#013 四月二十六日(火曜日)
放課後。やっと今日の授業も終えて、俺とさつきは、明日の第二回公開討論に備えて、教室に残ったまま、最終的な打ち合わせをしていた。千里丘先輩については、引き続き高槻さんに調べてもらっている。いまのところ、校内では何も起こっていない。
とにかくもう時間がなかった。ここ数日間の遅れを取り戻すためにも、今は少しでも多くの対策を練る必要があった。問題はこの討論で、小森芽依を完全に論破する。もしくは一方的に主導権を握る。それぐらいの結果を出さない限り、現在の形勢を逆転するのは難しい。そのことがもわかったいるだけに、俺も焦りの色を隠せない。さつきも心理的にかなり追い込まれている様子だ。先程から、立ち上がったり座ったりと、まったく落ち着きがない。
「……以上が、俺の考えた案なんだけど……」
「なるほどね……。でも正直それだけじゃあ、ちょっと厳しいんじゃない?」
マニフェストについても、これまでいくつか考案した後、検証も行った。だけど、さつきの言う通り、決め手に欠けていることは間違いない。しかし、どれだけ頭を捻ったところで、これ以上の案は出そうになかった。
重苦しい空気の中、時間だけがどんどん過ぎていき、気がつけば外はもうすっかり暮れ始めていて、本校舎内はほとんど無人と化していた。
「結論から言うと、修一の案だと、小森さんの出方次第ってことになるじゃない。そんなに上手く乗ってくれるとは思わないけど」
「そうなんだけど。まあ……、その点はおそらく大丈夫だと思う」
「なにその自信? ……もしかして私の知らない間にまた何かあったの?」
「う……」
……相変わらずどうでもいいところは鋭い。
「俺はなにも疚しいことは……」
「怪しい!」
「そんなことない」
「絶対怪しい‼」
「いや本当になんにも……、ってあれ?」
その時偶然、特別棟の廊下を歩く一人の生徒の姿に目がとまった。
「? ってどうしたの?」
「いや……」
普段なら気にもかけなかったはず。それなのに、その生徒はあからさまに不審な動きをしていた……。そんな馬鹿なことがあるわけない。自分でも目を疑った。でも、その疑問はすぐに確信へと変わっっていった。
「さつき、ちょっとついてきてくれ!」
「えっ?」
俺達は廊下に出た後、先程見えた生徒から死角になるように移動を始めた。その生徒は特別棟の三階から中央の階段を降りた後、今は二階を移動している。
その動きはまるで城に忍び込む忍者のよう。もしくは、敵のアジトに忍び込むエージェントか。
まぁ、……そんなつもりなんだろうけど。傍から見れば、ただの不審者にしか見えない。
「どうしたのよ?」
「いいから、黙って見てろ」
やはり……。
見つけた。見つけてしまったと言うべきか。小森の話を聞いた時に、放送部が何らかの形でこの件に関わっている気はしていた……。けれど、何の証拠もない上、ただの伝達ミスの可能性もあったので、それ以上の追求はしなかったのだけど……。
それにしても……、バカだ! この人は‼
俺達が隠れて見ているのにも気付かず、目の前でさつきのポスターを、鼻歌混じりに破いている生徒がいる。
「そんな……。あの人が犯人だったなんて……」
「ああ、俺も最初は信じられなかった。でも、最初の公開討論の時に、小森にだけ詳細の連絡が行って、俺達にはなにもないなんて、おかしいと思ってたんだ」
「なにそれ? 今初めて聞いたんだけど!」
「確信が持てなかったんだ」
「そういうことはちゃんと話してよね!」
「悪かったよ。次からは話すから……。そんなことより……」
その生徒は、俺達の存在にまったく気づいてないらしく、おりゃーとか言いながら楽しげにやっている。
「捕まえるか?」
「もちろん!」
その声でやっと俺達の存在に気づいたらしい。ギギギ……、とまるでロボットのような動きでこちらを見た。目があった瞬間、その顔が真っ青に染まっていく。
「あ、逃げた‼」
全力で逃げ出す岸和田先輩。
「追うぞ‼」
「おっけー‼」
俺達はすぐさま追いかけた。今度は絶対に逃すものか!
「ひぃいいいいいいい★」
悲鳴を上げながら、必死に逃げる岸和田先輩だったが、その距離はみるみるうちに縮まっていった。階段を駆け下り、廊下を曲がったところで、誰かの悲鳴が聞こえた。それと同時に廊下に響き渡る鈍い音。
(誰かとぶつかったのか?)
勢いよく角を曲がると、そこには、無様な姿で仰向けになっている岸和田先輩と……。長い黒髪を乱して尻餅をついている生駒先輩がいた。
「痛たた……」
「だ、大丈夫ですか?」
どうやらぶつかった相手は生駒先輩だった。さつきが駆け寄ると、生駒先輩はスカートの埃を払いながら、ゆっくりと立ち上がった。
「やけに騒がしいから外に出てみたら……。なるほど……、そういうことだったのね」
岸和田先輩の手には、まだ先程破いたポスターの残骸がしっかりと握りしめられていた。どうやら事情を察してくれたらしい。
「私は大丈夫。それより……」
その場にいた全員の視線が岸和田先輩に集中する。
「誰かが今回の選挙で妨害活動を行っているという報告は受けてたけれど……。それがあなただったなんてね……。岸和田敦子さん!」
「は、はう★」
ビクッと跳ね起きる岸和田先輩。
「は………、はわわわわわわ……」
俺だってあの現場を目撃するまでは信じられなかった。まさか、あんなに大胆に行っていたとは……。
「さて、どうしましょうか?」
三人に囲まれてはさすがにもう逃げ場はない。
「もう逃げられませんよ」
「はうぁわわわ……」
俺はじわじわと滲み依り完全に退路を断った。それを見て、さすがに観念したのか、岸和田先輩は真っ赤になった鼻を押さえたままおとなしくなった。
「岸和田さん。話してくれるわよね」
生駒先輩は、普段の姿からは想像できない凄まじい威圧感で詰問する。俺とさつきも両腕を組んだまま、無言で圧力を加えた。
「あ……、えと……、その……」
「あなたがひとりでやったの?」
「え……と……」
「顔を背けても駄目よ。白状なさい」
そうだ。知りたいのはそこなんだ。熊取陽子、岸和田敦子。この二人の先輩に共通点があるのか? 他に共犯者がいるのか? もしくは……。
「……はい。す、すみません。悪いことだとはわかってたんですが、どうしても断れなくて……」
「⁉」
……それはまさか
「誰だ? いったい誰からなんだ?」
先輩の言葉が終わらないうちに、俺は自分の中の衝動を抑えきれずに問い詰めていた。
「………………千里丘に……」
◆◆◆
放課後の無人の廊下に三人の足音が鳴り響く。
俺達はその後、今回起こったことを全て生駒先輩に話すこととなった。そしてそれは、先輩にとってかなり衝撃的な内容だったに違いない。
「待ってください、生駒先輩!」
「これは重大な問題よ。あなた達だけに任せておくわけにはいかないわ!」
俺の制止を振り切り、鬼気迫る表情で歩みを止めない生駒先輩。
「おそらく彼女はまだ校内にいるはずよ」
「⁉」
今度は、さつきが先輩の前に立ちふさがった。
「それなら尚更待ってもらえませんか。わたしからのお願いです!」
「何を言ってるの? これを見過ごすわけにはいかないわ!」
「そうじゃありません、生駒先輩! 聞いてください!」
さつきの言葉には誓いが込められていた。その眼差しには決意が籠もっていた。それを見た先輩は思わず足を止めた。
「わたしの話を最後まで聞いてください!」
「両備院さん……?」
「わたしは……、次期生徒会長になる人間です。これぐらいのことを自力で解決出来ないようなら、その資格はありません! だから、自分の力でやりたいんです! やらせてください‼」
最初は驚いた様子の生駒先輩だったけど、その言葉を聞いてそれ以上何も言わなくなった。そして、しばらく考えた後、ようやく口を開いた。
「……以前、まったく同じようなことを言う奴がいたわ……」
「え?」
「ちょっと思い出したわ。一年半も前のこと。本当に……、生徒会長になりたいなんて人間は、みんな同じなのかしら?」
それは、もしかして高石生徒会長のことなのか……?
「わかったわ。そこまで言うのならあなたにまかせます。ただし、一人では行かせないわ」
一つ溜息をつくと、生駒先輩が俺の正面に立った。真っ直ぐな瞳が見つめてくる。
「大坂くん、あなたも一緒に行くのよね?」
「もちろんです。これは俺とさつきの二人の問題ですから」
「それなら、あなたが頼りです」
「……わかりました」
俺はその言葉をしっかりと受け止めた。
「千里丘さんは、きっとこの時間なら、まだ図書室にいるはずよ」
図書室……。
⁉
そうか! わかった。すべて繋がった……。図書室は、グラウンドに面した特別棟の二階の南側の角にある。あの位置からなら、俺達の下駄箱での様子も丸見えだったに違いない。そうだ。交差点の時も。校舎の三階からも。階段ですれ違った時も。あの人は……、いつも俺を見下ろしていた……。見ていたんだ。いつもどこからか俺達の様子を……。
思わず、握りしめた拳に力が入る……。
岸和田先輩も弱みを握られていた。放送部の部費を使い込んでしまっていた事をあの人は知っていた。それは、現会計だからこそ知ることができたことなんだろう。だけど、熊取先輩のことといい、そのやり方はあまりにも汚い!
「行こう! 修一‼」
「わかった」
向かうは特別棟二階図書室‼
◆◆◆
突き止めた犯人の居場所はあまりにも近い場所だった。だからこそ気付かなかった……。だけど、もうここで決着をつける。
張り詰める緊張感の中、俺はそっと扉を開く。
図書室はさほど大きな部屋ではなく、教室二つ分の区画の広さだ。室内には縦横に本棚が並べられ、窓際に閲覧者用に机が並んでいる。
室内は物音一つなく、しんと静まりかえっていて、時間が遅いこともあってか、他に誰も生徒はいなかった。だけど、一歩足を踏み入れた瞬間、そこに異様な光景が飛び込んできた。
窓際の一番奥の机。
いったい何冊の本があるのだろうか⁉ 所狭しと並べられた分厚い本は、それぞれ天井にまで届くのではないかと思われるほど、高く積み上げられている。そして、その壁のような本の山の奥に、一人の生徒がゆったりと腰掛けているのが見えた。
千里丘千紗……。
その異様な存在感が、明らかに訪れる者を遠ざけていた。
心拍数が跳ね上がる。俺はやはり、まだ心のどこかで信じていなかった。先輩も被害者で、主犯が別にいるのだと……。そんな願望があったに違いない。だけど、目の前の先輩の姿は、そんな一縷の望みすらも打ち砕いた。
呆然と立ち尽くす俺の隣を抜けて、さつきがは臆することなく、一番奥にある机に向かって一直線に歩を進めていった。引かれるようにして、黙ったまま後に続く。
「先輩。お話があります」
……聞こえていないのか? 返事はない。
「お話があります!」
「うるさいな……」
さつきが再度呼びかけると、億劫な返事だけが返ってきた。
「熊取先輩と岸和田先輩のことで、お聞きしたいことがあります」
さつきは、いきなり前触れもなく核心に触れた。暫しの沈黙の後、先輩は一際煩わしそうにぽつりと呟いた。
「……私に何か用?」
「千里丘先輩……。今更それはないでしょう。俺達がここに来たって事は……、もうわかってるはずです」
思わず俺は声を張り上げてしまう。
「先輩は……」
「待って、修一」
さつきが、そこからさらに問い詰めようとする俺を制した。
「わたしにまかせてくれるはずでしょ」
「さつき……」
「千里丘先輩、二人から話を聞きました。先輩が今回の件に関わっていることはわかっています」
それを聞いた先輩は、読んでいた本をパタンと閉じ、初めてこちらに視線を向けた。
「なんだ……。もうバレたの。意外と早かったわね」
「「!」」
室内の空気が一瞬にして凍り付いた。
「まったく使えないわね……、あの二人。明らかに私の人選ミス……」
相手を蔑む口調。
凍てつくような視線。
剥き出しの敵意。
そこにいるのは最早、俺の知っている千里丘先輩ではなかった。いや……、これが本来の先輩の姿なのかもしれない……。
「ちょっと脅かしてやったら、すぐに諦めると思ってたのに」
「やっぱり全部……、先輩の仕組んだ仕業だったのか……」
「……大阪修一……か」
鼻で笑うような仕草で、今初めて、俺の存在に気付いたかのように先輩が視線を向ける。
「とんだ期待はずれだったわ」
「⁉ な、どういうことだ?」
「言ったとおりのこと。お前の母親の話は、随分よく聞かされていたからね」
「? ……母さんのことを?」
「そう。だからその息子がいったいどんな奴なのか、ちょっと興味があってね」
「まさか……、そんな理由で……。だから俺を?」
「けど……。見てみれば何? がっかりしたわ。ただの母親の絞りかす……。出涸らし……。何の価値もない屑だった」
「!」
その言葉は、無防備だった俺の心の、一番深いところに突き刺さった。
「……な……」
「言葉通りのこと。だから、もうお前には用はない。ここから消え失せろ」
「‼」
頭の中が真っ白になった。たった一言で自分の中のなにかが崩れ去ったような気がした。
「……あんたなんかに……、なにがわかるっていうんだ……」
「ははっ。笑わせてくれる。屑に屑だと言ってなにが悪い?」
「なんだと!」
「修一!」
飛びかかりそうな勢いの俺に、さつきが慌てて間に入ってきた。
「落ち着いて!」
「あんなことまで言われて、黙っていられるか! 俺は……」
パシン……。
乾いた音が図書室に響き渡る。
「挑発に乗らないで!」
「……さつ……き……」
頬から伝わる痛みで我に返った。さつきの瞳が炎のように揺らめいている。そして気付いた。怒っているのはむしろ、俺よりもさつきの方だということに。
「修一のことは私の方がよく知ってる! だから自分をしっかり持って‼」
「……」
一瞬でも自分を見失ったことが情けなかった。
「……悪かった」
さつきは、俺が落ち着きを取り戻したのを確認してから小さく頷いた。瞳の奥には揺るぎない決意が宿っている。こんな時でも、まったくぶれないこいつの姿勢には、本当に頭が下がる。
「千里丘先輩! わたしの質問に答えてください! それならいいでしょう?」
「おやおや、仲間割れが始まったかと思えば今度は……」
「答えてもらいます。どうして、わたしの邪魔をするのか、その理由を!」
「まったく貴様らは……」
「答えてください‼」
返答を待たずして詰め寄るさつき。凄まじい気迫だ。
「調子に乗るな……、両備院!」
先輩の苛立ちはさらに激しさを増し、その表情は醜く憎悪に歪んでゆく……。
「忌々しい……。なんて胸糞悪い……。吐き気がする……。いいか! お前の存在自体が、私にとって不快なんだ!」
「わたし……自身が?」
「そうだ‼」
さつきの存在そのものを否定するほどに……。その理由は……。
「お前の姿を見るだけでも不快だというのに! ましてや、生徒会長……だと? ふざけるのもいい加減に……しろ‼」
ドスン!
鈍い音と共におよそ図書館にはおよそ似つかない、刃渡り三十センチほどの巨大なナイフが机に突き立てられた‼
「な……⁉」
それはまるで、昔観た、洋画に出てきた主人公が手にしていたモノと同じ。サバイバルナイフなどではない。ファイティングナイフ!
予期していなかった行動に肌が泡立つのを感じた。バサリと積んであった本を乱暴になぎ払い、ゆらりと千里丘先輩が立ち上がる。そして、そのままナイフを正面に構え、切っ先をさつきの胸元に向けた。
……迂闊だった。丸腰で戦場に出て来たようなものだ。犯人捜しに夢中になって、お遊び気分で探偵ごっこをやっていたのは俺の方だった……。だけど、後悔するにはもう遅い。
「わたしはそんな脅しには屈しない! 先輩は……、卑怯です! 自分では手を下さず、いつも傍から見ているだけで! それに今度はそんなものまで持ち出して‼」
「卑怯? ああ……、なんだそのこと。それは……、私がやると……。
加減できないから……」
戦慄を覚えた。
加減……だと⁉
間違いない。……先輩は本気で言っている。
「最後通告よ。今すぐ棄権しなさい。そして、二度と私の前に姿を見せないで」
「か、勝手なこと言わないでください! そんなこと……、絶対にしない!」
「なにもわかってないのはお前だ!」
「わたしは本気です! 本気なんです! 遊びなんかじゃない!
確かに……、今の私じゃ……、生徒会長にふさわしい実力も、能力も、器もない……。そんなのはわかってます。でも……、譲れない。
絶対に譲れない!
やってみせたい!
自分を変えたいから!
わたしはみんなに認めて欲しいから!
そのためにここに来たんだから‼」
「ふ……ざ……けるな‼」
さつきの叫びは怒号と共にかき消された。それと共に、千里丘先輩の体がゆらりと揺らいだ。
「危ない!」
咄嗟に危険を感じた俺は、さつきを庇うように二人の間に割り込んだ。その瞬間、横凪に振るわれたナイフの先端が制服の胸元を掠める。
「修一‼」
さつきの表情が青ざめる。
まるで紙でも空いたかのように、制服が横一文字に裂けていた。
「次はそれだけじゃ済まないから」
嘲笑うかのように、千里丘先輩の口元がつり上がる。な、なんだ今のは⁉ とても素人の動きとは思えない……。
「……さつき、もういい」
「……でも」
「お前の気持ちは十分わかったから。だから、ここからは……。俺を必要としてくれ!」
「おいおい……、格好つけてる場合か? 脚が震えているぞ」
「‼」
その通りだった。……なんて情けない。震える脚に力を込めて、懸命に押さえつけようとしても、一向に収まらない。
「屑には用はないと言ったはず。さっさと失せな!」
「悪いけど、それだけは……、できない! 約束したんだ! 絶対に……、守るんだって‼」
その誓いが、恐怖に支配されそうな心を、折れそうな心を、挫けそうな心を、必死で繋ぎ止めていた。
「ここでなにもできなかったら、それこそ本当に、俺は何の価値もない屑だ‼」
他に何もいらない! 勇気だ、勇気が……、欲しい!
……畜生……、こんな時に……。
……。
何かが聞こえた……。
「……慌てない……。
……いつも冷静に……。
……目を反らさない……。
相手をよく見て……。
そして……」
消えてしまいそうな程のか細い声……。だけどその声は、はっきりとこの耳に届いた。
「さつき……⁉」
それは俺が生まれてからずっと、何度も何度も耳にしてきた言葉だった。だからこそ、その言葉が思い出させてくれた。
力一杯拳を握りしめた……。まだ力が入る。手も足も動くじゃないか。
そうだ!
もう自分に良い訳はしない!
もともと俺にはなにもない。足りないものだらけだ。だけどそれがどうしたっていうんだ! そんなものは理由にならない!
その強い気持ちが心の中に炎を灯した。すうっと、深く息を吸い込むと、自然と震えは止まっていた。指先まで自分の意志がしっかりと伝わっているのを感じる。
(やってやる! 上手くいくかどうかなんてわからない。けれど、やるんだ‼)
「何をごちゃごちゃと……。おまえは、今の自分の置かれた状況がわかっているのか?」
大きく息を吐く。そして、先輩の姿をこの目でしっかりと見据えた。
「……わかっていますよ。はっきりと。自分のやるべき事が。今までの俺だったら、恐くてとっくに逃げ出していたと思う。けれど、今は……。どうやらここから逃げることの方が恐いみたいだ」
はっきりと実感できた。勇気と覚悟が……、備わったことを。
「修……一……」
さつきが不安そうな眼差しを向けてくる。
「大丈夫」
小さく頷くと、俺は千里丘先輩に真っ正面から向かい合った。
今ならまだ油断しているはず。俺はその確信と共に、無造作にただまっすぐ前に進んだ。ゆっくりとした動作で、先輩の突き出したナイフの切っ先が、触れそうな程距離を詰める。
「ふん……、余程命が惜しくないらしい」
千里丘先輩の目つきが更に険しくなる。しかし、その台詞とは裏腹に、その表情に僅かながら戸惑いの色が見えたような気がした。
何度もチャンスがあるとは思えない。一回きりの勝負!
室内はさらに緊迫した空気に包まれていった。
お互いの視線が交錯する中、見えないプレッシャーがまるで濁流のように押し寄せてくる。それでもまだ不思議なほど落ち着いていた。
時間の流れがとてもゆっくりに感じられ、その中で、ただひたすらその瞬間を待った。
そしてついに……、その時が来た。
先に動いたのは先輩。この間を嫌って距離を置くため、僅かに後ろに下がろうとしたその瞬間……!
俺は右手を先輩に向かって繰り出しつつ、思い切り懐深く踏み込んだ。
しかしそれを予測していたように、先輩は素早く身体を捻って左に躱す。俺は踏み込んだ勢いそのままに、体勢を崩してしまう。
「残念。こんな単純な誘いに引っかかるなんてね……」
違う。誘いに乗ったように見せたのはわざとだ。体勢を崩したのは、さらに奥深く踏み込むため。
先輩がそう言い終える前に、俺は素早く重心を変え、一気に先輩に向かって跳ぶ!
そして、ナイフに向かって一直線に左手を伸ばす!
だがしかし、先輩は俺のその動きにも反応し、ナイフを持つ右手を庇うようにして後方に飛び退る……。
はずだった!
先輩の目がある一点に集中していた。
それは、ナイフに向かって伸ばしたと思われていた俺の左手が、先輩の胸のスカーフをしっかりと握りしめていたからだ。
俺の狙いは最初からここ。そのまま力一杯引き寄せ、今度こそナイフを取り押さえにかかる……。
ごつんっ☆‼
「くっ……ぁ!」
「っ……痛!」
……はずだったのに、今度は勢い余って、先輩に思い切り頭突きをかましてしまった!
だけど結果としてそれが幸いした。予想外の出来事の連続と、更なる頭突きの一撃で、先輩は明らかに怯んだ。それを見た俺は、そのまま一気に床に押し倒す!
「……く!」
先輩が苦悶の表情を浮かべながら、覆い被さった俺を、無理矢理引き剥がそうと体ごと腕をよじる。
「く……、は、離せ‼」
「離すわけないだろ……。絶対……、離す……もんか……‼」
ナイフを奪い合う形でもつれ合うが、絶対に離しはしない!
「くそ……、屑のくせに‼」
「それがどうした! そうだよ。俺は……、あんたの言うとおりただの屑だ! なんの取り得もない! でもそれが……、なんだっていうんだ! だからと言って……、なにもできないわけじゃない‼」
なにも出来ないんじゃない……、なにもしなかったんだ。今だからこそわかる。自分がどれほど無知で臆病だったかを。
「く、……この……、離せ! ……離せ‼」
必死に抵抗する先輩だったが、この体勢になってしまえばどうにもならない。ついに、ゴトリ……と鈍い音と共に、ナイフが先輩の手から滑り落ちた。
「しまった!」
「よし、さつき!」
振り返るよりも早く、さつきはすばやく駆け寄ってナイフを拾い上げた。
「もうこれで終わりだ!」
「っ……、なにが終わりなもんか‼」
「これ以上は無駄だって、先輩にもわかるだろ‼」
「黙れ‼」
誰の目にも明らかなはずだった。それなのに先輩は諦める様子もない。
やむを得ない。このまま体力の限界まで抑え続けるしかない……。と、そう考えていた時。
「修一……、もういいわ。先輩を離してあげて」
静寂を取り戻しつつある図書館に、さつきの声が響き渡った。
「な、なんだと!」
驚きの表情を見せる先輩。
「さつき、本当に……い、いいのか?」
俺もその言葉に動揺を隠せなかった。まだ油断は出来ないはず。ナイフの他にも、何か隠し持っている可能性だってあるというのに……。
「大丈夫。もういいよ。ここからは先輩と話し合いで解決したいから」
衝撃が走った!
……そうか。そういうことか。さつきは当初の目的を見失っていなかった。あくまでも自分自身で決着を付けるつもりだった。
「わかった。それなら、俺の役目はここまでだ」
「貴様ら……、どこまでも私を馬鹿にして……」
自尊心まで打ち砕かれた先輩の瞳には、悔し涙とわかるそれが、うっすらと滲んで見えた。
先輩の体から憔悴しきったように力が抜けていく。それを感じた俺は、そっと手を離して、ゆっくりと身体を起こした。その手首には真っ赤な跡が痛々しく残ってしまっていた。
立ち上がって、さつきからナイフを受け取ると、それは想像以上に重かった……。
「それで……、どうするつもり?」
赤く腫れた手首を押さえながら、力なく半身を起こした先輩は、ポツリとそう呟いた。
「どうにもしない」
さつきは迷い無くそう答えた。
「⁉ ……何? どういうこと?」
「言ったとおりです。先輩が、千里丘先輩が、もうこれ以上なにもしないのだったら……。それでいいです」
「ふざけているの!」
苛立ちを露わに、千里丘先輩の肩が震えている。
「ふざけてなんかいません。……それでいいんです」
その言葉を聞いて一番安堵したのは……、なにより俺自身だった。
……そう……だよな。犯人を見つけ出して、それから……、いったいどうするつもりだったんだろう。憎しみに任せて仕返しでもするのか? それとも、捕まえて生駒先輩に引き渡すのか?
そうじゃない。
そういうことをしたかった訳じゃない。
さつきは俺が見いだせなかった答えまでも、すでに導き出していた。
それが両備院さつき……なんだよな。今頃になってやっとそんなことに気付くなんて……。ほんと……、どうかしてる。
「っあはははははははははははははははっ!
何を言うのかと思ったら……。
正気とは思えない!
本気で言っているの?
冗談にしては面白すぎるわ!」
「もちろん、本気です!」
「……信じられないくらいお人好しね」
「生徒会長になるんだから、これぐらいの器量は当然! 選挙にも絶対に勝ちます! 勝って、先輩にも認めてもらうんです‼」
「‼」
ただ、負けたくなかった。こんなことで諦めたくなかった。その強い意志がさつきを大きく成長させたんだろう。その瞳には、もういつもの根拠のない自信とは違う、固い信念と希望の光に満ち溢れていた。
「約束してもいいです。もし私が生徒会長になれなかったら、先輩の好きにしてかまいません」
「……⁉」
千里丘先輩の目が大きく見開かれた。
「ちょ……ちょっと待てよ。そんな約束……」
思わず、口を挟んだ。
「大丈夫! 絶対勝つんだから!」
「さつき……」
「……いいわ。面白い。その話、乗ってあげようじゃない」
「それじゃあ、選挙が終わるまでは一切手出ししないでもらえますか!」
「……わかったわ」
俺も腹をくくった。もうここまで来たんだ。今更後戻りなんて出来ない……。だけどこの条件はあまりにも厳しすぎる……。
「もちろん、落選した場合は……、わかってるわよね」
千里丘先輩が再び口を開いた。
「ああ……、その時にはもうこの学校にはいないかもしれないわね。いや……、それともこの先、日の目を見ることもないまま鬱蒼と過ごす方がお似合いかな……」
そんな恫喝をものともせず、さつきははっきりと言い返した。
「そんな心配は無用です!」
「……ふん、まぁいいわ。どちらにせよ。……楽しくなってきたから」
「ううん。後悔するのは、きっと先輩の方だと思う……」
最後にそう言い残すと、俺達は図書室を後にした。室内にはただ、千里丘先輩の乾いた笑い声だけが残された……。
◆◆◆
屋上に出た途端、俺達二人は緊張が解けたせいか、その場に座り込んでしまった。疲れが一気に溢れ出てくる。
「もう、どうしてあんな無茶なことするのよ……」
「それはお前の方だろ。大体なんだよ、あの約策は……」
「だって、ああでも言わないと収まりがつかないじゃない!」
「まさか、思いつきで言ったのか‼」
……頭痛がしてきた。
まさかとは思っていたけど本当にそうだったとは……。成り行きとはいえ、これで俺達は何が何でも選挙に勝たなければいけなくなった。引き替えに払った代償があまりにも大きすぎる。
もうなりふり構ってはいられない。あと残り二日で何ができるのか? 思いつく限り、あらゆる方法で立ち向かうしかない。
「大丈夫。なんとかなるよ」
その台詞を聞いて少し頬が緩んだ。
「……おまえはいつもそれだな」
「悲観的になっても仕方ないし、もっと前向きに考えようよ」
「……そうだな」
大きなため息が一つ漏れた。とりあえずは、先輩が約束を守ってくれるならそれで良しとしよう。当面の問題を一つ先送りしただけなのはわかってる。けれど、なにも進展しないよりはいい。なにより、今は少しだけこの充実感に浸っていたかったから。
「でも、これだけは言っておくぞ。もうあんまり無茶してくれるな。おまえに怪我でもされたら俺は弥生さんや高槻さんに会わす顔がない」
「そんなこと修一に言われたくない! 大怪我してたのは修一の方かもしれないのに‼」
「それは……そうかもしれないけど」
あの時は、さつきを守りたい一心だった。胸の内はまだ、その感触が残っているようかのように熱を帯びている。思い起こせば、さつきのあの声が届かなければ、なにもできないままだったかもしれない。
あの時、俺を呪縛から解き放ったのは、毎日のように聞かされていた、あの言葉だった。
「慌てない。いつも冷静に」
いつからだったかな。何かある度に耳にしていた。
「目を反らさない。相手をよく見て。そして……」
「「更なる向こうへ!」」
二人の声が重なった。
「おまえ、よく知っていたな」
「何言ってるのよ。お母さん達のいつもの口癖じゃない」
「……そう、……だったのか。てっきり俺の家だけのことだと思ってたよ」
「二人がまだ私達と同じ学生だった頃に作った決めごとなんだって。そう言ってたよ」
「そうか……。そうだったんだ」
まったく、母さんらしい……。
意味のないものなんて何一つなかった。平凡な毎日の中で、俺達はたくさんのことを受け継いでいたんだ。
「でも、あの時、俺に勇気をくれたのは……、さつき、おまえだよ」
普段ならとてもそんなこと言えなかっただろう。でもその時は、本当に素直な気持ちを伝えることができた。
「本当に感謝してる。……ありがとう」
「え……? な、なによ今更……。わたしはそんな……」
さつきは頬を真っ赤に染めて顔を背けた。
「でも修一も……、ちょっと……。カッコ良かったかも」
「格好いいわけないだろ。先輩に頭突きかました上に、押し倒したんだぞ‼」
「ぷっ……、そういえばそうだったね」
「……だろ?」
屋上に二人の笑い声が鳴り響いた。
「俺は……、ずっと根性なしって言われてたんだけど、やっとその意味がわかったよ。
ずっと逃げていたから。
ずっと避けていたから。
母さんと比べられるのがつらかったんだ。だから、自分と正面から向かい合うことがすごく恐かった……。
だけど……、やっと目が覚めた。
何も出来なかったんじゃない。
何もしなかったんだって。
ゆっくりでもいいんだ。
ひとつひとつ出来るようになればいいって」
「そっか……」
「うん……」
空を見上げると、西側に輝く一番星が目に入った。答えはすぐそばにあった。こんなにもはっきりと見えていたのにそれに気付かなかっただけなんだ。
「わたしは……、何になりたいのかな……」
ポツリとつぶやいたさつきの言葉を聞いて、俺は少し耳を疑った。
「何言ってるんだ? そんなのずっと前から決まってるだろ?」
「え……?」
「おまえ……、自分で気づいてないのか? おまえが目指してるのは……、俺の母さんとおまえの母さん。あの二人だろう?」
「……そうだ。そうだったね……。わたしはずっとあの二人の背中を追いかけてたはずなのに……。いつのまにか見失ってた……。あまりにも近くにいたから」
それは越えられないかもしれない、大きな大きな目標だ。
「美由紀さんとお母さん。……わたしはあの二人みたいになりたい。ずっとなりたかったんだ」
「さつきなら……二人を追い越していけるんじゃないか」
「追い……越す……」
「ああ……」
「そうか……。そうだ……」
「えっと……、あの……。その……、ごめんなさい。お邪魔なのはわかってるんだけど……。なかなか話しかけるタイミングがみつからなくって……」
「「生駒先輩‼」」
うわあぁあああああああああああ‼
いつからそこにいたのだろう。気付けば生駒先輩が後ろから恥ずかしそうにこちらを伺っていた。
なんてところをを見られてしまったんだ‼
「ほら、私もちゃんと事の顛末を知っておく必要があるじゃない。だから、二人が図書室から出てくるのを見て追いかけてきたんだけど……。だ、大丈夫。こういうところ見るのは慣れているから」
そういう問題じゃない‼
……ということは、全部聞かれてしまったということか……。思わず眩暈で卒倒しそうになった。遅かれ早かれ、千里丘先輩の件は報告しなければいけないとは思っていたけれど、まさかこんな風になるとは。
「生駒先輩、千里丘先輩には話を付けました」
さつきはくるりと振り返ると、もう大丈夫ですとはっきりと告げた。
「両備院さん……」
「それに、選挙が終わるまでは何もしないって、約束してもらいました。だから、この件に関しては、最後までわたしに委ねてもらえないでしょうか?」
「……それは、事後処理も含めて、全て自分自身で解決するということ?」
「はい」
迷いのない力強い返答。それを聞いても尚、生駒先輩は迷っている様子だった。
「大坂くんも本当にそれでいいのかしら?」
「はい。俺からもお願いします」
一つ溜息をついた後、先輩はかなり困った様子だったが、最後にはこう言ってくれた。
「……わかったわ。いけないことだけれど、今回、私は何も知らなかったことにしましょう。でも、もしこの後も、彼女によって何らかの阻害が見受けられた場合は、選挙管理委員としてきちんと対処させてもらうわよ」
「はい。その時はよろしくお願いします」
なんて頼りになる人だろう。先輩のその言葉はなによりも心強かった。
いや……、待てよ……。
「!」
俺はそれによって、最悪の方法に気がついた。
それは最低の方法だった。
だけど、これが嵌れば、おそらく間違いなく……。明日の公開演説で小森芽依に……。勝てる……。
もし、これが最初から仕組まれたことだと小森に知れたら、俺はきっと軽蔑されるだろう。
だけど俺達は、絶対に負けられない……。
負けるわけにはいかないから……。
だったら俺が取るべき行動は……。
「先輩……、一つだけお願いがあるのですが……」
「私に?」
「はい……」




