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(12)交際宣言と私

 しばらくの間は大人しく課長に抱きしめられていたが、今はまだ勤務中であることを思い出す。

「課長!いい加減に営業部に戻らないと!」


―――私は何を暢気に抱き締められているんだか!しかも泣いちゃってるし!

 

 自分が置かれている状況を改めて認識した途端、顔が赤くなったり青ざめたりと忙しい。そんな中、私は自分と課長の間に挟まって不自由な手を何とか動かし、慌てて涙を指先で拭った。そして課長の腕から抜け出そうと、今更ながら身を捩った。

 だが、課長は緩やかな微笑を浮かべたまま、腕の拘束を解こうとはしてくれない。

「ん~、もうちょっとこのまま。やっと石野を手に入れたんだから、その嬉しさを噛みしめていたい」

 やたら幸せそうな口調で告げてくるが、今はそんな場合ではないと思う。

「何を言ってるんですか!離してください!」

 課長と私の間で折り畳まれている腕でグイグイ押し返すが、ちっとも効力を発揮しない。それどころか、慌てふためく私を面白がるように課長が更に腕の力を強めてきた。

「駄目、放さない」

 クスクス笑う課長が顔を寄せ、私の首筋に鼻先を近づけた。

「ひゃっ、何!?」

 普段、人に触れられる事のないその場所は自分が思っている以上に敏感で、つい甲高い声を上げてしまう。そんな私の何が楽しいのか、課長は一層顔を近づけた。

「可愛いなぁ、石野は」


―――可愛い?何が?誰が?……私が!?


 さほど大きくない目が驚きのあまり真ん丸になり、課長から離れようと力を入れていた体が硬直。すると課長は顔を上げ、瞼に唇を押し当てた。ご丁寧に『チュッ』というリップ音付で。

「なっ!?」 

「恥かしがる石野も可愛いが、泣き顔まで可愛いなんて反則だ。今すぐ押し倒したい」


―――何を言っているのだ、この上司は。

 

 更に大きくなる私の目。今なら上条さんのパッチリお目々に勝てるかもしれない。いやいや、そんなことを考えている場合ではなかった。

 目尻にたまった私の涙が乾くまで瞼にキスを繰り返した課長は、再び首筋に顔を埋めてきた。彼の髪が私の耳に当たり、それもまた相当にくすぐったい。

「は、放してください!」

「石野、いい匂いがする」

 私の言葉には一向に取り合ってくれる気もなく、課長がスンと匂いを吸い込む。

「課長、やめてください!」

 自分の匂いをかがれることが、こんなにも羞恥を掻き立てるものだったとは知らなかった。風邪で高熱を出したとき以上に顔を赤らめ、私は必死で身を捩る。

 しかし、やはり課長の腕は緩まない。くすぐったさと恥ずかしさで暴れる私を余裕で抱きしめ、悪びれた様子もなく更に顔を埋めてくる。

「何の匂いだろ?香水?」

「た、多分、シャンプーです」

「ふぅん、そうか。本当にいい匂いだな」

 身を捩りながらどうにか答えると、私の抵抗などものともせずに、課長は強く私を抱き寄せた。

 あまりの密着具合に、互いの心臓の音が伝わってくる。自分のものよりは幾分遅く、そして響くほどに力強い鼓動に男らしさを感じて、私は自分がか弱い女性になってしまったように思える。

 自分の性が“女”であることは百も承知で生きてきたけれど、こうやって思い知らされることのなどなかったから。女ではあるけれど、それは“男性の興味を惹くことのない、つまらない女”というのが自分の中にある認識だった。

 それがこうして、“異性としての女”という認識に変わるだなんて。とはいえ、私自身はやっぱり、地味でつまらない女だから。

「……地味な私には似合わない、上品な香りですよね」

 ポツリと呟けば、課長がバッと顔を上げた。

「石野は地味なんかじゃない!」

 すぐ目の前にあるどこか怒ったようなきつい眼差しに驚き、私の腰は一瞬引けた。その腰をグッと抱き寄せ、鼻先がくっつくほどに課長が顔を近づける。

 真正面から見下ろされる瞳に縫い付けられたように、私は動けなくなった。

 大人しくなった私に、課長はフッと表情を和らげ、言い聞かせるように穏やかな口調で話し出す。

「お前の第一印象を派手か地味かで答えるならば、“地味”となってしまう。服装も髪型も化粧も、その色使いから見ればそうとしか言えないんだが、石野には品があるんだよ。ただ単に野暮ったい地味な人間ではないから、ちっとも陰鬱には見えない」

 課長の言葉に耳を疑った。 

「品がある?私に?お茶汲みしかまともにできない、この私に?華やかさの欠片もない、この私にですか?」

 どれだけ課長の目にはフィルターがかかっているのだろうか。思わず眉間に皺を寄せて怪訝な顔をした私に、課長は苦笑交じりにため息を零す。

「お茶くみしか出来ないなんて言うな。俺は、あえて石野にお茶を頼んでいたんだぞ」

「あえて、ですか?」

 きょとんとすれば、課長はクスクスと笑い出す。

「当たり前だ。大事な取引先がわざわざ来社してきて、そんなときに変な飲み物でも出してみろ。“バカにしているのか!?”と怒鳴られて、ヘタしたら、それだけで交渉決裂だ。石野だったら、間違いなくお客の期待に応えられるからな。お茶は上手いし、礼儀もきちんと弁えている。人前に出しても、まったく恥ずかしくない人材だから」

 やたら自信たっぷりに言い切られて、それはそれで恥かしい。

「そ、そんなの、課長の買い被りです!」

「そうかな?俺だけじゃなく、部長だって二課の課長だってそう思ってるぞ。だから取引先に飲み物を出すときに石野を引っ張り出しても、これまでに一度だって口を挟まれたことはないだろう?」

「確かに、そう言われればそうですが……」

 そんな風に思ってもらえていただなんて、ちっとも知らない。『お前はせいぜい、お茶出しでもして少しは役に立て』とでも思われているのだろうなんて、ちょっと捻くれて考えていた。そうではなかったことが嬉しいが、そう言われると少し引っ掛かることがある。おこがましくも、つい課長に訊いてしまった。

「人前に出しても恥ずかしくないのなら、どうしてプレゼンや接待の場に連れて行ってもらえないのですか?」

 懸命にプレゼン用の資料作りの手伝いをしたのに、いつだって一課の社員はその結果だけを持って出先に向かう。資料の内容なら、作った私が一番良く理解しているのに。それが秘かに悔しかった。今まで顔には出さなかったけれど。

 ちょっとだけ拗ねたように言い返せば、これまでの苦笑を引っ込めてギロリと睨みつけられた。 

「なんで俺以外の男の世話を焼かせる為に、お前を連れ出す許可を与えなくちゃならないんだよ!何度か石野をプレゼンに連れて行きたいっていう申し出が二課の課長にあったようだが、全部俺が取り下げた。万が一、一緒に行った一課の社員や取引相手がお前に手を出してきたらどうすんだ!?」

 あまりにもありえないことで怒鳴られて、なんだか腹が立った。

「何を言ってるんですか?冗談にも程があります!上条さんみたいに可愛い子なら分かりますが、こんな私に手を出すなんてっ」

 と言ったところで、課長の指が私の項にスルリと触れてくる。

「きゃっ!」

 ゾワゾワとした何とも言えない感覚が背筋を駆けてゆき、くすぐったさとは違う感覚に私は首をすくめた。課長のスーツの前身ごろにしがみ付き、「やめて……」と小さな声で何度もお願いする。

 課長はひとしきり私の首元で指を遊ばせると、やれやれといった風情で大きくため息をつく。

「ほら、こういうところだ」

「こういうところ……?」

 課長の言葉が意図するところが分からず、不安に満ちた目で見上げた。

 すると課長はまたため息。

「わずかに怯えた瞳で、“やめて”なんて言われたら、男は逆に煽られるんだよ。取り乱すことのない冷静な女を自分の手で乱れさせてやりたいって、本能でそう思ってしまう生き物なんだよ、男ってのは!手を出されるハズがないなんて、安易に安心するな。覚えておけ、いいな!!」

 こんなにも至近距離で強く言い渡されれば、了承せざるを得ない。  

 コクコクと何度も何度も首を縦に振れば、課長は「よし」と言って、満足げに頷いた。 

 



 その後、ようやく課長から解放され、部に戻った私は席に座ったとたんにデスクに突っ伏した。

 

―――もう、頭の中がグチャグチャ……。


 課長の告白は嘘ではないと分かるし、自分が夢を見ていたのではないことも分かっている。しかし、それがすんなり理解できるかといえば、それは別の次元だ。

 今日の今日まで地味な人生しか送ってこなかった私には、先ほどの出来事があまりに強烈過ぎて、思考回路がパンクしている。


―――ああ、でも、こんなことをしている場合じゃない。やりかけの仕事があるんだ。早く終わらせなくちゃ。


 そうは思うものの、なかなか頭が切り替わらない。いっそのこと早退して、明日一気に仕上げてしまったほうが効率もいいだろうし、ミスもないだろう。

 そう考えた私は伏せた姿勢のまま、まずは大きく息を吸い込んだ。

 その時、誰かが私の頭を撫でる。

「えっ?」

 慌てて頭を上げると、そこにはすぐ横に立ち、笑顔で私の頭を触っている課長の姿が。そして、視界の隅には呆気に取られて課長を見上げている上条さんの引きつった顔が。

「……楠瀬課長、石野さんに何をしているんですか?」

 上条さんが思いっきり怪訝な声を出す。それは馴れ馴れしく女性社員の頭を触っている課長に対する不信感の結果ではなく、女性社員に人気のある課長が地味でつまらない事務員に触れていることに対する驚きゆえだろう。

「彼女がこんな風になっているのは、きっと私のせいだから」

 いつものように優しく目元を細めて課長が答えれば、上条さんはますます怪訝になる。

「課長のせいですか?」

 鈴の音のような可愛らしい声が、少し低くなって問いかける。

 それに対して、課長は明るい声でこう言った。

「そうだよ。私が彼女に告白したから、混乱しているんだろうね」

「ええっ!?」

「はぁっ!?」

「なに!?」

 課長の言葉に、営業部内が大きくざわついた。上条さんの顔は完全に引きつっている。

「か、か、課長が……、石野さんに……告、白……?」

 アイラインでくっきりぱっちりの瞳が大きく見開かれ、それからマスカラが重ね付けされた睫毛が忙しなく動いて瞬きを繰り返した。

「まぁ、成り行きだったんだけどね。でも、気持ちに嘘はないから」

 ニッコリ笑う課長に、部内のざわめきは更に大きくなる。

 それもそうだろう。私が課長に告白するならともかく、課長が私に告白するなんて、一体なんの冗談かと思うのも無理はない。私自身だって、まだ信じられないのだ。

 混乱が渦巻く部内をザッと見渡して、課長は口を開く。

「別に私と彼女の付き合いが信じられないなら、それはそれで構わない。だが、私は間違いなく彼女のことを愛しているし、結婚も考えている」

 それを聞いて、営業部内にいる独身女性たちの顔が固まった。そんな彼女たちの顔を一人ひとりゆっくりと眺め、再び課長が口を開く。

「みんなが信じなくても気にしないが、だからと言って、別れさせようとするならば話は別だ。彼女を傷つける者は、男でも女でも容赦はしない」

 その宣言に、辺りは水を打ったように静まり返る。

 私も当事者なのに、自分抜きで課長がドンドン話を進めてしまうので口を挟めない。口を挟むどころか、堂々とみんなに知らせてしまった課長に驚き、一言も発せなかったのだが。

 言いたいことを言い切った課長はデスクの横にかけてある私の通勤バッグを左手で掴み、そして私の腰に腕を回して立ち上がらせる。

「部長、石野は早退させます。私も、早退します。F社の件でこのところ残業も続いたので、帰ってもいいですよね?」

「あ、ああ、うん、構わんよ」

 他の社員と同様に呆気に取られていた部長が、なんとかそれだけ答える。

「では、失礼いたします」

 バッグを左手に、私を右手に抱えた課長は、全く危なげない足取りで営業部を後にしたのだった。




「か、か、課長!?」

 就業時間までにはまだまだ時間があるので、廊下を行き交う社員は多い。そんな社員達が私たちを見ていた。

 恥ずかしい。恥ずかしすぎる。今まで誰からも注目を浴びることがなかった私は、人生で初めてこんなにもたくさんの視線に晒されて、真剣に身の置き所のなさを感じている。

「楠瀬課長!離してください!」

腰に絡みつく腕を剥がそうと掴んで必死に引っ張るが、悔しいことにびくともしない。

 細身に見えて意外と逞しい課長は歩く速度を落とすことなく、それどころか徐々に速度を上げてドンドン進んでゆく。

 身長差が二十センチ以上あるので、課長の歩みについていくには(ついていきたくないけど)小走りにならざるを得ない。時折足がもつれて躓きそうになるが、そのたびに課長の腕がグッと私の体を支える。

「もっとゆっくり歩いてやりたいけど、一刻も早くお前と二人きりになりたいんだ。もう少しの間、我慢してくれ」

 そう言って、課長が私のこめかみにキスをした。

 その様子に誰もが愕然としているようだが、中でも楠瀬課長に想いを寄せていた独身の女性社員達の目が驚愕に見開かれていた。まるで白昼堂々現れた幽霊でも見たかのように、言葉をなくして立ち尽くしているのだ。

 そんな彼女たちの驚きは、手に取るようにわかる。

 自他共に認める地味女が、どうして社内でも上位の人気を誇る楠瀬課長に腰を抱かれて歩いているのか。

 しかも、しかもだ。どうして楠瀬課長が私に向けて蕩けそうなほどに甘い笑顔を浮かべているのか。

 誰もが驚きと疑問を露にして、私たちを見送る。


―――ええ、ええ。確かに私は自分の気持ちを認めましたよ。課長のことが好きだとも言いましたよ。でも、だからって、忙しなく社員が行き交う廊下を、こうもくっついて歩きたいなんて、これっっっぽちも思っていませんよ!

 

 明日からどんな顔をして出勤すればいいのだろうか。今のこの状態を目にした人が、私をからかったりしてくるのだろうか。

 それならまだいいかもしれない。

 課長を狙っていた女性社員たちが、もしかしたら何らかの嫌がらせをしてくるかもしれない。あんなに真剣に課長に交際を申し込んでいた女性達が、あっさり身を引くとは考えにくい。

 課長はさきほど『私たちの付き合いに口を挟むな』と言っていたけれど、それを聞いたところでそう簡単に引き下がれるものだろうか。

 それに、私みたいな地味な女なら簡単に排除出来るって考えるだろう。課長に分からないように、誰が仕掛けたのか分からないように、私のことを課長から遠ざけようとするかもしれない。


―――どうしよう。自分の恋が実ったのに、あんまり嬉しくない……。


 課長に分からないようにそっとため息をつけば、再びこめかみにキスをされた。

「えっ!?」

「何も心配するな。いざとなったら“鬼”と呼ばれる俺の本領を発揮して、お前を守り通してやるから」

 優しさと頼もしさを瞳に宿し、課長が微笑む。

「だから、お前は俺の傍にいればいい」

 課長は誰に憚ることなく、強く言い切った。


●KOBAYASHIの男性社員は、好きな女性を強引に連れ出すことがデフォルトのようです(笑)



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