に入ったお前を、息子が気に入らない訳がないんだから」

「そ、そんな……。私なんて、滋さんに断られますよ」

 何だって課長も阿川部長も、私をそんなに持ち上げるのだろうか。こんなつまらない女のどこがいいのか。恋人にも妻にも向かない、面白みのない女なのに。

 心の中でそう呟いていると、課長がユラリと顔を上げた。

「滋さん、だと?」

 これまで聞いた中で、一番低く不機嫌な声。課長が“鬼”と呼ばれるときの声だ。一体、何が気に障ったのだろうか。

「は、はい。阿川部長のご長男は、滋さんというお名前なんです」

 課長の顔を見上げながら言うと、眉間の皺がグッと深くなった。

「お前の口から他の男の名前が出てくるのは気に入らない。俺のことは“課長”と呼ぶくせに。……ああ、今はその話ではなかったな」 

 ふぅ、と課長は短く息を吐く。そして、小さな笑みを零した。

「お前は、俺の想いを信じてくれてはいるのだろう。ただ、戸惑いが大きすぎて、何もかもを信じるのは難しいといったところか。そういうちょっと不器用なところも、お前らしいな」

 口調がいつものように柔らかくなり、私はホッと息を吐く。これまでに鬼の課長と直接対峙したことはないので、実際にどれほど恐ろしいのか知らない。だけど、あの低い声だけでブルリと震えが来るほどだったのだ。その鬼が姿を潜めてくれて、本当に良かった。

 安堵する私を見つめながら、課長がボソボソと何事かを呟く。

「お前の感情がついてくるまで、やはりしばらくは様子を見るべきか。……いや、だめだな。そんなお前だから、ダメ押しとばかりに関係を結ばないと。感情がついてこないなら、体で分からせてやる」

 安心したのも束の間、課長の口からは妖しく危険な言葉が飛び出した。

「は?!ちょ、ちょっと待ってください!体で分からせるって何ですか!」

 思わず叫んでしまってハッとなる。幸いにも、ここが同乗者のいないエレベーターで良かった。……違う、暢気に胸を撫で下ろしている場合ではなかった。

「私だってそれなりの年ですから、課長が仰りたいことは、まぁ、その、分かりますよ。ですが、そんなの急すぎます!まずは、お互い冷静になるべきです!」

 告白されて、部内で恋人宣言をされて。それだけでも驚異の展開なのに、もう体の関係!?ああ、もう、あまりの進展の早さに、本当に気を失ってしまいそうだ。

 しかし、課長はギッと強い視線を向けてくる。

「だめだ。お前はヘタに冷静になると、俺から離れていきかねないからな。卑怯だと罵られようが、お前の恋人は俺なのだと自覚させるまでは、どうにも落ち着かない」

「で、で、でもっ」

 ここで、エレベーターが指定階に止まった。すぐさま課長に腰を取られ、再び引きずられるように歩かされる。課長は忙しなく部屋の扉の鍵を開けると、無理矢理に近い形で私を玄関に押し込めた。上がり口に二人分のバッグを落とした課長は手早く私のパンプスを脱がすと、一気に横抱きにする。

「か、課長!何をするんですか!落ち着いてください!」

「好きな女が自分の部屋にいて、落ち着いていられる男がいると思うな!」

 私の甲高い声は、課長の怒声に近い大きな声でかき消される。いきなり高くなった視界と不安定な体勢と課長の大きな声が怖くなって、ギュウッとしがみ付いてしまった。

「そうだ、そうやって大人しくしがみ付いていろ」

 フッと不敵に笑った課長は一度私を揺すって安定する位置で抱え直すと、まったく危なげない足取りでドンドン廊下を進んでゆく。

「お願いですから、降ろしてください!そして、課長は落ち着いてください!」

「俺の話を聞いてなかったのか?落ち着ける状況じゃないんだって、さっき言っただろ」

 リビングを抜けた辺りで課長が立ち止まり、彼の腕の中で身を縮めている私の顔を覗きこんできた。

自分の意思とは関係なく強引に連れ込まれたのに、そんな事を私に言われても困る。それに、そんなに熱っぽい視線を向けられても困る。私はどうしたらいいのか分からない。課長になんと言えばいいのか分からない。

気まずそうに視線を伏せ、

「だって、分からないんです。何もかも初めての事で、頭の中が混乱していて、私、分からないんです……」

 と、ポツリと零した。混乱が極限に達し、涙が溢れてくる。

「分からない……。もう、嫌だ、こんな自分……」

 情けない。もうすぐ三十歳にもなろうというのに、なんて情けないのだ。感情の整理がつかなくて、何が分からないのか、分からない。そんな自分が情けなくて、ますます瞼の裏が熱くなる。

 喉を詰まらせながらグスグスと泣き始めた私を、課長はギュッと抱きしめた。

「分からないなら、流されてみろ」

「……え?」

 ポロポロと涙を流しながら課長を見つめる。すると、額に唇を押し当てられた。柔らかい唇が何度か私の額に触れた後、静かに離れて行く。

「俺はお前のことを傷つけたりしないから、状況に流されろ。何があっても俺はお前を放さないから、安心して流されればいい。俺がお前を受け止めるから」

 課長は真っ直ぐに私を見つめながら、そう言ったのだった。


●楠瀬課長もなかなか強引ですねぇ。


タイプとしては野口氏に似ていますが、暗黒大魔王と違ってストレートに表現するタイプです。ジワジワ追い詰めるのではなく、一気に襲い掛かる感じでしょうか。

…それはそれで、雅美ちゃんは大パニックになるんですけどね(苦笑)


作品が増えるにつれて、爽やか好青年の比率がダダ下がりです。

女帝のタカ以外、KOBAYASHIには爽やか君がいないのかも(汗)



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ