(11)全面降伏と私
それからなぜか私も同席したまま、ノベルティの見本を並べてのやり取りを行った。
部長の向かいにあるソファに楠瀬課長が腰を下ろし、そしてその左側に私が座っている。
扉に近いほうではない席であるため、退出しようにも出来なかった。それよりも、私がちょっとでも腰を浮かせる素振りを見せれば、課長がすぐさま左腕を伸ばしてきて私の手を掴むのだった。
利き手でもないのに、この反応の速さは何故だろうと考えていたら、
「俺は両利きなんだよ」
と、ニッコリ微笑まれた。
大事な取引先の部長の前で、手を握ってくるなんていいのだろうか。
下げていた視線をソッと上げて部長を見遣れば、怒っているとか呆れている様子は感じられない。ある種の“微笑ましいものを見る”ような、そんな感じの視線をこちらに向けていた。
でも、それはそれで困る。部長が不快に思っていてくれたら、私がここを離れる理由になるのに。
―――困ったなぁ。何で、こんな事になってるんだろう。
私は心の中で静かにため息をついた。
見本品を交えての話を終え、本日はこれにてお開きだ。
阿川部長を見送るために立ち上がる。流石に課長も今は手を離してくれている。
三人で廊下の外に立ち、阿川部長と私たちが向き合った。
「とても有意義な契約になったよ。楠瀬君、今後もよろしく頼む」
「こちらこそ、どうぞよろしくお願いいたします」
課長と一緒に頭を下げると、「石野君」と呼ばれた。
「残念ながら息子の嫁にはなってもらえなかったが、これからも君のお茶を楽しみにしているよ。もしよかったら、たまにはうちのカミさんの相手でもしてくれないか?紅茶でも飲みながら、家でのんびりおしゃべりしてくれるだけでいい」
『私でよろしければ、よろこんで』
そう答える前に、
「申し訳ありませんが、石野を部長宅に行かせることは出来ませんよ。そのまま、なし崩し的に息子さんと結婚することなどさせませんから」
と、課長がニッコリと笑顔で口を挟む。そんな課長を、同じように笑顔で見遣ってくる部長。
「流石は楠瀬君だ、私の思惑に気が付くとは」
その言葉を受けて、更に笑みを深める課長。
「石野を気に入ってくださることは上司の私としても大変嬉しいですが、彼女と結婚するのはこの私です」
臆面もなく告げる課長の言葉に、驚いて目を瞠る私。
「け、結婚!?」
戸惑いの表情を隠せない私に、課長がフッと笑う。
「お互いそういう年齢だろう。それとも何か?石野は、俺がそういう覚悟もなしに見合い話をぶち壊すとでも思ったのか?」
「あの、その……」
課長の覚悟とかも分からないが、そもそも、どうしてこういう展開になったのか、いまだに理解できていないのだ。
どうにも答えが見つからず口ごもっていると、部長が大きな声で笑いだした。
「はっはっは。この私と張り合うほどの胆力の持ち主で、鬼と呼ばれる楠瀬君にここまで言わせるんだから、石野君は本当に魅力的な女性なんだなぁ」
「いえ、ですからけして魅力的などとは。私など、いなくてもいい人間ですから」
そう言った時、阿川部長の目が優しそうに見えて険しくなった。
「君が自分に自信がないのはそういう性格だし、仕方がないのかもしれない。だがな、自分で自分を貶すのはよくないぞ。君はこの楠瀬君に見初められたのだから、もっと自分に誇りを持っていいはずだ。打ち合わせに来るたびにウチの会社の女子社員たちに散々言い寄られても、一切靡かなかった楠瀬君が選んだのだからね」
再び大きな声で笑いながら、部長は「見送りはここでけっこうだ」と言って、一人でロビーへと向かっていった。
部長の姿が見えなくなると、課長が横に立つ私をチラリと見た。
「それじゃ、石野。話をしようか」
「え?」
戸惑う私の手を引いて、課長は再びミーティングルームへと入ってゆく。そして扉を閉めると、すぐ脇の壁に手を着いて私を閉じ込めるように立つ。
正面から課長に真っ直ぐ見つめられ、左右は課長の逞しい腕が塞ぎ、私は逃げ出すことが出来ず、ただ俯くしかない。
「課長、あの……。営業部に戻らなくては……」
「悪いが、石野を放すわけにはいかない。今のタイミングを逃したら、石野は俺から逃げるだろ?」
また“俺”と言っている。そして、いつもの紳士的なオーラは影を潜め、“男”を思わせる。
本当に、何がなんだか分からない。頭の中がグルグルと何重にも渦を巻き、考えようにも考えられない。
黙って下を向いていれば、壁についていた課長の右手がゆっくりとそこから離れ、私の左頬を包んだ。
ビクッと肩を跳ねさせると、課長はゆっくりと私の顔を上向きにさせてゆく。そして、少しずつ目線が上がった先には、射抜くようにこちらを見ている課長と目が合った。
「か、課長……」
ひくつく喉を動かして呼びかければ、課長の親指が静かに私の頬を撫でる。丸みを辿るように、右から左へ、そして左から右へと。
何度か往復した後に、課長の親指が私の唇に触れた。
再び私の肩が跳ねる。
ほんの少しざらついた指の腹が、私の下唇を撫でた。
「逃がさないから」
掠れるほど小さな声なのに、私の耳にしっかり届く。
「臆病者の石野が怖がらないように、少しずつ少しずつ距離を詰めていこうとしていたんだ。なのに、慎重に行動していたら部長の息子と見合いだと?だったらもう、遠慮している場合じゃないからな」
とても優しいのに、どこか切羽詰った苦しさが感じられる声だった。
「石野」
そんな声で名前を呼ばれ、異常に緊張する私。
「は、はい」
コクリと小さく息を呑み、正面の課長を見つめる。困惑をありありと顔に貼り付けている私に、課長が優しく目を細め、だけど限りなく真剣な瞳でこう告げた。
「好きだ。俺と付き合ってほしい。そして、結婚してほしい」
何度聞いても信じられないセリフ。
「そんな、私、無理です……」
小刻みに震えながら、私はそう返すのが精一杯だった。
課長と付き合うなんて無理。恋愛なんて無理。結婚なんて、もっと無理。
私はこれまでずっと、人生という舞台の日陰で生きてきたのだ。役名なんてない通行人程度の価値しかない私が、いきなり主役に抜擢されるなんて無理がありすぎる。そんなお芝居、大失敗になるに決まっている。
舞台の中央でライトを燦然と浴びて輝く主役であるはずの課長が、何だって通行人に恋をするのだ?観客の興味を煽る為の無茶な演出としか思えない。
だけど、課長は部下をからかって楽しむような無粋な人ではない。そのことは、これまでの彼の仕事ぶりを見ればよく分かる。だから課長の告白は、信じられないけれど本気だということだ。
それは分かるが、私はどう答えたらいいのか……。
これまで壁に手の平を当てて伸ばした状態だった課長の腕が曲がり、ゆっくりと肘を付ける。その分、距離が一気に詰められた。額が触れ合いそうなほどの至近距離で、課長が私の顔を覗き込む。
「俺が嫌いか?」
相も変わらず真剣すぎるほどに真剣な声音。だけど、さっきよりも少しだけ切ない色が加わっているのが感じられた。トクン、と心臓が音を立てた。
私は短く息を吸い込んで、静かに首を横に振る。
「……分かりません」
だって、そんな目で課長を見たことなんてなかったから。楠瀬課長は上司で、私はただの事務という部下で、それだけの関係で。
違う。
違う。そうじゃない。
自分には手の届かない人だと思ったから、無意識のうちに課長を男性として見ることをやめたのだ。
私の想いが報われるはずなんてないと思ったから、いつの間にか心に蓋をしていたのだ。
本当は……、課長のことが好きだったのに。
いつの間にか私の目に涙が浮かんでいた。感情が混乱して、その結果、視界が潤む。
ジワジワとせりあがってくる涙を、部長の親指が拭う。雫が零れそうになるたびに、課長の指は優しく何度も涙を拭う。
「もう一度訊く。俺が嫌いなのか?」
卑屈な私の気持ちを打ち砕いてしまうほど真剣な瞳に、もう降参するしかなかった。
「嫌いじゃ……、ないです」
しかし必死の告白を、課長はよしとしない。
「俺が聞きたいのは、その言葉じゃない。石野、俺が嫌いか?」
私だけを見つめてくるその視線に、全面降伏だ。
「…………好きです」
私の言葉を聞いて、課長が壁から手を離して強く抱きしめる。
「もう絶対に逃がさない。離してやらない。お前は俺の腕の中にいればいい、この先ずっと」
課長の言葉にハラハラと涙が溢れ、私は声もなく何度も何度も頷いた。