花守 -平野妹背桜縁起-
桜の花びらが、風に舞っている。
ひとひら、また、ひとひら。
そして、雪のように降り積もる……。
舞い散る桜の花びらの中に、ひとりの女が立っている。
萌黄の五衣と桜花の小袿に身を包んだ、人ならざる者を思わせる美貌の女だ。
日陰糸飾りを下げた黒髪に降りかかる花びらにも構わず、その女は、陽光に輝く近淡海から、西の比叡山に涼やかな視線を移す。
ひときわ強い風が吹いて、桜が散る。
その中で、女の姿が霞んでいく。
女の姿に重なるように。
舞い散る桜の花びらの中に、ひとりの男が姿を現す。
濃い黄色の直衣に身を包んだ、少女を思わせる美麗な面影の若い男だ。
御所清涼殿の庭先で無心に桜の花を見上げていた男は、ふとなにかに気づいたように、その視線を東の比叡山に向ける。
一陣の風に、桜が散る。
その中で、男の姿が霞んでいく。
「待って……」
わかっている。私の声など、届くはずがない。
「行かないで……」
でも私は、声の限りに叫ぶ。
今、この思いを伝えなければ、もう二度と……。
「私は、兄さんのことを、ずっと……」
男は、その目を私に向けて、ふっと微笑む。
そして、告げた。
「すまなかったな……」
*
「……橘花」
――兄さん、私は……。
「橘花……さま」
再び名前を呼ばれて、橘花は目を覚ました。
朝の柔らかな光が、開け放たれた襖障子から母屋の板間に差し込んでいる。
春も盛りの弥生、かすかな花の香りを乗せた微風が、ひとひらの花弁を板間の上に運んできた。
「お目覚めですか、斎王様。ひどくうなされておられましたので、声をかけさせていただきました」
声の方を見やると、褥の縁に手をついて、心配そうに橘花の顔を見下ろす唐衣姿の女官がいた。
また、あの夢を見た。ということは……。
橘花は、恭しく頭を垂れる女官から視線をめぐらせて、枕元を見る。
鈍い輝きを返す板間の上を滑ってきた桜の花びらが、古ぼけた大小二振の剣を撫でるように触れて止まった。
それは都の骨董品屋ですら、見向きもしないような地味な剣だった。その鞘に施された銀の装飾も、すでに輝きは失われている。
だが、それを目にした橘花と女官は、それぞれ違う理由で顔色を失う。
先に震えた声を上げたのは、女官だった。
「こ、これは。もしや、賀茂斎院の守護神、神剣『妹背』では……」
神剣『妹背』は、賀茂斎院の祭壇の奥深くに安置されていて、ごく限られた人間しか目にすることも叶わない神宝である。それが、たとえ斎院の主たる斎王だといっても、その寝所の枕元に転がっているなど、ありえないことだ。
橘花は、そっと褥から身を起こす。袿が、するりと衣擦れの音を立てた。
「……ええ、そうです」
答える橘花は、女官とは違う理由で、深いため息を落とした。
それは、初瀬帝が薨去した頃から起きはじめた、斎院で秘中の秘とされる怪異だった。
神剣『妹背』がひとりでに祭壇から抜け出して、斎王である橘花の枕元に来るのだ。そして、その夜、橘花は決まって同じ夢を見る。
実害はがないとはいえ、怪異が起きる場所が場所であり、対象が対象であるだけに、事態は深刻だった。
都を守護する賀茂大神に仕える賀茂斎王は、卜占された内親王だけがその地位につくことができ、帝になりかわって祭事の一切を取り仕切る特別な神職である。
三十年ちかくもその地位にあり、大斎王とまで呼ばれる橘花は、巫女の頂点に君臨する存在である。しかし、その身にはなんらの神通力も備わっておらず、身近で起きる怪異を祓う術もなかった。
やむを得ず、名の通った陰陽師や僧が極秘裏に斎院に呼ばれ、さまざまな加持祈祷が行われた。
だが、誰一人として歯の立つものはなく、一向に怪異は収まらなかった。
わかったのは、神剣『妹背』に何かが取り憑いているらしい、ということだけだった。
こうなれば、あそこに行くしかないか。
橘花は、先ごろ市井で噂を耳にした、ある媛巫女のことを思い出した。そして、まだ震えている女官を叱咤するように告げた。
「出雲に参ります。ただちに支度をなさい」
*
奥出雲樋水にある龍王神社の境内には、都では散り始めた桜が、まだ咲き誇っていた。三方を深い緑の森に囲まれた谷底を削るように、清流の樋水川が北の平野に向かって流れて下っている。
橘花は、大きく息を吸い込んだ。かすかに喘鳴がした。
都から出雲までの長い旅に、四十歳半ばの身体は悲鳴を上げていた。若いころは自ら乗馬して遠出したことさえあったが、すでに輿に乗っているだけでも辛く、食事は喉を通らなくなり、ここ数日は微熱と悪寒も感じていた。
だが、樋水龍王神社がある森の清浄な大気に包まれてからは、身体の不調が嘘のように快癒していた。
賀茂の糺の森でも、これほどの清浄さはない。
橘花は、その森の持つただならぬ力に、期待を膨らませた。
一行を出迎えた宮司は、橘花を主祭殿の御座に案内した。
武帝と称された秋月帝の内親王にして、大帝と怖れられた初瀬帝の異母妹、そしてその初瀬帝が唯一頭が上がらなかったという女性を前にして、宮司をはじめ神社の者は皆、一様に緊張した面持ちだった。
その中にあってただひとり、ぬばたまの黒髪に縁どられた白い顔の少女だけが、黒曜石を思わせる双眸で、橘花を正面から見据えていた。長い髪を白い絹布で束ね、白い単に緋袴の巫女装束に身を包んだこの少女が、龍王の御覡にして樋水龍王神社の生ける神宝たる媛巫女瑠璃であることを、紹介されずとも橘花はすぐに見抜いた。
橘花は、長い挨拶を奏上し終わった宮司に向かって、軽く頭を下げる。
「この度は、私の無理な申し出を快く受けていただき、感謝しております。私は、皆様と同じく、神に仕える巫女のひとりにすぎません。過分な気づかいは無用です」
畏まる宮司たちを余所目に、瑠璃は遠慮のない眼差しを橘花に向けてきた。
視線が合った途端、瑠璃の表情がわずかに曇った。その一瞬の惑いを、橘花は見逃さなかった。
おそらく彼女は、私になんの力もないことを見抜いたのだろう。さすがは都にまでその名を響かせる希代の巫女だ、と橘花は自らの見立てに満足した。
「貴女が、瑠璃媛ですね。私は、貴女に会うために来たのです」
橘花の言葉に、瑠璃は初めてその頭を垂れた。
*
夜の静寂が、龍王神社を閉ざしていた。
どこかから聞こえる滝の音が、神社全体を包み込むように低く響いていた。
燭台の灯火が、ゆらゆらと揺れながら、仄かな光で辺りを照らし出す。
橘花の目の前には、瑠璃が座っていた。しぶる宮司をなんとか説き伏せ、ようやく実現したふたりきりでの面談だった。
「賀茂斎王様、あらためてご挨拶を申し上げます。龍王神社に仕える巫女、瑠璃と申します。こたびは、わざわざのお運び、恐縮にございます」
感情の起伏を感じさせない瑠璃の挨拶に、橘花は笑顔を返した。
「そんな堅苦しい挨拶は、要りません。それから、私のことは、橘花と呼んでください」
はい、と短く答えた瑠璃が、なにかに落胆したように肩を落とした。
「貴女は、やはり噂どおり本物の巫女のようですね。察しの通り、私はなんの力も持たないただの女です。神の声を、聞いたこともありませんから」
橘花の言葉に、瑠璃は不審そうに首を傾げる。
それはそうだろう。初瀬帝の治世において、数々の神託を授け、ことごとくその政策を成功させた影の立役者でもある橘花は、賀茂大神に最も愛された巫女ということになっている。その本人から、まったく神通力を持たないどころか、神の声すら聞いたことがないなどと言われては、同じ巫女としては困惑するだけだろう。
うふふっ、と橘花は声を上げて笑った。
「私はね、噂話を聞くのが大好きだったのよ。宮中の噂話、市井の噂話、遠国の噂話。数え切れない人から、数え切れないほど話を聞いたわ。そして、それを賀茂大神や兄さん……いえ、初瀬帝にもお話しして差し上げたの。賀茂大神も帝も、ずいぶんお喋りな巫女だと、きっとお笑いになっていらっしゃったでしょうね」
瑠璃は、驚いたようにその目を見張った。その心中はわからないが、橘花にはそれを推量している余裕はなかった。
「さて、本題です……」
橘花は、緩んでいた顔を引き締め、言葉を継いだ。
「私が、わざわざこちらに出向いたのは、この剣に憑いたものを取り出して欲しいからです」
橘花が差し出した二振の剣を見た瑠璃の表情が、さっと引き締まる。
「これは?」
「賀茂斎院の守護神にして、神宝である『妹背』の双剣です」
そう答えながら、橘花は無造作にその剣を手に取ると鞘を払った。ほの暗い部屋の中でさえ、その剣はぎらりと輝きを放った。
それは神剣という銘にはほど遠い、あまたの命を吸い取った凶器が持つ穢れに満ちた光だった。
瑠璃は後ずさるように、身じろぎをした。
「どうですか?」
問いかける橘花に、瑠璃は声を震わせながら答えた。
「まずは、鞘にお収めください。それには、怖ろしい気が宿っています。これを祓うとなると、私の力でできますかどうか」
やはりそうか。橘花は、瑠璃の反応を見て、ここに出向いてきたのは正解だったと確信した。
だが、これを祓ってもらうことは、本意ではなかった。
「いいえ、祓う必要はありません。ただ、取り出してくださればそれでよいのです」
橘花の要求に、瑠璃は二度目の驚きの表情を返した。
「取り出すだけで祓うな、と仰るのですか。それは、あまりに危険です」
瑠璃の言い分は、もっともなことだった。もし、この剣に憑いているものが祟りを為そうとしているのなら、その矛先は真っ先に瑠璃に向うだろう。
橘花は、瑠璃の協力を得るために、事情を話しておかなければならないと思った。
「この剣は、秋月帝が、最愛の妃だった咲耶に産ませたと言われている風花東宮と衣通桜内親王に、それぞれの護刀として下賜されたものです……」
風花東宮と衣通桜内親王。同母兄妹でありながら愛し合い、国を乱したためにその地位を失い、やがて国家を揺るがす動乱に巻き込まれて命を落とした悲運の皇子と皇女だ。運命という名の嵐に翻弄された二人とともに、『妹背』の双剣もまた失われかけたが、事件があってから長い年月を経てようやく橘花の手によって探し出されたのだった。
「……おそらく、憑いているのは、風花東宮と衣通桜内親王の御霊でしょう。私は、生きているうちに、どうしてもあの方たちに、もう一度会いたい。そして、聞きたいことがあるのです」
橘花の話を聞き終えた瑠璃は、首を横に振った。
「無礼を承知で申し上げますが、神通力をお持ちにならない橘花様では、御霊を呼び出しても、その声を聴くことも、お話しになることも叶わないと存じますが」
橘花の中に、熱いものとともに三十年の歳月がこみ上げてきて、思わず声が大きくなった。
「わかっています、そんなことは。私に、あの方たちの声が聞こえないことも、私のこの思いが、あの人に届かないことも、わかっているのです。それでも、私は……。ただひと目でもいいから……」
その先はもう、言葉にならなかった。
果たされないとわかっている約束を待ち続け、叶わないとわかっている恋のために純潔を守り続けた人生だった。満足などできるはずもなかったが、それでも後悔はなかった。いや、後悔したくなかった。
「承知しました。橘花様は、ここでお待ちください」
瑠璃は、深々と頭を下げたあと、二振の剣を携えて祭壇に向かった。
そこで行われた儀式は、橘花には意外なものだった。
瑠璃は、御幣で周囲の気を清めたあと、鞘を払った剣に水晶玉をかざした。
ただ、それだけだった。祝詞も呪文も、何もない。
そのまま、瑠璃は身動きもせずに何かを待っているようだった。そこにたしかに居るはずの瑠璃の気配が、時を経るとともにどんどん薄くなっていくような気がした。
そうして、半刻ほども過ぎたころだった。
瑠璃が突然、「あっ」と声を上げた。
その直後、橘花は、炎の熱さと水の清らかさが、瑠璃を中心にしてぶつかりあったように感じた。それらはすぐに消え去り、あとには、呆然とした瑠璃と橘花が取り残された。
瑠璃は、ゆっくりと立ち上がって祭壇を辞すると、双剣を携えて橘花の前に座りなおした。
「今のは、いったい」
「橘花様も、感じられましたか。危ういところでした。龍王様がお出ましになってくだされなければ、私はあの怖ろしい気に取り込まれていたかもしれませぬ。ですが、あの気はすでに剣に戻り、龍王様も御座に戻られました。もう、大丈夫です」
「では、憑き物を取り出すことはできなかったと」
橘花は、落胆を隠し切れない。
この巫女でだめなら、もう他に頼れる者などいないのだ。
しかし、瑠璃はゆっくりと首を横に振った。
「あの気は、いにしえからこの剣に宿っているものです。だいいち、龍王様でなければ退けられないほどの気を宿した剣に、たとえ現人神のお血筋とはいえ人の身から出たものが取り憑けるはずもありません」
橘花は、瑠璃の言葉が信じられなかった。ならば、ずっと続いている怪異はなんのせいだというのだ。
そんな橘花の困惑に答えるように、瑠璃の言葉が続いた。
「ですが、気にかかることはあります。先ほど、龍王様に退けられた気が剣に戻るときに、一瞬ですが、見えたものがありました。高い山を隔てて向かい合う、二本の桜の木でした。片方は大きな御殿の庭先に、もう片方は大きな湖を望む庭にありました。わざわざ、この私に見せたものだとすれば、怪異と無関係ではないと思います」
瑠璃の言葉に、橘花は息を飲む。
「それは、怪異が起きるときに私が見る夢と同じです。なぜ、貴女がそれを……」
夢の話は、誰にもしたことがなかった。信じられないことだが、これがまさしく神通力というものだと、橘花は思った。
黙り込んだ橘花に向って、瑠璃は静かに頭を垂れた。
「怪異が何によって引き起こされたのか、私にはわかりました。今宵、橘花様は、ここでお休みください。この剣は、私がお守りいたします」
*
御所と大津宮に、桜の花が舞い散る。
比叡山を挟んで向かい合う、二本の桜と、二人の男女。見つめあっていた二人が、そろって橘花を見た。
その顔には、寂しげな微笑みが浮かんでいる。
「兄さん、桜。聞いてください。橘花は……」
問いかけようとした私の声を阻むように、強い風が吹く。雪のように舞い散る花びらが、二人の姿を消して行く。
「待って」
そのとき、私の耳に、しゃんという清らかな音が聞こえてきた。
これは、清めの鈴の音だ。
待って、清めないで、祓わないで。
ふたたびしゃん、と鈴が鳴る。
誰なの、なぜなの。もうすこしで……。
橘花は、そこで目を覚ました。
褥に入って眠っていたはずなのに、いつのまにか橘花は立っていた。
目の前には、鈴を手にした瑠璃がいた。
橘花は、自分の手がなにかを握っていることに気づく。恐る恐る目を向けたそこには、『妹背』の双剣があった。
「これが、怪異の正体です」
落ち着いた静かな声で、瑠璃がそう告げた。
「私が引き起こしていたということですか」
橘花の問いかけに、瑠璃は、はい、と短く答えた。そして、橘花に座るように勧めてから、瑠璃も腰を下ろした。
「橘花様の心残りが、この剣に宿る気と響きあってしまったのです。この剣は、もともと一振であったものが、二振に分けられたものです。同様に、本来ひとつであるべきものが、引き離されたままになっていませんか」
瑠璃の言葉で、橘花の心にかかっていた靄のようなものが、一気に晴れ渡った。
そっと目を閉じる。夢で見た情景が、あざやかによみがえる。その意味が今、はっきりと理解できた。
橘花は、『妹背』の双剣を、しっかりとその胸に抱きしめた。
翌日、橘花は都への帰途に着いた。
遠い都からはるばる来ていながら、たった一夜しか滞在しないことを、宮司をはじめ皆がいぶかしんだ。
しかし橘花は、出雲大社に詣でたくなったから、と言って早々に出立した。
「瑠璃媛、世話になりました。皆様にも、お手間をとらせました。礼を申します。私のわがままを、お許しください」
別れの言葉を告げた橘花は、瑠璃が悲しげな表情を浮かべるのを見た。
貴女には、わかるのですね。これが、今生の別れになることが……。
心の中でそう告げた橘花は、振り返ることもなく輿に乗り込んだ。
*
都に戻った橘花は、賀茂斎王を退下したいと、今上帝に願い出た。
初瀬帝の子である今上帝は、幼少のころから橘花と面識があり、御所に上がった際にはなんどか遊び相手をしてやったこともあった。父親の面影や才能はほとんど受け継いでおらず、平穏な時代にふさわしい凡庸な帝だった。
身の振り方を問われた橘花は、荒廃した平野神社を再建し、そこで余生を送るつもりだと答えた。
「叔母上、いえ大斎王様の願いとあれば、致し方ありません。長きにわたる斎王のお勤め、ご苦労様でした。なにかお祝いの品を贈りたいが……」
橘花は、軽く頭を下げる。
「お心遣い、感謝します。では、清涼殿の庭に植わっている妹背の桜、それと、大津宮の庭に植わっている、もうひとつの妹背の桜を下さいませんか。平野神社に移植したいのです」
「妹背の桜……たしか、秋月帝が、お手植えになったという桜ですね。どうぞ、叔母上のお心のままになさってください」
帝は、そんなものでいいのか、と言わんばかりの表情を浮かべてうなずいた。
「ときに、叔母上は、先ごろ出雲にお出かけになったと伺いましたが、かの地は、いかがでしたか」
噂話に一番通じているのは自分だと自負していた橘花は、帝が意外に耳ざといことに苦笑した。
「よいところでしたよ。生きているうちに、出雲大社への参詣も叶いましたし。……ああ、そういえば、出雲の樋水龍王神社の瑠璃媛は、本物の神通力を持つ巫女です。親王様の憑き物、あの方なら容易く祓うのではないかと」
帝の表情が、真顔になり、そして綻ぶ。
「さすがは叔母上です。早速、手配しましょう」
勅許を得た橘花は、早速、平野神社の整備に取り掛かった。
古い社を取り壊し、新たに二つの社殿を合の間で連結して一体とした主祭殿を造営させた。夜を日に継いだ突貫工事が行われ、わずか一年足らずで落成となった。
祭神には、秋月帝、初瀬帝、風花東宮、衣通桜内親王を、それぞれ、今木、久度、古開、比売の四柱の神として祀った。合いの間には神剣『妹背』を安置し、その正面の神苑には、御所と大津宮に分かれていた妹背の桜を、二本一緒に並ぶように移植した。
橘花は、神社の定めとして二つの事柄を決めた。ひとつは、神苑には桜の木のみを植えること、もうひとつは、神紋を桜とすることだった。
*
今年もまた、妹背の桜は、都のどの桜よりも早く花を咲かせた。
夜風に舞う花びらの中、妹背の桜の梢高くには、朧な満月がかかっている。
橘花は、主祭殿の縁から、一人で月を見上げていた。
痩せこけた頬が、青白い月光を浴びて、ほんのりと桜色に染まっている。
年の暮れから、微熱と咳が続き、ときどき血痰を吐くことがあった。薬師の診立ては、胸の病だということだった。
「お父様……」
橘花は、月に向かって呼びかけた。
「もうすぐ、私もそこに参ります。ですが、その前にひとつだけ教えてください。……真実を。お父様と、あの方たちの真相を。お父様が亡くなり、風花兄さんと桜の行方も知れないままです。初瀬兄さんが史書に書かせた偽の記録によって、事実は歪められ、真実は闇に葬られました。私は、知りたいのです。あの事件が、いったいなんだったのかを」
満月の光が、すこし輝きを増して、橘花の耳に秋月帝の懐かしい笑い声が聞こえてきた。
『あの程度の小細工が、まだ見抜けぬのか。そなたは、鷹狩りに連れてゆけとせがんだ小娘のままだな。世の穢れから逃げ、男女の交わりも知らぬままのそなたでは、到底、吾らの真実には届かぬわ』
相変わらず厳しい父の言葉だったが、橘花は、まるで少女のような笑顔を浮かべた。
「はい、お父様。そう仰ると思っていました。でも、私の地獄耳は、よくご存知でしょう。今生で叶わぬのなら、そちらで必ず、聞き出してみせますわ」
満月に浮かぶように、黄櫨染の御袍に身を包んだ秋月帝の姿が見えた。その笑い声が、高らかな哄笑に変わる。
『楽しみに待っておるぞ、橘花』
秋月帝の隣では、初瀬親王がほがらかな笑顔を浮かべて、橘花を見下ろしていた。
そして、妹背の桜の梢からは、衣通桜内親王が艶やかな微笑を、風花東宮が照れくさそうな苦笑いを橘花に向けていた。
「桜。……風花兄さんっ」
橘花は、痩せ細って震える手を伸ばす。
そして、掌を広げて、まるで誰かに目隠しをするように、虚空を抱いた。
その頬に、ひとすじの涙が流れ落ち……。
妹背の桜に残っていた最後の花びらが、ひらりと舞い散った。
(了)