(9)不思議な言い合いと私
いよいよ、F社との契約を締結する運びとなった。
F社のロゴが入ったノベルティを定期的に納めることとなれば、KOBAYASHIの収益も、世間に与えるイメージも上がるに違いない。いや、確実に上がる。ここ数年の中で、かなり大きな契約だった。
阿川部長という優しそうに見えて実はかなり手ごわい人物を相手に、なかなかの好条件で契約を結ぶ事が出来たのは、さすが楠瀬課長といったところだ。
私は部長にお茶を出すくらいしかしていなくて業務自体には関わっていなかったけれど、営業部の一員として本当に嬉しく思う。
朝一番でF社に出向いた営業部部長と楠瀬課長が戻ってくれば、彼らは盛大な拍手と共に笑顔を浮かべる営業部の社員たちに迎えられた。
私も手の平が痛くなるくらいに、思いっきり拍手をする。
―――よかったぁ。本当によかった。
契約締結後には、阿川部長が社に訪れることもないだろう。そうなると、これまでのようにお話し出来なくなるのは少々淋しい。けれど無事に契約が済んだことは、心の底から嬉しいことだった。
頻繁に顔を合わせることはなくても阿川部長が営業部でお仕事されている間は、また何かの機会で打ち合わせに来てくれるかもしれない。
その時には、また私のお茶で出迎えてあげたいものだ。
今日の営業部は終始明るいムードに包まれ、みんなは晴れやかな笑顔で終業を迎えた。
私も普段になくウキウキとした気分で、社員通用口に向かう。ちょっとだけ残業したので、みんなより遅れて一人で通用口を出ると、私を呼ぶ声がした。
「え?」
キョロキョロと辺りを見回してみるが、近くには誰もいない。空耳にしては、あまりにはっきりしていたように思うのだが。
「おかしいわね」
はて、と首を傾げていると、再び自分の名前を呼ぶ声が。今度は先ほどよりも大きな声だったので、何処から聞こえて、それが誰のものなのか分かった。
「阿川部長!」
ハッとして顔を左に向けると、歩道に繋がる小路の角から小さく手を振っている部長の姿が目に入る。慌てて駆け寄れば、間違いなくその人は阿川部長だ。取引先の重役が、なぜ、こんな時間に、こんな所にいるのだ?
「どうされたんですか!?」
「いや、まぁ、今日はKOBAYASHIでの打ち合わせがないから、アポを取ってないんだよ。それなのに私が正面玄関から入ってきたら、みんな驚くかと思ってね」
―――ここにF社の営業部長が立っているほうが、よほど驚きます!
と、いう心の叫びはどうにか飲み込んだ。
「あの、それでどうされたんですか?何かご用でしょうか?楠瀬がまだ営業部におりますので、すぐにお呼びいたしますよ」
踵を返そうとした私に、部長が苦笑を浮かべる。
「違う違う。用があるのは石野君だよ」
「私ですか?」
また、道に迷ったのだろうか。一瞬怪訝な顔になった私に、阿川部長は更に苦笑い。
「大丈夫、今日は迷ってないから」
だったら、何の為に私を待っていたのだろう。首を捻る私に、部長が口を開く。
「そろそろ、滋との話を進めてもらおうかと思ってね。どうかな?」
「あ……」
そうだった。返事をすると言っておきながら、今日の今日まで何も言わなかった。
忘れていたわけではないけれど、部長が『やっぱり、あの話はなかったことにしてくれ』と言い出すんじゃないかと思って、あえて私から話は向けなかっただけなのだ。
「あ、あの、私はいいにしても、滋さんは今もお忙しいのではないですか?」
私なんかとの食事に時間を使うのであれば、しっかり体を休めることに使えばいいのだ。会社勤めは肉体労働の現場と違うとはいえ、やはり健康が第一である。
だが、それは私の杞憂だったらしい。
「それが、あと一週間もすれば一段落するようだ。これまで休日出勤していた分も休みが取れそうだと言っていたから、時間的にもだいぶ余裕取れるはずだよ」
すっかり父親の顔で話す阿川部長。よほど息子さんのことが気がかりだったに違いない。
「そうですか。少しは体を休める事が出来そうで、部長も安心ですね」
そう返せば、部長はフッと表情を緩める。
「後は、アイツの嫁さえ決まれば万々歳なんだがね。滋も石野君と話をしてみたいと言っていたし、君さえよければ食事くらい付き合ってやってほしい。頼むよ」
そう言って、阿川部長は私に頭を下げてきた。
「いえ、そんな、部長が私のような者に頭を下げないでください!それより、息子さんは私と会うつもりなんですか?本当にそう言っているんですか?」
私が尋ねれば、部長は顔を上げてニッコリと笑う。
「もちろんだよ。この前の夕食での石野君との話が、とても楽しかったらしいんだ。だから、また会いたいそうだ」
「そう、ですか……」
部長の言葉が信じられなくて、パチパチと瞬きを繰り返す。面白みのない私との話が楽しいだなんて、そんなこと、あるわけないのだ。
―――きっと社交辞令ね。
わざわざ話を持ってきた親をがっかりさせないように、滋さんが気を遣ってそんな風に言ってくれたのだ。それに私と会う気になったのだって、親の仕事のことを考えて、相手会社の社員の面子を潰さないようにという配慮に違いない。
それ以外には考えられなかった。
そこまでして私に気を遣ってくれるのであれば、会わないわけにはいかないだろう。とりあえず一度会えば体裁も整うだろうし、彼のほうも『二人きりで会ってみたら、やっぱり違っていた。結婚はできない』と、今度こそは断り文句を切り出しやすいだろう。
私は短く息を吸ってから、口を開く。
「では、息子さんの都合がよくなったらご連絡ください。私は週末であれば、いつでも空いておりますので」
この言葉に、阿川部長はますます笑みを深めた。
「近々KOBAYASHIに来ることになりそうだから、その時までには滋に予定を決めさせておくよ。石野君、宜しくな」
「こちらこそ、どうぞ宜しくお願いいたします」
お互いに頭を下げ合い、姿勢を戻したところで自然と笑みが零れる。
そこに、
「阿川部長、どうされたんですか?」
と、やや驚いた感じの声が響く。振り向けば、楠瀬課長が立っていた。
やはりF社の部長がここにいたら、誰もが驚くではないか。普段から冷静な課長も目を丸くしているほどだ。
なのに、阿川部長は悪びれた様子もなく、軽く右手を挙げた。
「やぁ、楠瀬君か。別にどうもしていないさ。石野君とちょっと立ち話をしていただけだよ」
私を見て、部長がニコリと微笑む。
その笑顔を、課長は不思議そうに見遣った。
「……石野と、ですか?」
阿川部長がKOBAYASHIを訪れた時に度々お茶だしをしているので、接点があることは課長もよく知っているはずだ。
だが、営業部部長と事務員が立ち話をするほど仲がいいものだろうかと、いぶかしんでいるのがよく分かる表情。
そんな課長に、阿川部長は楽しそうに話を続ける。
「ああ、彼女は年寄りのくだらない世間話にも、懲りもせずに付き合ってくれるんだよ。いつも申し訳ないと思うんだが、石野君は聞き上手だから、ついつい話し込んでしまう」
チラリと私に目を遣って、『すまないね』と謝る部長に、私は慌てて首を横に振った。
「くだらないなんて、とんでもございません。お話を聞いているだけで、部長の優しさがよく分かります。私も部長とお話させていただく事が、とても楽しみなんです」
私の言葉に、うんうんと部長が大きく頷く。
「やっぱり、石野君はいい子だなぁ。さて、私の話は済んだことだし、そろそろ帰るとするか。楠瀬君、石野君、失礼するよ」
そう言って大通りへ向かおうとする部長に、課長が声をかける。
「タクシーをお呼びしますので、少々お待ちください」
「いや、それには及ばない。この近くのレストランで、カミさんと待ち合わせて食事することになってるんだよ。じゃあ」
にこやかな笑顔で、部長は去っていってしまった。
取り残された私と楠瀬課長は、遠ざかる部長の背中を無言で見送る。
やがて見えなくなった背中に、どちらともなく小さなため息が洩れた。
「あの方は、見かけによらず気さくだな」
フッと苦笑いしながら、課長が言った。
「ええ、そのようですね。事務員の私にも、こうして親しげにお話ししてくださいますし」
「……で、部長と何を話していたんだ?」
尋ねられて、私は以前と同じように口を噤んでしまう。静かに俯いてバッグの持ち手をギュッと握ると、課長が肩を竦めた。
「また、私には話せないことか?」
口調は何気ない様子なのに、何処となく淋しそうな声音だ。
どうして課長がそんな声を出すのだろうか。たかが事務員のことなんて、気にかけるほどのことでもないだろうに。
不思議に思っておずおずと顔を上げると、真っ直ぐに私を見ている課長の視線とぶつかった。
「あ、あの、何か?」
「本当に引き抜きの話ではないんだな?」
少し低い声は、何を疑ってのものなのか。
これまでに向けられたことのない迫力のある様子に、私は思わず一歩下がってしまった。
すると課長の右手が素早く伸びてきて、持ち手を握り締めている私の左手首を掴む。この行動といつにない威圧感に、私はまた一歩下がった。
が、十分な距離を得る前に、課長が握った手をグイッと引き寄せる。
「きゃっ」
短い悲鳴と共に、私は課長のすぐ前に立ち尽くすことになってしまった。射抜くような鋭い視線に、私は蛇に睨まれた蛙のごとく動けない。
「く、楠瀬課長……」
どうにか名前を呼ぶことに成功したが、課長は変わらない視線を私に浴びせ続ける。怖いと思うのに目線を外すことすら出来ず、私は背の高い課長ひたすら見上げ続けた。
しばらく互いが無言のまま、視線だけが重なり合う。
ややあって、課長が口を開いた。
「……石野は、何処に行こうとしているんだ?」
課長の言葉に、私は一瞬、呆気にとられる。
この人は何を言っているのだろうか。私が何処に行くというのだ?
居心地が良いとは思えないが、KOBAYASHI以外の会社に転職するつもりなど全くない。引越しする予定もなければ、旅行に行く予定もない。
この時点で『何処に行くのか?』と訊かれたところで、せいぜい『家に帰る』というつまらない答えしか出てこないのだが。
仮に私が課長の前から姿を消したとしても、何が問題なのだろうか。
「課長の仰る言葉の意味が分かりません。何か気にかかることでも?」
軽く首を捻って聞き返せば、楠瀬課長は一度瞬きをした。そして掠れ気味の力ない声で、ボソリと呟く。
「なんだか、石野が離れていってしまいそうで……」
「はぁ?」
思いがけない言葉に、私は妙な声を上げてしまった。
―――離れていってしまうって、何?
離れるも何も、もともと私と課長の距離は近くないし、離れたところで課長にとって何の支障もないはずだ。
私以外にも事務員はいる。お茶だしだって、何が何でも私一人が請け負わなければならないものでもない。
私と課長には仕事でもプライベートでも、特別な繋がりなど何一つないのに。
―――何を言い出すのかしら、課長は。頭が混乱するほど疲れているとか?確かに契約が締結するまで、何かと大変だったようだけど……。
どうにも会話にならない言葉の応酬に、私は首を捻るばかりだ。
そんなことより、掴まれたこの手首をそろそろ解放してもらえないだろうか。
「あの、楠瀬課長」
名前を呼べは、わずかに微笑を浮かべた課長が私の顔を覗きこむ。
その近さに驚いて背を反って距離を取れば、課長は不機嫌も露に眉間に皺を寄せた。
「石野、私に近寄られるのが嫌なのか?」
「あ、いえ、そういうことでは……」
嫌とかそういう問題ではないのだ。
課長はいつでも身奇麗にしていて、時折なんだかいい香りがする。顔立ちも好ましい部類に入るから、近くで見ても嫌な気分にはならない。
だからといって、近くにいたいとは思わない。近寄られたいとも思わない。至近距離にいる理由が、私には全くないのだから。
しかし、自分の無意識の行動が目上の相手にとって大変失礼であったことに背筋が寒くなり、私はとっさに頭を下げた。
「い、いえ、楠瀬課長がお傍にいる事が嫌なのではなく、こんなにも間近で人と接する事がありませんので、その、驚いてしまったといいますか……」
しどろもどろになりながらも懸命に説明すれば、課長はクスッと笑って
「わかったよ」
と言った。
恐る恐る顔を上げてみれば、課長の眉間の皺が消えている。
だが、手首は握られたまま。
「すみません、そろそろ手首を放してもらえませんか?」
私の言葉に、課長は今まで自分がしていたことにようやく気付いたようだ。
「ああ、すまない。石野が距離を取ろうとしたから、つい……」
苦笑いを浮かべながら、課長がゆっくりと手を離す。
―――“つい”で、女性の手首を掴むものなの?この間から、こんなことが多いわよね?
今日は特に課長の言動がおかしい。
私は解放された手首に安堵しつつも、また首を捻ったのだった。