プロローグ
コンクリートの壁にはめられた大きな窓から月明かりが入り、リノリウムの床を幽かに照らす。
カツン、カツンとやけに響く足音を伴い、懐中電灯による光の輪が月光よりわずかに明るく廊下を移っていった。
右手に並ぶ、灯りの消えた教室の鍵を逐一確認しながら、彼は小さく身震いした。
それなりに厚着をしているとはいえ、夜ともなるとさすがに冷える。
左手に持っていた懐中電灯を右手に持ち替え、腕時計を確認する。
2時を少し回った頃。
見回りを終えたら、温かい茶でも飲んで少し眠ろう。
考えながら、先を見通す。
見回りはこの棟、この階で最後だった。
突き当たりには非常階段があり、そこの鍵を確認したら終わりだ。
その少し手前に屋上への階段があるが、常に閉鎖されている為、階段の前に余剰の机と椅子が無造作に積まれていて、見回りの度に邪魔だなぁ、と思っていた。
寒さから便意を催すが、すぐ目の前の扉で確認は完了である。
屋上への階段の向かいにトイレがあるが、彼は何となく、そこのトイレに入る気はしないのだった。
どうせなら、宿直室の近くにある、いつも行くトイレで用を足したい。
緊急の度合いは低く、寒さに肩を縮こませながら、突き当たりの非常階段の鍵を確認し終えた。
非常口案内板の緑光の下で小さく安堵の息を吐いて、来た道を戻る。
その足がすぐに止まった。
微かに風が流れた。
屋上に続く階段の先からだ。
懐中電灯を階段の上に向ける。
光の輪が扉を浮かび上がらせるが、完全に閉まっているのかどうかまではわからない。
風が流れたのなら、開いているのかもしれない。
手前にうず高く積まれた机と椅子に、彼は辟易とした視線を落とした。
肩幅のある彼では、机の下をくぐるのは厳しい。
仕方なしにいくつかの机を動かして、通れる程度の幅を確保した。
やれやれと内心で呟きながら、屋上に続く階段を上る。
案の定。
鍵が開いていた。
昼間にでも開けた学生がいるのか。
屋上への扉は常に施錠されてはいるが、内側からは簡単に開く。
鍵が開いていた以上、屋上も調べなければならなかった。
このまま施錠して、冬の寒空の下に締め出しを食らう誰かがいてはまずい。
ぎぃっ、と思ったよりは小さな音と、軽い手ごたえを返す扉を押し開けて、彼は屋上に出た。
正面に遠い夜景。
左手側に別の棟から漏れる明かりが見える。
奥行き五十メートルほどの屋上の中ほど、へりに女生徒が一人立っていた。
ぎょっとして彼の動きが止まる。
いつの間にか月が陰っていたせいで、屋上はひどく暗い。
別棟からの明かりに人型の影があって気付いたようなものである。
女生徒だとわかったのは、制服を身につけていたからだった。
薄暗い中でも、型でわかる。
彼が扉を開ける音には気付かなかったのか、女生徒は顔を別棟に向けたままだ。
その顔が下を向いているように見えて、彼は懐中電灯を向けることを躊躇った。
出来る限り近づいて、万一にも飛び降りるような素振りを見せた場合にはすぐさま手を伸ばした方が良いのではないか。
どうか飛び降りないでくれ、と切に願いながら、どくんどくんと高鳴る鼓動を意識する。
少しずつ、足音を殺して近付いて。
後少しで手が届く、と息を止めたまま手を伸ばす。
伸ばした手が空を切って、彼は声にならない悲鳴を上げた。
間に合わなかった。
(ウソだろ……?)
ここは6階建ての屋上だ。
下はコンクリートで、助かる見込みはない。
泣きそうになりながら、下を見るのにしばし躊躇し。
震える手を、屋上のへりにかけた。
へりはわずか五十センチほど高くなっているだけで、柵があるわけではない。
息ができなかった。
浅い呼吸を幾度も繰り返し、生唾を飲み込んで、おそるおそる下を覗き込んだ。
数回のまばたきで、涙がこぼれそうになった。
視界に入るのは、自分が吐く白い息。
そして――何の変哲もない地面。
(何も、ない……)
自分がひどく混乱していることには、何となく気付いていた。
こんなことならトイレに行っておけば良かったと、思考の片隅で考えた。
首から背中にかけて、ちりちりする。
ぞわぞわと鳥肌が立ち始めたのがわかった。
背後にある何かが強い圧力を放っていた。
危険――。
(今度、嫁さんにプレゼントでも買ってやるか)
完全に硬直し、動かない体――麻痺した意識。
(そういや、親父が小さい頃に連れてってくれた公園、まだあるかな)
荒い呼吸をしている割には、ちっとも楽にならない。
(……嫌だ)
涙が頬を流れた。
声は、出ない。
息が苦しい。
(お袋、風邪ひいたって)
何かが後ろにある――いる。
頭のてっぺんまで鳥肌が立っている。
(嫌だ、おれは……まだ)
遠くなりかけた意識に終止符を打つように。
とん、と何かが背中を押した。