#004 四月十二日(火曜日)
次の日。
朝起きると、やけに一階のリビングが騒がしい。これはいつものことだ……。母さんはよく寝坊する。大概、明け方までドラマを見ていてそのまま寝てしまったとか、ネットをしながら寝落ちしていたとか、そういうパターンが多いらしい。けれど、もういい加減慣れてしまっていた。しっかり者の妹は、それでも普段通りに用意を済ませ、さっさと学校に行くところが素晴らしい。とても小学五年生とは思えない。それに比べて俺は変なところで母親似なのだろう。良く言えばマイペースだ。
リビングに降りると、父さんが忙しく朝ごはんの支度をしていた。
「おはよう。父さん」
「おはよう。悪いな修一、弁当はそこらにあるもので適当に用意してくれ、なんなら学食でもいいが」
「わかった。母さんは?」
「まだ、寝てるよ」
「ったく、しょうがないな〜」
慌ただしく出勤していく父さんを見送った後、俺も先程自分で用意した弁当を手に家を出た。さつきが歩いてこいと言うので、仕方なく今日も徒歩で通学している。まぁ、ずっと陸上部だった俺にとっては、これくらいの距離はどうってことない。
そんな訳で、歩きながら昨日の話を振り返ってみよう。
要するに、高石生徒会長がアメリカに留学することになったので、生徒会選挙は通例なら秋の文化祭終了後に行われるけど、副会長の生駒先輩も辞任しちゃったから、急遽、解散。再選挙が決定したらしい。任期は今回に限って、今年の残りと来年の分を会わせて一・五期分。立候補者の受付は今週いっぱいまでで、投票日は月末の二十八日に行われると。
まぁ、そういうことだな。で、さつきはそれに立候補したい……と。
考えただけで眩暈がした上に、頭痛までしてきた……。どうして俺がそんなことしななきゃいけないんだ? 別になにも望んじゃいない。ただ平穏に毎日を過ごせればそれでよかったんだ。だというのに、初日からとんでもないことになって……。生徒会役員だって? 正気の沙汰とは思えない! 勝手に巻き込まないでくれ!
だけど、そんな俺の悩みなどまったく意に介せずに、あいつは今日も元気にやってきた。
「おっはよ〜! でね、昨日の話の続きなんだけどさ……」
◆◆◆
四限目の授業も終わり、俺は昨日と同じく特別棟の屋上に向かっていた。母さん達から教わったこの場所を、俺達はすっかり気に入っていた。屋上から見える景色もさることながら、海から吹く風が実に気持ちいい。さつきは用事があるらしく、後から合流することになっていたので、俺は渡り廊下を渡らずに、昨日とは違う道順で行くことにした。
本校舎の中央階段を上っている途中、三年生の教室が並ぶ四階の廊下の角に、一人の女子が立っているのが目に止まった。上履きの色からして同じ一年生だ。その横を通り過ぎようとした時、ある噂話を思い出した。確か四組に、ものすごい美少女がいるとかどうとか、柏原の奴が熱心に話していたな……。
腰あたりまで伸びたストレートの黒髪。少し切れ長の目に、整った顔立ち。もしかすると、この子がそうなのかもしれない。
(ん? あれ……?)
そのまま通り過ぎようと思ったけど、なんだか様子がおかしい。さっきから、ずっともじもじしていて、とても気になる。思わず立ち止まって見ていると、俺の視線に気がついたらしく、その子と目が合ってしまった。
(し、しまった。ジロジロ見過ぎたかも。な、なにか言わないと……。)
「あ……えっと、トイレだったらあっちの方だと思うよ」
「な⁉」
びっくりした様子のその子は頬を真っ赤に染めた。
(あ、あれ? なにかおかしなこと言ったっけ?)
「ばか! なんてこと言うのよ! この変態!」
「う、うわっ! ご、誤解だ! 悪気はない! 本当に!」
思わず反射的に謝っていた。ところが、頭をあげるともうそこには誰もいない。振り返ると駆け足で階段を下りていく、さっきの子の後ろ姿が見えた。
(……いったい何だったんだ?)
不思議に思いながら呆然と立ち尽くしていると、生徒会長の高石先輩が姿を現した。
「おや、一年生がこんなところになんの用だい?」
「あ、いやその……ただの通りすがりなんですけど……」
「そうか。さっきここに小森がいたような気がしたんだが……」
「小森? えっと会長、さっきの子とは知り合いなんですか?」
「ああ、なんだ。やっぱりいたのか。あの子は小森芽依って名前で、中学時代の後輩なんだよ」
そうか、そういうことだったのか。
偶然、変な形で出会ってしまった同じ一年の女子。後で柏原に聞いたんだけど、やはり、その子が噂の四組の美少女らしい。その容姿は通りすがりの俺ですら思わず目が止まったほどだ。どうやらさっきの様子からして、生徒会長に用事があったみたいなんだけど……。しまったな、俺のせいで恥ずかしい思いをさせてしまったみたいだ。次に会う機会があったらあやまろうとは思うけど、おそらく最悪の印象だろう……。
為息混じりに、俺はそのままトボトボと渡り廊下を歩いて屋上に上がった。
「遅い!」
そこにはすでにさつきがお弁当を広げて待っていた。これは……、しつこく問い詰められそうな予感……。なんだか悪夢の連続だ。入学式以来、俺の日常はどうかしてしまっているんじゃないのか?
(あれ?)
見ると弁当箱がひとつ多い。
「おまえ、そんなに食うのか?」
「なに言ってんのよ。昨日のあんたのお弁当を見て、帰ってからお母さんにそのことを話したのよ。そしたら今朝、これも一緒に持たされたの」
そう言うと、さつきは手に持っていたそれを突き出した。
「はい、あんたの分」
一瞬自分の耳を疑った。信じられなかった。ちょっと大げさかもしれないけどすごく感動してしまった。さつきのお母さんの、弥生さんの作ったあのお弁当を食べれるなんて……。
こんなにうれしいことはない‼
特に今日は母さんが寝坊したので、自分で慌てて用意したぐらいだからまともなものじゃない。さつきの隣に座ると、俺は緊張しながらゆっくりと蓋を開けてみた……。
「!」
これは……、もはやただのお弁当などではない! 芸術の域に達している! 色鮮やかに彩られたおかず達がお互いに主張し合うことなく、全体でひとつのキャンパスのように美しく描かれるように盛りつけられていた。卵焼きは表面は、うっすらと焦げ目がつく程度に仕上げ、中は少し半熟に。塩こしょうだけではなく、さりげなく含まれている出汁がまた絶品。ハンバーグは食べやすい一口サイズに収め、しっかりと火の通った、俺好みの焼き具合。しかも、口に入れるととろけるようだ。信じられない! いったいどんないい肉を使っているんだ? 添えられたニンジンは、バターとこしょうで味付けされた上、やわらかく焼き上げられている。
(なんてことだ!)
ウインナーが……、タコさんになっている。しかも目と口までついてる凝り具合だ。仕上げにおかずの周りをレタス、キュウリなどを使ったサラダで美しく飾られていて、栄養バランスもしっかり考慮されている。
お弁当ひとつで、これほどまでに感動を生み出すとは……。
「ん? 何か言った?」
「なんでも……ない……」
空を見上げると、今日も青空が広がっていた。でも、ほんの少し滲んで見えた……。
◆◆◆
放課後。
「なあなあ、大坂〜、頼むから視聴覚室までついてきてくれよ〜」
さっきから、柏原の奴が鬱陶しいことこの上ない。どうやら昨日、あの流れで軽音部にむりやり入部させられたらしい。それで退部届を出したいけど、一人じゃいけないからついてきてくれと、何度も何度もせがんでくる。自業自得だし、放って置いて帰ろうかと思ったけど、ちょっと気の毒な気もする。
(う〜ん……)
さつきが用事があるとか言って、先に帰ってしまったから、今日は特に急いで帰る必要もないか……。
「しょうがないな……、部室の前まではつきあってやるよ」
「そうか悪いな。でもお前、昨日俺を放置して逃げただろ」
「俺は別に入部希望でもなんでもなかったからな」
「くぅ〜、俺はあの後ひどい目にあったんだぞ……」
それから柏原の愚痴が延々と続くのだが、そもそも待たせたな仔猫ちゃんとか言って、飛び込んで行ったのはお前だろう……。
「期待するなってあれほど言っただろ」
「何を言っている、期待しないお前の方がおかしい」
だめだ、話にならない。こいつは自分の欲望には真っ正直だ。そこだけは褒めてやりたいところだけど……。
そんな話をしながら歩いているうちに、いつのまにか四階の視聴覚室の前まで来ていた。
「入らないのか?」
「い、いや、ま、待ってくれ……」
どうやらここまできて怖じ気づいてしまったらしい。生まれたばかりの子鹿のように、ぷるぷる震えたままの柏原は、一歩も動けない様子だ。
「ほら、入れよ」
「ま、ま、ま……待ってくれ」
これじゃいつまでたっても埒があかない……。
(よし!)
それならばここは俺がひとつ手伝ってやるとしよう。そう考えた俺は、勢いよく扉を開くと柏原を教室の中に押し込んだ。
「うあ! なにすんだ大坂!」
そして、静かに扉を閉める。中から、おう! よく来たな。早速練習はじめっぞ! と野太い声が聞こえてくる。これでよし!
(がんばれよ、柏原)
「大坂! 俺はお前を許さんぞぉ……」
断末魔のようなものが聞こえた気もするけど、そんなのは気のせいだろう。またひとついいことをした気がしたので、俺は気分よく帰ることにした。
そのまままっすぐ廊下を進んで、特別棟の南端の階段から下りようとした時、階段の上の倉庫前の踊り場に見たことのある女子が座っているのが見えた。
(あれは……もしかして。小森……芽依?)
放課後の特別棟は基本的にあまり人気がない。まして、四階のこんな場所なんて、滅多に人通りなんてないだろう。倉庫の扉の前は小さな踊り場になっているんだけど、そんなところにぽつんと小森は座っていた。
「や……やぁ、えっと……」
お昼休みのことで謝ろうと思って、なんて言って良いのかわからないままとりあえず声を掛けてみた。
「あ! あの時の……、ド変態‼」
「変態⁉ たったあれだけのことですでに変態扱い? しかもよりによってドのおまけ付きで!」
最悪の反応だった……。しかし、ドMだの、ド変態だの……。いったい俺の日常はどうなってしまったんだろう? 平和で安穏とした学校生活はいったいどこにいってしまったんだ?
「俺はド変態でもドMでもない!」
「ドMとまでは言ってないけど……」
……どうも最近ショックな出来事が多かったせいで、過敏になっているに違いない。
「いや……、その、ごめん……。最近、色々なことがあったから……」
なんとか必死に弁解してみようとしたけれど、すでにドン引きしてしまっているようだ。小森はジト目で俺を睨みつけてくる。
「……私に何か用?」
「い、いや……、こんなところで何してるのかと思って」
「別に私が何してようと勝手じゃない」
「そりゃそうだけど……」
でもまぁ、普通に考えて、こんなところで一人で座り込んでいるのを見たら、気にならない奴なんていないと思うんだ。まったく知らない奴ならともかく、昼間のことがあったばかりだし。
「あの……、通りがかったついでにいうのもなんだけど。その……、昼間はごめん。俺の早とちりだったんだ」
いきなり頭を下げる俺に、ちょっと面食らった様子の小森だったけれど、その時のことを詳しく話したところ、ふうん、そうだったのと、まぁそれなりに納得してくれたみたいだった。
「まぁ、もうどうでもいいけど」
小森は少し呆れた様子で立ち上がると、俺の隣を抜けて立ち去ろうとした。
「あ、待って……」
何を思ったのか、俺は反射的にその右手を掴んでしまった。
「え? なに?」
「あ、いや……。えっと、つい……」
「離してっ!」
小森が手を振り払おうと力を込めたのに対して、今度は迂闊にも手を離してしまった。
「あっ!」
小森がバランスを崩して階段を踏み外したその瞬間……。
「‼」
(なにを……やってるんだ俺は……)
咄嗟に手を伸ばした俺は、あろうことか小森をしっかり抱きしめてしまった。制服を通して伝わる柔らかな感触。間近で見るその容姿。
時間だけがゆっくり過ぎていくように感じられた。
……トクン、……トクンと、鼓動がどんどん激しくなっていくのがわかる。
小森の右手がゆっくりと跳ね上がるのが見えた。
肘の位置は頭より少し上あたり。そこで肘から手首にかけて、弓の弦のように腕をしならせていく。手のひらの位置はさらに後方へ伸び、天に向かって水平に。
角度・姿勢、共に良好。そして手のひらが最高点に達した……、そこで。
目標に向かって全力で、振り下ろす!
「なにするのよ! このド変態‼」
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
星が煌めいた……。
キーンと鳴り響く耳鳴りと共に、俺の視界は一瞬にして暗闇に包まれ、走り去っていく小森の足音だけが聞こえてくる。しばらくすると、頬が痛さを通り越して、どんどん熱くなってくる……。
熱い……。あんなに綺麗な星空を見たのは生まれて初めてかも……。
一体何をやっているんだ俺は……。はぁっと、思わず溜息がでてしまった。最近のことを振り返ると本当にそう思ってしまう。ヒリヒリと痛む頬を左手で押さえながら、下駄箱の前に着くと、先に帰ったはずのさつきがそこで待っていた。
「あれ? 用事があったんじゃなかったのか?」
「なにその顔。女子更衣室でも覗いたの?」
「な? そ、そんなことする訳ないだろ!」
真面目な顔で言われるとどこを突っ込んでいいのかわからない。いや……、正直もうそんな元気すらない。
「じゃあ、どうしたのよ?」
「いや。こ、これは、じ、事故だったんだよ。お、俺は悪くない……、と思う。たぶん」
「相変わらずはっきりしないのね〜。ふ〜ん……。まぁ、どうでもいいけど」
「どうでもいいのかよ!」
「それより、あんたも今度の生徒会選挙に、書記で立候補しておいたからしっかりやってよね」
「ああ……、そう……。‼」
って! なんだって? なにを言ってるんだ? 俺が生徒会役員に立候補?
「……立候補だって! ば、馬鹿なこと言うなよ。本人がいないのにどうやって……」
「ああ、その辺は上手くやっておいたから」
ちょっと待て! 勝手すぎるにも程かある!
「ちょっと! 勝手にそんなこと決めないでくれ!」
「別にいいじゃない。おもしろいと思うわよ」
「思わない!」
「いいの! 私が会長であんたは書記……」
ニヤリと不適に笑うさつき。
「きっと、これからおもしろくなるよ」
そう言うと逃げるように走り出した。
「なるわけない!」
用事ってこれのことだったのか。その後もさつきはまったく話を聞いてくれる様子はなく、案の定、俺は失意のまま帰宅することになった。いったいどうしてこんなことになるんだよ……。
「ただいま……」
ガチャリ、と玄関のドアを開くと、ちょうど母さんが洗濯籠を持って立っていた。しばらくの沈黙の後。
「ぷっ! 修ちゃん、どうしたのよ? ひ〜っひひひひひひ……、その顔!」
籠を投げ出して笑い転げる母さん。
「なんにも……、ないよ……」
「あっはははははは! 女子更衣室でも除いた? うひ〜っひひひっ!」
く……、母さんまで同じことを。もう怒る気力すらでない……。頼むから誰か止めてくれ……。
「まぁ、いいじゃない。あんたにしては上出来よ。それって男の勲章だもんね」
散々笑った後、そう言って母さんは片目を瞑ってみせた。
「? なんだよ、それ……」
鏡を見ると、頬に真っ赤な手形のついた俺が、恨めしそうにこちらを見ていた……。




