#002 四月八日 金曜日(入学式)
昨日の夜は、どうも緊張していたせいか、あまり眠れなかった……。
眠い目をこすりながら、のんびりと学校へ向かっている訳だけど、今日から通う、この府立天保山高校は、実は山の頂上にあるらしい。だけど、どこからどうみてもただのちっぽけな丘だ。いや、標高四・五三メートルだから、丘にすら見えない。なんでも日本一低い山らしい。
まぁ、そんなことはいいとして、この高校に通うことになったきっかけは、やはり母親の影響だった。母さんの母校でもあるこの学校については、小さい頃から、いつも想い出話を聞かされてきた。学校のこと、先生のこと、部活のこと、そして友達のこと。だから、いつしか自分もここに通うんだって、自然にそう思っていた。地元でも人気のある進学校なので、競争率が高かったけれど、なんとか無事合格することができた。
家から自転車で十五分くらいだから、距離的にもちょうどいい。だけど、今日は初めての登校ということで、ちょっぴり舞い上がってしまっていた俺は、なんと、家から歩いてきてしまった。通学の途中に、なにがあるのか見ておきたいというのもあったけれど、今までと違う生活の始まりを、この脚でしっかり踏み出したい。なんて、そんな気持ちがあったのかもしれない。
そんな感じで一日が始まった。
◆◆◆
俺のクラスは一年二組か……。
張り出されたクラス表に特に感慨もなく、入学式が終わると、そのまま体育館から教室へと移動した。すると、教室に入るなり、誰かに声をかけられた。
「久しぶりね、大坂修一」
誰だろう?
振り返ると、そこには見知らぬ女子が立っていた。天保山高校の女子の制服は、一般的な白のセーラー服で、二本ラインにピンクのスカーフという組み合わせだ。身長は百五十センチくらいだろうか? 少し背の小さな、栗色の髪をした女子だ。頭の天辺に、にょろっと飛び出している癖毛? がとても気になる。
知らない……よな。
実は、俺はこの学校に中学校時代の知り合いがほとんどいない。受験した人数がもともと少なかったせいもあって、顔見知りが数人いるぐらい。それに第一、俺の知り合いにこんな可愛い子はいない。というか、女の子の友達がそもそもいない。でも、初めて会ったというのに、なぜか知っているような気がした。
誰だったっけ?
などと記憶を辿り始めたその直後、その子の口から発せられた言葉は、俺の予想を遙かに越えていた。
「ふ〜ん、やっぱりね。ずっと話に聞いてたからすぐにわかったわ。まったく、ほんっとに冴えないわね。よくもまぁこんなふうに成長したもんだわ」
苦笑いを浮かべながらとんでもないことを口走る。
なんだって! 可愛いとか思ったけど前言撤回だ!
「なんだよ! おまえは誰なんだよ?」
怒りに震える俺を尻目に、はぁ……っと、大きなため息までついている。
「残念すぎるわ……。あまりにもありきたりなリアクションで更にガッカリしたってやつね。まったく! もっと他に何か言う事ないの?」
こいつ! 言うにも程があるぞ。いったい何なんだ? 言ってることがさっぱりわからない!
「ほんっとにわかんないの? しょうがないわね、まったく……。自分の許嫁の顔も忘れるなんて……」
?
?????
今なんて言った? ……いいなづ…け?
イイナヅケ?
許嫁?
なんだそれ? 俺は頭がどうかしてるのか? そんなものがいるわけがないだろう? アニメの見過ぎなのか? ゲームのしすぎか? それとも、これが世に聞く白昼夢ってやつか? ん? そういえばまだ朝だったな……。
あれ? 俺はなにを言ってるんだ? わけがわからなくなってきた……。
そうか!
きっと、これは夢だ! 夢に違いない! そう思うと俺は、おもいっきり自分の頬をつねってみた。
(ムギュ)
……痛い。
おかしい。まだ足りないのか。よし! それならと、今度は思い切りビンタしてみた。突然大きな音が教室中に響き渡って、クラスの全員が俺に注目する。
……やっぱり痛い。そして、みんなの視線も痛い……。
「ちょっ、ちょっと。あんたなにやってるの? もしかしてマゾ? ドM?」
ドMだって? 失礼な!
そんなことより夢なら早く覚めてくれよ。早く……!
「おい、そこのドエム君とやら、早く席に着きなさい! はいはい、他の生徒も戻って戻って。座席表は、黒板に貼りだしておいた名前順だから、間違えの無いように」
チャイムと共に担任の先生と思われる人が教室にやってきた。
「今日からこのクラスの担任になっ、狭山篤志だ。さぁ、最初のホームルームをはじめよう」
どうやら残念なことに俺の願いは届かなかった……。そして、惨めな現実だけが残った。
その日……、俺のあだ名はドMになった……。
◆◆◆
「おーい、そこのドM君」
「ドMじゃない。俺は大坂修一だ」
「ドMの大坂君、私の帰り道もこっちだから、一緒に帰ろうよ」
頼まれてきたものもあるしね、と、さっきから例の女子がつきまとってくる。
「ドMじゃないと言っただろ! お前のせいで、俺が変な名前で呼ばれるようになっちまったじゃないか!」
あはははっと笑い出す、栗色の髪をした自称俺の許嫁。
ちくしょう! ちくしょう! 涙が出てきそうだ……。でも少し思い出したぞ。
両備院さつき(りょうびいんさつき)。
その名前を聞いてピンときた。本人達にはまったく関係のないことだが、大坂家と両備院家は繋がりが深い。家柄で言えば、明らかに一般庶民と貴族ぐらいの格差があるのだが、実は俺の母親と、こいつの母親は高校時代からの大親友なのだ。だから、俺がまだ小学校にも行ってなかった頃、何度も遊んでいた記憶があった。はっきり覚えていないので、なんとも言えないが。ただ言えることは……。
違う!
あまりにも記憶していたイメージと違いすぎる! いったい……、なにが……、どうしてこうなったんだ? 未だに頭の中は混乱したままだ。だけど、そんな俺などまったく意にも介せず、両備院さつきは勝手に話を続けている。
「でね、私、こっちに帰ってきたばっかりで知り合いが全然いないのよ。だから、これからよろしくね」
「う、うん……。それは全然かまわないんだけど、おまえは本当に、あの両備院さつきなのか?」
「なによ。私は私に決まってるじゃない。それに、さつきでいいよ」
「さ……さ、さつき」
「あははははは! その年になって女の子の名前も呼んだことないの? うひゃひゃひゃひゃ!」
大声で笑い出す両備院さつき。
うるせー! ち、ちくしょう。その通りだ! その通りで何が悪い! 俺はお前と違って、あの頃のまま清く正しく育ったんだよ!
「さつき!」
「はいっ!」
もう半分涙目になっていた。突然、大声を出したので、さつきはちょっとびっくりしたらしく目を丸くしてこっちをみている。
「ど、どうだ! い、言えたぞ! 文句あるか?」
「よろしい。じゃあついでに、私の為だったら何でもするっていうあの時の約束も思い出した?」
……はぁ?
ちょっと待て。なにを言っているんだ? そんな覚えなんてあるはずがないだろう。
「おい、待て……。本当に……、そんな約束……、したのか?」
「したわよ。まさか忘れたなんて言う訳じゃないでしょうね」
そんなバカな!
いくら昔のこととはいえ、そんな大切なことを忘れたりするものだろうか。あぁ……、ますます混乱してきた。思わず頭を抱えたくなる衝動に駆られる。
「まぁ、いいわ。私、これから始まる高校生活ってやつを、すっごく楽しみにしていたの。絶〜対、愉快で華やかな学校生活を送ってやろうと思うのよね」
それはいわゆる、高校デビューというやつだろうか。今時、こんなこと言うやつ見たことないんだけど……。やっぱり、いるんだなこういうの。俺がそんなことを考えているなど露知らず、おかまいなしに、さつきは目をキラキラさせながら語り始める。
「毎日が楽しいイベントで盛りだくさん! なんてことにできないかな〜?」
できる訳ないだろ……。そもそもお前は高校を勘違いしている。
「私、中学の途中まで米国に住んでたんだけど……」
俺達は、学校教育法にも書いてあるとおり、基本的に中学校の基礎教育の上に高度な普通教育と専門教育を学ぶことを目的としている。
「あ、小学校までは千葉に居たのよ。それでね……」
その上で、常識ある一般社会人としての資質を備えることが目的だろう。個人の資質に応じて、この先の進路はみんな違ってくる。それぞれが自分に必要な専門的な知識や技術を身につけるのもこの時期なのだ。
断じて。
毎日が。
愉快で。
華やかなイベントで盛りだくさん。
なんてことがあるわけない! 夢見るのもいい加減にしろ!
「ちょっと、聞いてる? あんた、私の為なら何だってしてくれるんでしょう? ちゃんと一緒に考えてよね」
そんな約束……。してない……、たぶん。
すでに圧倒されてしまっている俺は、そう言い返せるはずもなく、再び涙目になってしまった。
気がつけば、もう家まで半分くらいの道のりを歩いてきていた。ちょうど、俺の住む町との境界の交差点だ。右斜めに駐車場の広いコンビニがあって、その隣には、最近できたらしい「薄皮白たい焼き」と大きな看板の掛かっているお店があった。白かろうが、茶色だろうが、たい焼きはたい焼きだろう。いずれ、その件についてはゆっくりと舌鼓を打つとしても、その味を確かめている余裕は、今の俺にはなかった。
「じゃあ、私はこっちだからまた明日ね」
「ん? ああ……」
「そうそう、これ、うちのお母さんから、美由紀さんにって、預かってきたんだ」
そう言うと、さつきは鞄の中から小さな紙袋を取りだした。ほのかに甘い香りが漂う。
「中身は見ればわかるって言ってたよ」
「……わかった」
「もう、さっきから、ずっと上の空じゃない? あんた、いっつもこんな感じなの? もっとしっかりしなさいよ!」
それはお前のせいなんだけど……。さすがにそんなことを口にするわけにもいかず、はっきりしないままもごもご口ごもっていると、そんな俺に愛想を尽かしたのか、さつきはさっさと信号を渡って行ってしまった。
「じゃあ、また明日ね」
交差点の向こうからひらひらと手を振ってくる。
「ああ……、また明日」
また……、明日もこんな感じなのか……。そう思うと、もう早く帰りたかった。
ふぅっと大きくため息をつくと、俺は自分の家の方向へ歩き始めた。
まさか、こんな波乱の一日になるなんて思いもしてなかった。
考えが甘かったって? いやいや、普通こんなことあるわけないだろ? まったくおかしなことになったもんだ……。ため息混じりに振り返ったその時、何かが目にとまった。
(あれ……?)
交差点の遙か向こうで、座り込んでいる誰かの姿が見えた。天保山高校の制服だし、間違いない。あれは両備院さつきだ。
何してるんだ……? 何かあったのか……? とにかく行ってみよう。
俺は慌てて交差点を渡り、駆け足でさつきの元に向かった。
「お、おい。どうしたんだ? どっか悪いのか?」
「ん、あ……。ごめんね。ちょっと立ちくらみがして……」
なんだかさっきまでとは随分違う印象だ。顔色も悪い。
「本当に大丈夫か? なんなら家まで送っていくけど」
「もう、目の前だから大丈夫だよ」
百メートルほど先に大きな豪邸が見える。両備院のお屋敷か……。昔はあの中に何度も入ったことがあるはずなんだけど……、ほとんど記憶にないんだよな。
「そうか……。無理するなよ?」
「うん。大丈夫。ありがとね」
にっこり笑うさつきの姿にあの頃の記憶が微かに蘇った……。
やっぱり……。両備院さつき……、なんだよな。俺が忘れてしまっていただけなのだろうか。さつきが言っている約束も全て……。
俺はさつきの姿が見えなくなるまで見送った後、再びふらふらと家路についた。今日はいろいろと疲れ過ぎた……。
◆◆◆
「……ただいま」
とんでもない一日になってしまった……。思い出しただけでも頭が痛い。だけどこれで終わったわけじゃなかった。そうでなくても俺にはもう一つ悩みのタネがあるというのに、帰宅するまでそのことをすっかり忘れていたなんて、まさに痛恨の極みとも言える。
ドドドドドドドドドドドドド……!
その時、家の奥から凄まじい爆音と共に何かがこちらに向かって来る。
(やはり来たか!)
もはや、ダッシュなどというレベルではない。スリッパの底が擦りきれるのではなかろうかというほどの勢いで、それは一瞬にして姿を現す。
「コート上では慌てない! 常に冷静に! 周りをよく見て! そして更なる向こうへ! ……とうっっ!」
ズシャアアアアアアア、と派手にスライディングを決めつつ、俺を出迎えてくれたのは他でもない。
「修ちゃんおっかえり‼」
俺の母親である。さつきが美由紀さんと呼んでいたのは母さんのことだ。困ったことに、異常に元気なのが取り柄なんだ。見ての通り、母さんは疲れというものをまったく知らない。嘘じゃない。本当なんだ。今年で三十六歳になるはずなんだが、そんなものを微塵も感じさせない。高校時代からバスケ部で鍛えたというその強靱な肉体は、未だまったく衰えることを知らず、常に、駆け足で、高速で移動してくる。以前は、地元で天才少女と呼ばれるほどのかなりの有名人だったらしい。
「ねぇねぇ、学校はどうだった?緊張した?あそこね、母さんも昔、毎日通ってたんだよ〜。どうだった? どうだった?」
そして、おせっかいで、早口な上、無茶苦茶おしゃべりだ。放っておいたら本当にいつまでもしゃべっている。そのおかげで、ご近所から町内最強主婦などという恥ずべき称号をもらっている。
「ねぇねぇ、古い校舎なんかまだそのままだったでしょう。汚いけど、母さんの思い出がいっぱい詰まってるんだよ。特別棟の奥の裏の抜け道とか、やっぱりまだ昔のままなのかしら? 思い出すな〜。母さん、当時は少しやんちゃでね、いつも遅刻したときそこから出入りしててね。あぁ、そういえば結局、忠岡先生に見つかって塞がれたんだったっけ? でも、次の日には蹴破っちゃってね、そのあと散々叱られて……」
頼む。誰か止めてくれ……。そうでなくても今日は疲れたというのに。帰って来るなりこれは拷問に等しい……。
「……で、さつきちゃんには会えた?」
にっこり笑う母さん。
⁉
今……、なんて言った……? 何かすごいことをサラリと言ったな!
「おい! 今、なんて言ったんだよ!」
そうか……、そうだったのか……!
なにもかも知ってたのか!
さつきが帰ってきたことも、同じ高校に通うことも‼
いつもそうだ。知らないのは俺だけだ。すべての始まりはどこでもない、ここからだったんだ。
「あら、それは……」
そんな俺の心中などまったく意に介せず、手にしていた小さな包み紙をめざとく見つけた母さんは、変わらないな〜、などと口ずさみながら、ウキウキしながらぶんどった。俺の話など端から聞いちゃいない……。
「ふふっ、弥生ったら、初日にこれを手土産に持たせるなんて……、やるわね」
そう言うと中から、少し焦げ目のついた小さなクッキーを取り出してみせた。
「これはね、私と弥生の……。私が、さつきちゃんのお母さんと本当の意味で仲良くなった思い出の品なのよ」
玄関に甘い香りが漂った……。




