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(10)課長の告白と私

 それから三週間ほどが経ち、阿川部長と顔を合わせる機会が訪れた。

 先日の交わした契約の通りにF社オリジナルノベルティが無事に完成したので、見本品を届けるという連絡を入れたのだが、部長自らこちらに出向くという。

 楠瀬課長は何度となく電話口で、

「後ほど、私どもがそちらにお持ちいたしますから」 

 と言っていたが、どうにも部長に押し切られたようだ。

 苦笑いを浮かべながら電話を切る課長の様子を、私は自分のデスクでパソコンを打ちながら窺っていた。


―――阿川部長は、なんでわざわざこちらに来るのかしら。


 と、思っていたら、目が合った課長に小さく手招きされた。すぐさま作業を止めて、課長のところに向かう。

「阿川部長が、石野のお茶を飲みたいがためにウチに来るらしい」

「え?」

 本当に阿川部長がそんなことを言ったのだろうか。本当に、ただお茶が飲みたいためだけに取引先の部長が出向いて来るなんて、普通は考えられない。

 だが、楠瀬課長が嘘を言うようにも思えなかった。

「作業中のところ悪いが、あと三十分ほどしたらミーティングルームDに行ってほしい」

「分かりました」

 会釈をして課長の前を辞すると、私は急いで作業を再開した。


―――嬉しいけど、なんか申し訳ないというか……。


 気さくな阿川部長らしいといえばそうなのだが、光栄過ぎて逆に恐縮してしまう。

 とりあえず一段楽したところで切り上げ、ノベルティに関する資料を纏めている課長に声をかけた。

「先に行っておりますので」

「悪いな。電話を入れなければならない得意先があるから、それが済んだら私も向かう」

「はい、では失礼します」

 私は足早に営業部を後にした。




 受付の者に案内されて、既に部長はミーティングルームにいた。

 手早くお茶の準備を済ませ、軽くノックする。中から返事があったので、静かに扉を開ける。

「お待たせいたしまして、申し訳ございません。楠瀬は間もなく参りますので、先にお茶をお持ちいたしました」

 お茶を載せたお盆に注意を払いながら頭を下げると、

「うん、うん、待ってたよ。石野君も、そのお茶も」

 と、本当に嬉しそうな声が届く。

「では、さっそく頂こうかな」

「どうぞ、お召し上がりください」

 横に立って、茶たくに載った湯飲みを静かに差し出した。

 部長は湯気の立つお茶を覗き込んで、軽く息を吸う。それからゆっくりと湯飲みを持ち上げ、コクリと一口含んだ。

「ああ、美味しいねぇ。香りも味も申し分ない。石野君のお茶を飲んでしまうと、他では飲めないよ」

 手放しの褒め言葉に嬉しさよりも恥ずかしさが勝り、いつもと同じく上手い言葉が出てこない。 頭を下げて「恐縮です」と告げるのが精一杯だ。

 私のことを面と向かって褒めてくれるのはこの部長くらいなので、こういう時にどう言葉を返せば適切なのか、経験の浅い私はいまだに分からなかった。

 それでも、毎回繰り返される私の一言に部長は不機嫌になることもない。本当に寛大な人だ。


 湯飲みを半分ほど空けたところで、部長が満足げに息を吐いた。

「いつも美味しいお茶をありがとう」

「いえ、そんな。お礼を言っていただくほどのことでは」

 部長は手の中の湯呑みを覗き込み、穏やかな口調で、まるで私に言い聞かせるように話し出す。

「いやいや、君はたかがお茶一杯と思っているかもしれないが、客に出す飲み物はそれなりに重要なんだ」

「それは分かりますが。お客様に美味しいと思って頂けるものをお出しするのは、当然のことだと」

 何気ない調子でそう言ったら、阿川部長は声を上げて笑った。

「ははっ、それは石野君だから言えることなんだよ」

「そうでしょうか?」

 軽く首を傾げる私に、部長はわずかに声を潜めて話し始める。

「実はな。先日、初めて顔を出した取引先でとんでもなく渋いお茶を飲まされてね。お茶を淹れてくれた人は高級な茶葉をたくさん使えば、美味しいお茶になると思ったらしい。気持ちはありがたいが、飲むほうとしては適量を守って欲しかったよ」

 文字通り苦く笑う部長に、私も苦笑を返すしかなかった。

 コーヒーも紅茶も緑茶も、分量が足りなければ味も物足りないものになる。かといって、たくさん使えばいいというものでもない。基本的なことだと思うのだが、そういうことに気がつかない人がいるようだ。

 部長は目の前の湯飲みにもう一度口を付けると、フワリと穏やかに目を細める。

「味もそうだが、やたら熱いお茶とか、少しぬるくなってしまったお茶を口にすることもあってね、温度のことまで気を配れる人間はそういない。その点石野君は、味も温度も申し分ない。だからこうして無理を言ってでも飲みたかったわけだ」

 ニコッと笑って、部長は再び湯飲みに口を付ける。

「私ごときにそこまでおっしゃって頂けて、本当に光栄です」

 何気なく言葉を口にすれば、部長が少しだけ目元をきつくした。

「石野君、“私ごとき”なんて言うもんじゃない。このお茶にしろ、細かな心配りにしろ、ホントに石野君は素晴らしい女性だよ」

「ですが、私のような者が素晴らしいはずなど」

 目を伏せて、静かに首を横に振った。

 私が阿川部長の言うように本当に素晴らしい女性であったら、もっと華やかな人生を送っていただろう。職場でも明るく楽しく過ごして、そして彼氏がいて……。

 現実は、それとはかけ離れたものなのに。

 ソファに座っている部長が、視線を落とす私の顔を覗きこむようにしてゆっくりと話し始めた。

「人には巡り会わせというものがあってね。自分を必要としてくれる人、自分に必要な人と出会うのは、いつになるのか分からない。君はまだ、そういう人に巡り会っていないんだよ。いや、巡り会っているのかもしれないが、決定的な関係に至っていないだけかもしれない。その人に出会えば、石野君も自分に自信が持てるようになるんだろうねぇ」

「“自分に自信”ですか……」

 私にしてみれば、とてつもない無理難題に感じる。取り柄のない地味な女が自信を持つにはどうしたらいいのか、皆目見当が付かない。

 ポツリと呟いたまま黙ってしまった私に、部長は優しく話を続ける。

「自分に自信を持つというのは、簡単なようで難しい。具体的な方法がある訳でもないし、人によって、その方法は色々あるだろうし。ただね、今、その方法が分からないにしても、君は自分のことをもう少しだけでも評価してあげるべきだと思うよ」

 優しい口調で話されるが、私はそっと首を振った。

「ですから私は、評価に足る人間では……」

 つい部長の言葉に言い返してしまえば、

「おやおや。石野君は私の言葉を信用しないのかね?そうか、私はまだ君の信頼を得るには至らないんだなぁ」

 阿川部長は意気消沈した声でそう呟くと、ションボリと肩を落とす。

 その様子に、大事な取引先に失礼な対応をしてしまったのだと思った私は、慌てて深々と頭を下げた。

「いえ、あの、そういうことではっ」

「ははは、冗談だよ。だから、顔を上げなさい」

 ビクビクしながら姿勢を戻せば、部長はニコニコと笑っていて、先ほどの落ち込んだ様子は微塵もなかった。なかなか茶目っ気のある人物のようだ。

 心の中でホッと息を吐くと、部長が私を見上げた。

「君を必要とする人間が傍にいれば、自然に自信も付くだろう。……だからウチの息子と会ってやってくれ」

「え?」

 私の自信と部長の息子さんと会うことに、何の関係があるのか理解できなかった私は、きょとんと部長を見つめる。

「滋にとって、そして石野君にとって、お互いが必要な相手だったら私はとても嬉しいんだがね。今週の土曜日、予定は空いてるかな?」

 部長の楽しげでいて、だけどかなり本気の視線に、私は小さく息を呑んだ。

 この前は『とにかく会うだけ会ってみればいい』という軽い感じだったから、私も会ってみようという気持ちになったのに。今日の部長はとても真剣で、先日とは様子が違う。

「前にも言ったが、私としては君が娘になってくれることを本気で望んでいるんだよ。君の素晴らしさを理解する他の男が現れる前に、ウチの息子の嫁になって欲しいんだ。もちろん、無理にとは言わないが」

 この期に及んで、私の中では少しの迷いがある。

 自分が結婚するなんて、考えた事がなかった。

 結婚に憧れは抱いていたけれど、相手がいなければ結婚は出来ないのだ。私一人の努力でどうなるものでもない。

『いつの日か、王子様が現れて……』などと、夢を見る年でもない。 

 それなのに、届かないと思っていた結婚が近付いてきた。しかも、相手の両親公認で。

 しかし、自分には起こりえなかったことが現実になりそうだということに、ちょっとした怖さがあった。


 それでも、少しずつ気持ちが前に向いてゆく。

 

―――やっぱり、お見合いしてみようかな。もしかしたら、私の居場所が出来るかもしれない。


 心を決めると、自然に落ち着いてゆく。

「滋さんとお会いします」

 そう告げた私の言葉に、部長が椅子から飛び上がった。

「本当かい、石野君!?」

「はい。土曜日、楽しみにしております」

 微笑みを浮かべた私に、部長は踊りださんばかりに大喜び。

「やったぁ!石野君、ありがとう!見合いの席で、息子が大失敗をしないことを祈るよ!」

 よほど嬉しかったのか、部長の声はかなり大きい。

 この部屋は防音にはなっていないので、廊下を通る人に聞かれていなければいいが。

 

 と思った時、勢いよくミーティングルームの扉が開いた。


 部長と私がビクッと跳ね上がって同時に扉を見遣れば、憤怒の表情を浮かべている楠瀬課長がいる。

 流石の阿川部長も課長の迫力に飲まれ、ゴクリと息を呑んだ。

「く、楠瀬君。一体どうしたと言うんだね?」

 課長は部長に答える事無く無言でツカツカとこちらに歩み寄ってくると、左腕でガバッと私を抱き寄せた。

「え!?」


 何が起きたの?

 なんで課長は怒ってるの?

 どうして課長は私を抱きしめるの?


 突然の出来事に、頭の中が真っ白になる私。部長も同様に、ポカンとしている。

 私と部長が呆気にとられて課長を見れば、先ほどの部長の声を上回る勢いで課長が言った。

「いくら部長の頼みと言えど、彼女は譲れません!その見合い話、取り下げてください!」

 身長の高い課長が上からギリギリと睨みつけるその形相は、まさに鬼のようだ。

 それにしても、課長がここまで怒っている理由が分からない。

「いや、あの、楠瀬君!?」

 器が大きく、たいていのことには動じない阿川部長が、泡を吹く感じで戸惑っている。

 そんな部長を見ても、課長は表情を緩めることもなく、私を抱きしめる腕の力を緩めることもない。それどころか、一層強く抱き寄せられた。

「部長の息子さんに石野は会わせません!ええ、何があっても」

 まるで主導権を握る会議のように、課長がきっぱりとした口調で言いのけた。

 課長は何を言っているのだろうか。何をしているのだろうか。

 状況を把握したいのに、私の頭がちっとも働かない。

「一体どうしたと言うんだい?どうして君が、息子と石野君の見合いに反対なんだ?」

 少しだけ落ち着きを取り戻した阿川部長は、課長に問いかける。

 すると楠瀬課長は口調を和らげ、整った顔で微笑んだ。

「それは、私が石野を好きだからです」

「ええっ!?」

 それを聞いて、思いっきり叫ぶ私。

「か、課長、何を仰っているんですか!?」

 突然の告白に、私も泡を吹いて倒れそうだ。だが、必死で正気を繋ぎとめ、課長に問いかける。

 すると課長は私を見て、

「悪い、後でゆっくり話すから。今は、阿川部長とケリと付けるのが先だ」

 と言ってから、私の額にソッと唇を当ててきた。

「……は?」


―――何、何、何、今の!?


 自分では理解できない状況が巻き起こり、考えることを放棄した私の体から力が抜け、ガクリと膝が崩れそうになる。

 そんな私を課長は左腕一本だけで軽々と抱え、話を続ける。

「いつ想いを告げようかとタイミングを計っていたところに、横から掻っ攫われるような真似をされたら、怒るのも当然ではないですか!」 

「いや、でも、私は君の気持ちを全く知らなくて。い、石野君、君は楠瀬君の気持ちを知っていたのかね!?」

 部長が尋ねてくるが、私が何らかの反応を示す前に課長が口を開いた。

「知らないですよ。私のアプローチにもまったく気付かないんですから、まだ言葉にしていない私の想いなど、彼女が知る由もない」

 ここまで勢いよく話を続けていた課長が、フッと肩の力を抜いた。

 そして右手で私の顎先を捉え、クイッと上を向かせる。

「だが、聞いたよな?」

「え?」

「聞いたよな、俺の気持ちを」

「か、課長、自分の事“俺”って。いつもは“私”なのに……」

 気が動転している私は、どうでもいいことに神経が向いてしまったようだ。

 思わずそんなことを訊いてしまった私に課長が軽く睨んだ後、フワッと笑った。

「まぁ、そういうちょっと抜けているところも可愛いんだけどな。だが今、重要なのはそんなことじゃない」

 課長が改めて私を見据える。

「俺は石野が好きだ」

 簡潔に告げられた言葉は、飽和状態の脳にも理解できた。

「う、嘘です、そんなの!?」

「本人が言っているのに、嘘なんてことあるか?」

「だって、だって……」 

 精神的に限界が来て、私の目には自然と涙が浮かんでしまう。

 その時、『うぉっほん』というわざとらしい咳が聞こえてきた。

「君たち、私のことを忘れてはいないかね?」

 そうだ!阿川部長がいたんだ!

「大変失礼いたしました!」

 私が向き直って頭を下げようとするが、課長の腕がしっかりと体に絡みついていて身動きが取れない。

「か、課長、離してください!」

「嫌だ。石野が俺の気持ちに答えてくれるまで、絶対に離さない」

「な、なんでですか!?」

「だから、君たちは私のことを忘れていないかね?」

 再び部長が口を挟んできた。

「も、申し訳ありません」

 課長に腰を取られたまま不恰好に頭を出来る限り深く下げれば、阿川部長は苦笑を漏らす。

「いや。もう、いいよ石野君」

「何がいいのでしょうか?」

「滋とは会わなくていい。君を必要としているのは、どうやら楠瀬君のようだ」

 やれやれと呟いた阿川部長は、湯呑みに残っていたお茶を一息に飲み干したのだった。








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