昨夜の君へ
凍らせたグラスによく冷えたビールを注ぎ、勢いよく膨れ上がる白い泡が落ち着くのを待つしばらくの間、桜井は部屋のベランダから見える遠くの夜景をぼんやりと眺めていた。
梅雨の季節が過ぎて、厳しい暑さを伴う夏へと移り変わる前の僅かばかりの穏やかな時節。桜井の一日にとっての最良のひと時は風呂上がりにこうして毎日行う彼なりの儀式的な行為だった。
自分の体から湯気が立ち上がるのが見える。大粒の汗を背中に感じながら飲む小金色のビールが仕事の疲れを徐々に癒していく。彼はぎゅっと目を瞑り、ビールの刺激が喉から胃に向かって降りていくのを味わった。
その刺激はやがて彼の全身を包み込み、優しくにっこりと彼に微笑んだ。
「うまいな、やっぱり」と彼は言った。
いや、もしかしたら心の中で囁いただけだったのかもしれない。
4階建の小さなアパート、8畳一間の一室の狭いベランダだ。隣人との距離も近い。普段からあまり大きな音を出さないように心がけている桜井にとって、独り言と心の中の声との境界は曖昧になっている。
誰にも聞こえることはないという意味においては、どちらも同じことだ。
彼はビールが注がれたグラスを手に持ち、折りたたみ式のパイプ椅子に腰掛けている。
この部屋に引っ越してきた際、近所のホームセンターで購入したありふれたパイプ椅子だ。グレーの座面にベージュ色のパイプで構成されている。金具を引くとフラットになり、折り畳める。背もたれはなく、必要最低限の部品で作られている。
桜井は使い古した紺色のバスタオルを腰に巻き、上半身は裸のままでそのパイプ椅子に座っている。浴後の彼のいつもの定位置だ。目の前には夜の公園が広がり、遠くには市内のビル群が浮かんで見える。グラスを口に運びながら遠くのビルに視線を合わせる。
いくつかの高層マンションや背の高いオフィスビルの間に小さな建物たちがいくつも重なっている。部屋の中からはFMラジオの音が途切れ途切れにうっすらと聞こえてくる。
それは聞き慣れた昭和の歌謡曲だった。
愛する男を無邪気に裏切って、深く傷つけてしまったと後悔する女性の心情を歌っている。
消えない過ちというフレーズが桜井の胸の奥の思い出をくすぐった。眼下の通りを車が不規則に走り抜けていく音とラジオからの音楽の断片が奇妙に交差して、夜の帳に溶け込んでいく。
「うん」。
これも心の声なのか、それとも実際に発せられた言葉なのか。過去の淡い思い出から我に帰った桜井は、自身の生活の一コマに確かな幸せを感じていた。今日のこの時間が自分にとって有意義なものであるという確信が彼にはあった。それがとてもありふれた幸せだとしても。
彼はキラキラと輝く無数の光をまとったビル群を眺めていた。
それら多くのビルの中では今も誰かが懸命に働いているのだろう。しかし遠くから眺めるビル群は、そうした人間の営みからは完全に分離され、それ自体がまるで巨大な生き物のように強固な存在感を誇示している。桜井は手の中のグラスに注がれたビールの小さな泡に目をやった。ふいに現れては金色の液体の中をゆっくりと浮かんでいき、そして空気に触れて音も無く消える。それら無数の気泡は実に均一なサイズを保っている。遠くのビルたちの形状は分別がないと言っても良いほどに、あまりにも不揃いだ。
「スーパードライと一番搾り。味は違っても泡の形は同じということか」。
桜井は残っていたビールを一口で飲み干して、軽く吐息をこぼした。彼は満足そうな笑みを浮かべて向こうのビルたちを見ていた。
そして彼はある一つのビルに不意に視点を留めて、ゆっくりと徐々に自身の焦点をそこに合わし始めた。
そのビルは筒状の形状をしており、うっすらと灰色の光を放っていた。隣には最近オープンした外資系のホテルが並んでいる。そのホテルと比較すると一回りほど小さかったが、その特徴的な形から周囲のビルとは異質な存在感を醸し出していた。桜井は首を傾げて「あの場所にあんな建物があったのか」と思った。頭の中でその周辺の位置関係を再構築して、外資系ホテルを中心として主要なビルをマッピングしてみる。いくつかは正しい場所に収まったが、しかし一方で細部には自信がない。桜井は人間の記憶力の曖昧さに思わず失笑した。
「肝心なものは、覚えていないもんだな」。彼は小さな声で呟いた。先ほどまで体から勢い良く立ち昇っていた蒸気はすっかりと大人しくなり、桜井は体の火照りが治っていることに気がついた。これ以上このままの姿で居れば湯冷めしてしまうかもしれない。彼は円柱形のビルに視線を合わせたまま、そう思った。
「時間がある時に、ちょっとあのビルを探してみるか」。今度は声に出して桜井ははっきりとそう言った。そしてガラス戸を開けて部屋へと戻り、聞き慣れた歌謡曲のサビの部分を一緒に口ずさんだ。消えない過ちという言葉が部屋の中で何度か繰り返された。
朝からおよそ夕方まで、桜井は自らが所有する軽トラックでアマゾンの荷物を運んでいる。
配達エリアは自宅周辺と決まっていて、およそ半径1キロメートルの範囲の荷物を集荷して、それらを必要な場所へと運んでいる。十数年ほど勤めた会社を昨年退職し、僅かばかりの退職金で中古の軽トラックを一台購入した。アマゾンとの契約内容は決して手放しで喜べるほどの条件とは言えないが、男一人で暮らしていく分の収入くらいは保証されていた。何よりも誰とも話すことがない点が桜井は気に入っていた。配達員は単なる空気のようなものだと彼は考えていた。運ばれる荷物こそが主役であって、それらを運ぶ配達員は芝居の黒子のようなもの。配達や受け渡しの際に最低限のクオリティさえ保っていれば誰も彼のことを気にも留めないし、そこに余計な感情が介在することもない。仕事中は常に一人だが、自分の周囲には誰かの荷物が溢れている。人との距離感は、俺にはこれくらいでちょうど良いのだと桜井は満足している。そう、彼は自分の仕事と日々の居場所に満足しているのだ。
その日、夕方の四時頃には予定数の荷物をすでに配り終えていた。このまま集荷センターに戻り、今日の仕事は終わりにしようかと桜井は考えていた。交差点に侵入し、ハンドルを左に切った時に進行方向の先に例の外資系ホテルが待っていることに彼は気がついた。そうか、少しあの周りを探してみるか。桜井は口元に微かな笑みを浮かべてアクセルをゆっくりと踏み込んだ。軽トラックも気分良くその速度を上げた。
左車線をゆっくりと走りながら、外資系ホテルの周辺を回っていく。桜井の脳裏には夜に自室のベランダから見た円柱形のビルの姿が浮かんでいた。ぼんやりと灰色の光を放っている。四角いビルに囲まれた丸い筒状の建物。外壁は一面をガラスで覆われているようにも見えたが、夜だからはっきりとは分からない。手前に建つビルの陰になっておりその全貌は見えてはいないが、桜井には明らかに周囲のビルとは異なる存在に思えた。
何度か交差点を曲がったところで桜井は怪訝な表情を浮かべた。イメージしていた場所に円柱形のビルが見当たらないからだ。まだ日は浅いが配達の仕事をしている桜井にとって方向感覚は商売道具とも言える。元来、記憶力が良い方ことに加えて自分の方向感覚と空間把握能力に彼は多少の自信を持っていた。しかし実際にはそれから複数回、この辺りだと思う交差点を曲がってもビルは現れなかった。
桜井はバックミラーで後方の状況を確認してから右にウィンカーを出して、車をゆっくりと一方通行の道の路肩に停めた。エンジンを切り、車外に出る。一度大きく伸びをして通りの左右を見渡した。西陽が強く差し込み、路上に様々な建物の影を斜めに写しとっている。彼はますます不思議に思えてきた。ベランダから眺めたビルの場所は、おそらくはこの辺りのはずだ。他の建物との位置関係でも大きく外れてはいないだろう。
しかし実際に桜井の前の前にあるのは大きな筒状のビルではなくて、どこにでもある児童公園だった。
桜井は「ふん」と一つだけため息をついた。
まあ、今夜また風呂上がりに見てみようか。まさか消えて無くなっているわけじゃないだろう。桜井は白い軽トラックに乗り込み、スタートキーを押した。ググン、とエンジンが動き出した。それはかつての車のように自己を主張する起動音ではなく、どこか申し訳なさそうな弁明の声のようだった。その後、桜井はアマゾンの集荷センターに戻り、マネージャーに向かって今日の作業を報告した。一日で配達した件数とそれらの売り上げ合計。配達漏れがなかったか、顧客からの苦情や依頼はなかったかなど。桜井は彼よりもひと回りほど若い担当マネージャーに簡潔に報告した。マネージャーは「はい、はい」と機械的な相槌を重ねて桜井の業務報告を記録していった。
「今日もお疲れ様でした。また明日もよろしくお願いしますね、桜井さん」とマネージャーは言った。
「はい。ではこれで失礼します」。桜井はマネージャーに丁寧かつ簡素に応えて、集荷センターを後にした。
その日の夜、桜井は近所のスーパーマーケットで購入したいくつかの惣菜をテーブルの上に並べ、冷凍していた白米を電子レンジで温め直して夕飯を済ませた。稀に自分で料理をすることもあるが、桜井の食生活は近所での外食か惣菜や弁当などの出来合いの品がほとんどだった。それは彼が食に対してあまり関心がないことに由来している。ほどほどの品を適量食べることができれば彼は満足だった。彼は何にせよ余剰ということを嫌っていた。
桜井は卓袱台の上に大判のノートを広げて、今日一日の配達ルートの備忘録を記録していった。何時にどこに何を配達したのか、そして届け先の荷受け客はどんな人物だったのか。自分が車を走らせたルートをボールペンでノートに書き加えながら、順番に記録を綴っていく。これも彼の日課の一つだった。自らの仕事の業務効率を上げるためのトレーニングのようなものだと彼は考えていた。ともすれば単調になりがちな配達仕事に対して、様々な角度からの課題を与えることによって、配達という仕事がより立体的なものとなる。限られた時間にどれだけの配達を行うかという効率の観点と、自宅から半径1キロメートル圏内の社会の姿を把握することができる。人との接触を好まない桜井にとって、この副次的な効能の方が大切でもあった。
自分はこうした生活を過ごしながらも社会との接点は保っている。
荷物を届ける先には当然ながら誰かが生活していて、そこには人生が存在している。荷物を媒介として俺はそうした人たちの人生と自分の人生を重ねているのだと、桜井はボールペンをノートに滑らせながら考えていた。
それから三十分ほど、桜井はこれまでの配達記録を無言で読み込んでいた。過去のページをゆっくりとめくりながら、まるで何かを探すかのように。その姿はどこか異様な様相でもあった。自分が書いた記録の中に、自分がまだ気づけていない何かを探している。胡座を組んだ彼の背中からは、その何かに向けられた明確な強い意志が滲み出ていた。8畳一間の小さな部屋の中心に座る中年の男を一灯のオレンジ色の明かりだけが照らしている。部屋の四隅は仄暗く、ベランダのガラス戸から漏れ入る夜の光が桜井の顔をじっと照らしている。彼が一体どんな表情でノートに見入っているのかは分からない。
ただ、彼の背中からは何かにしがみついているかのような強張りだけが見てとれた。
しばらくして桜井は手元のノートを閉じて、クローゼットの中の衣装ケースの上に無造作に置いた。
ついでに衣装ケースから下着を一式取り出して、風呂の蛇口を開けて湯を張り始めた。いつものグラスを冷凍庫に入れて風呂に入る準備を順番に進めていく。防災用のラジオの電源を入れて、アンテナを伸ばす。昨夜と同じ番組から音楽が流れ始めた。それは今まで聞いたことのないJポップの曲だった。おそらくはここ数年に流行した歌なのだろう。
風呂上がりに桜井はいつものようにバスタオルを腰に巻き、冷凍庫からビールとよく冷やされたグラスを取り出して、ベランダの隅のパイプ椅子に腰掛けた。そしてエアコンの室外機の上にグラスを置き、そこにビールを注ぎ込む。大きく膨張する白い泡が一旦落ち着くのを待ってから、残りのビールをグラスの端からそっと注ぎ入れる。桜井は目の前の黄金色の飲み物を愛おしそうに見つめる。冷たいグラスをそっと口唇へと近づけ、そのままビールを乾いた喉奥へと送った。桜井は自ずと目を閉じて、食道をつたうビールの刺激と苦味を受け止めた。
目を開けた桜井は遠くに見える外資系ホテルの脇を見やった。
そこには今夜も確かに筒形のビルが座っていた。昨晩よりもどこか恥ずかしそうに外資系ホテルの陰に隠れながら、昨夜と同じように灰色の光を周囲に照らしていた。
「やっぱり、そうだよな」と桜井はボツリと呟いた。
そうだと思ったよ。
彼は心の中の自分にもう一度伝えた。室外機の上に置かれたグラスがその表面に無数の水滴を帯びて、主人の求めを待っていた。桜井は円形のビルを見据えたままグラスを手に取り、ビールを口に運んだ。先ほどよりもほんの少しだけぬるくなったビールが桜井の体の中に一斉に飛び込んでいった。
アマゾンの配達員になる前の桜井は市内の印刷会社で営業の仕事をしていた。
大学を卒業して何の気なしに就職した小さな会社だったが、思ったよりも居心地が良かったのか、気がつけば十年以上の年月が過ぎていた。その間に桜井は人並みに昇進を繰り返し、退職前は三人の部下の面倒を見るようにもなっていた。
桜井はあまり人付き合いが良いとは言えなかったが、部下に対しては礼儀をもって接していた。殊更に甘やかすのではなく、また理不尽な要望を一方的に押し付けるのではなく、個々の能力に応じた役割を彼なりに差配していた。それが彼にとっても部下たちにとっても合理的な配役であることに、疑いの余地はなかった。
ある晩の出来事だった。日頃の仕事の慰労を兼ねて、桜井たちは四人で馴染みの居酒屋を訪れていた。二十代から四十代までの男が四人、酒卓を囲んで楽しげに話している。店が提供する手作りにこだわった家庭的な料理の数々は独身男性にとってはそれだけで充分な御馳走だった。四人の箸はまるで宙を踊るかのように料理から料理へと次々にジャンプする。初老の女性店主がカウンターの奥から彼らの様子を微笑ましく眺めていた。自分の息子を見るような目線で。
桜井は主に部下たちの会話の聞き役だ。三人は会話の中でそれぞれの役回りをこなしながら、一つずつ話題を前へと進めていく。仕事での場面同様、彼らは自分の役割をきちんと理解しているようだった。時には私生活の話を交えながら彼らは酒や料理の注文を何度か繰り返して、気がつけば既に三時間ほどが過ぎていた。そろそろお暇しようか、明日も仕事だしな。桜井が頃合いを見て三人に告げた。そして彼は店主に対して軽く目配せをして、自身の鞄から財布を取り出した。部下たちは一様にまだ話し足りなさそうだったが桜井に無理強いすることはなく、各々の荷物をまとめ始めた。誰に言われるでもなく、彼らは財布から何枚かの札を取り出して桜井に渡した。一瞬、桜井は躊躇したが部下たちの笑顔を見て、彼らの気持ちを有難く受け取った。ご馳走様でしたと四人は声を揃えて女性店主に告げた。
桜井はこの夜、とても幸せだった。
店を出た四人は最寄りの駅に向かって歩き出した。先ほどまでの店内での会話の続きをそれぞれが楽しみながら、そして明日からみんなでまた頑張ろうと互いを励ましながら。この頃はインターネットの普及で印刷会社も苦境に立たされ始めていた。ネットに繋げば気軽に安価で印刷を注文できる時代になりつつある。桜井は自分が入社した頃の過去を思い出しながら、部下たちの現在の会話を聞いていた。
こうやって時代は変わっていくんだな、と彼は思った。適度に酒に酔ったからなのか、頭の中ではボブ・ディランがしゃがれた声で「時代は変わる」を歌っている。心地良い夜風と部下たちの笑い声が桜井の全身を包み込み、彼はひとときの時の流れに身を任せていた。
最寄りの駅で彼は部下の二人と別れた。そして桜井と最も若年者の三宅は再び歩き出した。彼ら二人の自宅は駅からさらに歩いて十五分ほどの場所にあった。互いの方角は正反対だから、桜井と三宅は結果的にここで別れることになる。駅の改札を通ってホームへと繋がる階段を登っていく二人を最後まで見送った後、桜井は三宅を見て何気なく言った。
じゃあ、お疲れ様、また明日な。すると三宅が即座に桜井に答えた。
桜井課長、後少しだけ時間良いですか、ちょっとお話ししたいことがあって。
桜井は少しだけ驚いたが、腕時計で時間を確認してから三宅の方を向いた。
いや、やっぱり今日はこれくらいにしておこう。時間も時間だしな。飲み足りないなら週末に付き合ってやるよ。桜井は笑顔でそう言った。
その言葉を聞いた三宅はわずかの間、無言で下を向いていたが次の瞬間に顔を上げて、自分に言い聞かせるように言った。
そう、ですね。はい、わかりました。じゃあ金曜の夜、必ず付き合ってもらいますよ。
すると桜井は答える。もちろんだ、それまでに相談したい話をちゃんと整理しておいてくれよ。大体お前は説明がうまくないんだから。
三宅は少し照れた仕草を見せながら、しかしその目は真っ直ぐに桜井を見ながら返事をする。
はい、わかりました。その声は少し緊張の色を帯びているようだった。
しかし桜井はその僅かな変化を気にも留めず、うんうんと上機嫌で頷くだけだった。三宅もつられて一応の笑顔を保ってはいたが、その内実は別の面持ちだったのかもしれない。
そして桜井と三宅は改札の前で別れた。桜井はぐるりと振り返って、自らの帰路へとその足を踏み出した。三宅は遠ざかっていく桜井の後ろ姿を見ながら、ジャケットからスマートフォンを取り出した。液晶モニターには何件かのLINEの着信バッジが赤く光っていた。三宅はため息を一つ吐き出して、スマートフォンの画面を指で横になぞった。その指はまるで腫れ物に触れるかのような嫌悪感を帯びていた。
翌日、勤務時間になっても三宅は出社して来なかった。あの後一人で飲んで二日酔いにでもなったのか、と桜井は訝った。他の三人にも三宅から連絡は届いていないようだった。総務部の担当者が桜井のデスクに近寄り、何か聞いていないかと念を押してきた。桜井は、後で電話をしてみますからと総務担当者に伝えた。
朝一番のアポイントを抱えていた桜井は会社を出て客先に向かう最中に、何回か三宅に電話をかけた。しかしいずれも繋がらない。留守番電話にメッセージを残して桜井は得意先との打ち合わせに向かった。桜井は少し不安だったが、目の前の仕事に集中しようと懸命に気持ちを切り替えた。
そして三宅の居場所が特定されたのは、その日の夕刻だった。
外回りを終えて帰社した桜井を総務担当者が待ち構えていた。彼は桜井を応接室へと呼び込んだ。桜井は促されるままに部屋に入った。部屋の中では社長と直属の部長がソファに腰掛けていた。桜井は彼らの顔を見回して、言った。
皆さん、一体どうしたんですか?
総務担当者が眉間に皺を寄せながら重たそうにその口を開き、先ほど三宅が見つかったと桜井に端的に伝えた。そして三宅がすでに死んでいることも。
いつもように風呂上がりのビールを飲みながら、桜井は物思いに耽るような表情で遠くのビル群を眺めていた。
あの夜もこんなふうに心地の良い風が吹いていたよな。
桜井はラジオの音に耳を澄ましながら、今夜はどんな曲が掛かるのだろうかと夢想していた。そしてビールをもう一口飲み、心の中の自分に囁きかけた。
やっぱり、見に行かないとダメだよな。
風呂に入ってしまったけど、仕方がないよな。
心の中のもう一人の彼は、目を細めて無言で何度も頷いていた。彼の同意の表情を確認してから、桜井は残りのビールを一気に飲み干して部屋の中に戻った。そして彼は押入れの中の衣装ケースから適当な服を取り出して、手早く着替えた。
部屋の照明とラジオの電源をそっと落として、彼は静かに部屋を出た。
桜井はアパートの駐輪場で彼の自転車の鍵を解錠して、ゆっくりとサドルに跨った。財布を持ち出していないことに気がついたが、桜井は躊躇うことなく自転車を漕ぎ始めた。近頃の電子決済という手段を桜井はあまり好きではなかったが、咄嗟の時くらいは利用しても良いだろうと彼は思った。もちろん、今夜の彼に何か買うべきものがあったとしてだが。
桜井は愛用の自転車をゆっくりと操りながら、外資系ホテルの方角へ向かっていた。気持ちの良い夜風を風呂上がりの体に浴びながら。地上からでは視線の手前にある大小様々なビルが邪魔をして、円柱形ビルのぼんやりとした光もどうやら見えてこない。桜井は少しばかり不安になったが、ほんの数刻前に自室のベランダから見た光の存在を思い出して、その不安を消し去ろうと努めた。なだらかなアスファルトの路面に、桜井が漕ぐ自転車の2つのタイヤが滑るように触れる。時折チェーンの微かな金属音が聞こえてくる。夜風と自転車の音だけが桜井の耳を癒していた。
もうすぐだろうなと桜井はおおよその場所を把握し、視線を上げた。外資系ホテルの白い壁面が近づいていた。桜井はベランダから見えた画角を慎重に思い出し、その方向に向かって自転車のハンドルを調整した。この角度のままで走れば、ちょうどホテルの右脇に「それ」が見えてくるはずだった。
しかし、しばらくして桜井の思惑は残念ながら外れることになった。桜井がそのことに気がついたのは、自身が円柱形ビルが建っているはずの場所に既に居ると咄嗟に理解した時だった。
桜井はありふれた小さな児童公園の中に、愛用の自転車とともに立っていた。そして彼はこの場所には円柱形のビルなど建っておらず、以前からこの児童公園であったことも思い出した。ベランダからの眺望では、地面に面した公園を見通すことは角度的に困難だった。たくさんの建築物や木々が障害となって低い景色は見えないからだ。昼間、仕事の合間に軽トラックで周辺を確かめた時は不思議な筒状の形をしたビルの姿だけを探し求めて、建物の位置関係から客観的な事実を求めることをしなかった。
桜井は思わず苦虫を噛んだように、歪んだ表情を見せた。
そして己の知恵の浅さを皮肉った。どうして俺はもう一歩踏み込んで考えないんだ。同時に桜井は大きな溜息をついた。彼以外に誰もいない静かな夜の児童公園の中で、その溜息は山中の木魂のように反響を繰り返し、そして消えていった。
あの夜だって、そうだったのだろう?
俺の眼は結局何も見ていなかったのだから。
心の中のもう一人の桜井が、またもや無言で頷いていた。
その暗い顔を大きく上下に何度も揺らしながら、その明るい二つの目は真っ直ぐに桜井を見つめたままで。彼の激しい同意の仕草は桜井に絶望にも似た後悔を呼び起こした。あの夜以来、桜井はこの後悔の感情とともに暮らしていた。それは消えては現れてを刻々と繰り返す、己の中に住み続けるもう一つの純粋な生き物だった。喜怒哀楽のあらゆる感情をその一身に含みながら、常に桜井の前に立っている。桜井は自分の中に潜むもう一つの存在を正しく認めながら、その彼との対話によってのみ今日までの自分を支え続けてきたのだ。
桜井は児童公園の隅にあるブランコに腰をかけた。黄色と赤色に塗り分けられたブランコはチェーンの部分が相当に錆びているようだった。桜井が体をそっと前後に揺らすと、曇った金属音が一定のリズムで小さく響いた。ベランダからの眺めではこの場所に円柱形のビルが建っていたのだ。しかしこの瞬間、自分の周りには建物はどこにも一切見当たらず、ブランコと鉄棒、そして小さな滑り台が黙って身を潜めているだけだ。桜井はブランコを降りて、公園の真ん中へと歩いた。そして周囲をぐるりと一周眺める。やはり確かに何もない。ただの小さな公園だ。いくつかの遊具と周囲に生い茂る木々や草花。昼間はきっと近所の子供たちが元気に遊ぶ声で満ちているのだろう。桜井は外資系ホテルの方を向いた。やはり位置関係は間違ってはいない。
ふう、と桜井はこの日何度目かのため息をついた。
そしてもはや諦めたように空を見上げた。深い紺色の空には小さな星々がいくつか見える。消えそうで消えない星たちの遠い明かり。それら星の数を数えながら、桜井は同時に奇妙な違和感に囚われた。そして桜井は次の瞬間にその違和感の正体を理解した。
上を向いた桜井の視界に映る夜空の範囲は、綺麗な円弧を描いていたのだ。視界の中の丸い夜空の外側は、地上からうっそうと茂る木々たちの葉先が邪魔をしている。桜井はおもむろに地面に仰向けで寝そべって、再び同じように夜空を見た。先ほどよりも視界の領域が狭まり夜空の範囲がぐっと小さくなった。そしてそれは完全なる正円の形状をしていた。
なるほど、な。
桜井は思わず鼻息を漏らして笑った。
こんなこともあるんだな。
桜井の中の「彼」も、桜井を見ながら笑っていた。
二人の男は小さな児童公園に寝転びながら、丸い形をした夜空を見上げながら声を出して笑っていた。
部屋に戻った桜井は再びシャワーを浴びて、余分な汗を落とした。ビールの代わりに安物のウィスキーをロックグラスに半分ほど注いで、冷凍庫から一欠片の氷を取り出してそっと加えた。指で軽く混ぜ合わせ、グラスを口へと運ぶ。強い刺激が鼻と喉を刺した。桜井は決して酒に強くはなかったが、毎日酒を飲んでいた。おそらくは、ごく軽度の依存症なのだろう。酒を飲む多くの人がそうであるように。
彼は今日の配達の記録をノートに記していた。いつものように異常なまでの集中力を誰もいない周囲に振り撒きながら。彼は何かに囚われたようにルートと配達先と荷物を記録していく。過去何度か配達した先は、桜井の頭の中に全てインプットされている。彼は新たな配達先の記録を記憶の倉庫へと運ぶ。
おそらくは、何かを見つけるために。
日課とも言える一連の作業を終えて、桜井はロックグラスを片手にベランダへと向かった。ラジオからは講談が聞こえてくる。いつもの音楽番組はすでに終了しており、若い女性の講談師が絶え間無く言葉を繋いでいた。桜井は話の筋を理解するよりも、講談師の声を単なる音として捉えてそのリズムを音楽のように楽しんでいた。
ガラガラと、まるで絵に描いたような音と共にガラス戸が開く。桜井はゆっくりと身を乗り出して外へ出た。夜の帷が一段と深くなり、空の色は濃紺へと移り変わっていた。星たちの光が先ほどよりも強く感じる。同様に遠くのビル群の光も、それらの輪郭が際立っていた。星明かりに照らされた桜井の顔は、どこか落ち着いた様子に見える。何かを受け入れる覚悟を決めているのかもしれない。ウィスキーを少し口に含み、その香りを鼻の奥へと送ってからゆっくりと飲み込んでいく。その間、桜井の視線は外資系ホテルの脇に固定されたままだ。彼の視線の先には円柱形のビルの姿が映っていた。
しかし、桜井はすでに知っている。
そこにビルのような建造物がないことを。同時に桜井にはぼんやりとした仮説が沸き起こっている。彼はそれを確かめずにはいられない。桜井は今まで以上に遠くの一点に焦点を強く合わせる。児童公園の正確な場所を頭に思い描き、目の前に広がる景色に重ねながら。
そして僅かの時間の後、桜井の仮説はするりと確信へと昇華した。
桜井は目を見開いて、今まで自分が信じていた景色が一瞬で姿を変える様を文字通り目の当たりにした。
それは先ほどまでの姿ではなく、そこには世界の真の姿が浮かび上がっていた。桜井が先ほどまで円形のビルだと思っていたのは、児童公園から立ち昇る光のシルエットだったのだ。その灰色の光は公園を囲む樹木に沿って、その内側に均一に浮かび上がり上空へ向かって伸びている。まるで公園自らの意思で空に向かって光を放っているかのように。しかし遥か上空まで到達するほどに強い力はなく、ましてや外資系ホテルと同じ高さにまで届くこともなく、地上から数十メートルほどの高さで突然にその力を失って、光が切れてしまっているのだ。
地上から中空に伸びる筒状の光こそが、桜井がベランダから見ているものの正体だった。その光が一体何なのかは、桜井にはまだ分からないのだが。
ロックグラスの中の白く濁った氷が、カランと一度だけ音を立てて動いた。
その日、桜井は法廷の小さな傍聴席で裁判の行方を見守っていた。傍聴席と目の前の法廷とは簡素な木製の柵で隔てられていて、桜井の他に数名の傍聴者が同じように簡素な席に座っていた。桜井はその一番右側の最前列に座っている。思ったよりも法廷の部屋の内部は小さく、そして全体的に極めて質素な作りをしていた。床は明るいグレーのカーペットが一面に敷かれ、茶色の法卓、発言台が所定の場所に置かれている。桜井は部屋の中を見まわしてからスマートフォンをミュートにした。換気扇の微かな回転音だけが部屋のどこからか聞こえていた。
しばらくして被告が係員に連れられて法廷へと入ってきた。裁判官が被告人の確認を行う。
被告人は「はい、間違いありません」とだけ小さく呟いた。そして次に検察官がその場に立ち上がり、手に持った起訴状を朗読した。そこには被告に対する訴えが簡潔に記されていた。法廷の中に配置された家具同様に、余分な飾り気のない質素な文言で。桜井はその間ずっと被告人を見ていた。男が入廷して以来、彼の焦点はずっとその男に固定されたままだ。裁判官や検察官、弁護人の言葉も桜井の耳には入っていなかった。被告人の姿形や僅かに発せられる声を記憶することだけに桜井は自らの神経を集中していた。そこに余計な雑音が介在する隙は全くなかった。桜井はもはや冷たい金属のような視線を目の前の若い男に注ぎ込んでいた。まるで鉄の鎖でその男の全身を縛り付けるかのように。
この日の裁判が終了するまでの一時間ほどの間、桜井はその黒く重い鎖を一時も緩めることはなかった。
三宅の死はニュースとなり、いくつかのテレビや新聞でも報じられた。帰宅途中の若い会社員が何者かに襲われて、翌朝に死体で発見されたと伝えられた。頭部は鈍器のようなもので強く打たれて損傷しており、それが直接の死因にもなっていた。
その死体は河川沿いのサイクリングコースの雑木林の奥で地元住民によって見つけられた。いつもの朝の散歩中に不審な人陰が見え、近づいてみるとグレーのスーツを着た男が草葉の上に頭を埋もれさせて蹲っていたらしい。男の周囲には頭部から流れた赤黒い血が広がっていて、その一部はすでに辺りの土へと吸収されていた。発見者は、男がすでに死んでいると一目で理解したようだった。その初老の女性は即座に警察に通報をして、最寄りの派出所から警官が到着するのをじっと待った。目の前で蹲って死んでいる男が、もしや再び動き出さないかとじっと見守りながら。しかし彼女の疑いをまるで無視するかのように三宅は微動だにすることもなく、ただその場に無言で蹲って死んでいるだけだった。
三宅の死の翌日から、桜井たちが働くオフィスにも警察の関係者が何度か訪れて、事件の捜査が着々と進められた。桜井も何度か事情を聴取された。一度目は会社の応接室で、そして二度目以降は最寄りの警察署の取調室の中で。事件を担当していた五十代の刑事は実に親切で物腰も柔らかく、桜井は一連の事情聴取の間、一度も不快な気持ちにはならなかった。それが桜井にとってせめてもの救いだった。
捜査の過程において、徐々に三宅が置かれていた状況が明らかになってきた。それは完全に彼の私生活の範疇の出来事で、桜井をはじめ同僚の誰も詳しくはその事情を知らなかった。三宅は学生時代の同級生から度々恐喝を受けているようだった。なぜ三宅が同級生の要求するままに金を渡していたのか、その具体的な理由について警察は関係者の証言などを参考にしながら調べているようだった。いかに学生時代からの関係とは言え、三宅もすでに社会人であり分別のある大人だった。確かに気の弱い部分もあったが悪友の無心を一方的に聞き続けるとは思えなかった。
桜井は担当刑事から大枠の説明を聞いて、素直に愕然とした。当たり前のことではあるが人には他人が思いも寄らぬ一面が存在している。会社での三宅からは想像もできない事実が桜井の眼前に突きつけられた。そしてあの日の夜、三宅がつぶやいた言葉が桜井の脳裏に鮮明に蘇った。
桜井課長、後少しだけ時間良いですか。
ちょっとお話ししたいことがあって。
桜井は三宅の言葉を思い出しながら自身の両手に汗が滲むのを感じた。
そして同時に息が詰まってきた。
その表情は一瞬にして青白く変容していき、みるみる血色を失っていった。
心臓の鼓動が強く、そして早くなる。その一つ一つの鼓動に合わせて桜井の気持ちは一段ずつ落下していくように狼狽していった。
全身から力が抜けて、ついには視界が狭まった。
そして桜井は確信に似た一つの答えに自らの思考の中で辿り着いた。
あの夜、三宅が桜井に相談したかったことと、彼の死との関係を。
その日の裁判は予定通りに終了した。
この冒頭手続きを皮切りに実質的な審理が進んでいき、数ヶ月後には被告人に対して一審の判決が言い渡されるだろう。次の公判も平日に開かれるため、桜井はそう何度も傍聴席に座ることはできない。そして桜井は警察から事前に聞いた情報により被告の男が無罪になる可能性があることも知っていた。物的証拠の不在や当時の状況など、明確な意思を持った殺人罪には問いにくいという事実を。桜井と別れた三宅が川近くのコンビニの前で容疑者の男と会う場面はその店の防犯カメラに映っていた。二人は互いに何かを呟いた後、近くの川の方へと向かって歩き出した。その後も川の橋に付けられた防犯カメラが二人の姿を捉えている。しかし、映像として残る二人の姿はここまでだった。川沿いのサイクリングロードにも一定区間ごとにカメラが設置されているが、二人が向かった先はあいにくそれらのカメラの死角となっている場所だった。
そして何よりも、三宅の後頭部を強く打ち砕いたであろう鈍器らしき物的証拠が見つかっていない。損傷した頭部表面に付着した組織片を分析したところ、三宅は金属製の何かで数回殴られたらしいが、それが何かを特定することができていない。三宅との日常的な関係において、この容疑者が極めて疑わしい人物であることに間違いはないが、彼が三宅を殺害したという証拠がどこにもないのだ。それでも警察は容疑を固めて事件を検察へと送った。そして検察は被疑者を起訴した。男が無罪になる可能性を十分に含みながらも。九割近い有罪率を誇る日本の検察にとって、ある種異例とも言える判断を下したのだ。
桜井はその日以降、日々目の前の仕事を続けながら、やがて訪れる裁判の結果を静かに待っていた。その結果が三宅本人や彼の遺族に友人たち、そして桜井が到底納得できる結末ではないとしても。
その日もいつも通りに仕事を終えて、桜井は駐車場の決められた区画に軽トラックを停めて、彼はアパートとは反対の方向へと歩き出した。手に何本かの色とりどりの花を持って。
桜井はゆっくりと歩を進めて目的の場所へと向かう。道路の脇から石造りの階段を降りて、川沿いの道へと出る。深い木々と上空の薄い雲が川沿いのサイクリングロードを太陽の光からそれとなく守っている。夕方の時間は人通りが少なく、散歩をしている老人が数人見受けられる程度だった。川の水面が雲の切れ間から覗く西陽に照らされて、きらきらと細かく光っている。穏やかな川の流れに数羽の水鳥たちが、その小さな身を委ねていた。
しばらくして桜井は目的の場所に着いた。彼は膝を折って前方へかがみ込み、手に持っていた花束を地面の上にそっと置いた。桜井の前にもすでに誰かが訪れたようだった。数本の缶ジュースやビール、そして同じような花がすでに捧げられていた。缶ビールの銘柄は三宅が好んで飲んでいたキリンのクラシックラガーだった。缶の表面に細かな水滴が付いてあり、まだ冷えているのが分かる。おそらくはつい先ほど供えられたのだろう。横になった花のいくつかは萎れてもうすぐに枯れそうだが、きっとそのまま土へと還ることになるのだろう。桜井は目の前で手を合わせて静かに目を閉じた。散歩中の一人の老人が桜井の姿に目を留めて、黙祷を続ける彼をじっと見ていた。おそらくはこの老人もここで起きた事件のことを知っているのだろう。彼は小さく頷き、そして伏せ目がちに再び歩き出した。湿った風が木々の隙間を器用に通り抜けて、強く目を閉じる桜井の頬を触って、どこかへと消えていった。
その日の夜、桜井はベランダから三宅の発見現場をぼんやりと眺めていた。それは昼間に彼が黙祷を捧げていた場所だった。南を向いた部屋のベランダからはその場所は西側に位置しており、折り畳み椅子に腰掛けた状態でかろうじて視界に入れることができた。もちろん深い木々に覆われていて、ベランダからの眺めでは供物が捧げられた地上の様子までは見えないが、桜井には正確にその場所が分かっていた。彼は三宅の最期の場所をいつでも自室から確認することができるようにこの部屋に引っ越してきたからだ。
桜井はビールを飲み干してから、まだ水滴の付いたグラスを室外機の上に置いた。彼はしばらく林の中を見続けた後に、ふと視線を左へと外して外資系ホテルの脇に浮かんでいる、例の灰色の光へと視線を移動した。反射的で無意識な動きのままに。灰色の光はベランダからは南西の場所にあり、三宅の発見現場からは直線距離で数百メートルほど離れていた。
今も灰色の光は変わることなく夜空にぼんやりと浮かんでいた。
桜井は決してビルではない何かの光を遠くから見つめていた。そして視線を再び三宅の最期の場所へと移す。そうして次第に彼は交互に二つの箇所を見るようになった。頭を左右に振る、無意識の単純な反復動作を繰り返しながら。どこかに二つの場所の共通項を無意識に探しながら。
すると、桜井はぼんやりとした一つの解のようなものに突然触れたような気がした。今自分がいる自室のベランダ、次にこの世を去った三宅が発見された林の中の場所、そして外資系ホテルの脇の小さな児童公園から立ち上がる灰色の光。その3地点を結ぶと当然ながら歪な三角形が形成される。桜井はおもむろに頭の中で三角形のエリアをイメージする。夜の暗がりの中に、目には見えない想像の光で3点を結ぶようにして。その三角形を眺めているうちに桜井はその中央付近に古びた長屋が建ち並んでいることに気がついた。ちょうど川沿いのサイクリングロードに向かって続くなだらかな坂の横、道路に沿って半ば強引に建てられたであろう四軒の木造家屋。ベランダからは手前の高い木々に邪魔をされてその外観は僅かにしか見えないが、桜井は彼の記憶の中でその建物の姿を完璧に再現していた。
建物自体は昭和の時代を感じさせる一般的な長屋の構造だが、その外壁は赤い煉瓦に変えられており、それによって更にレトロな雰囲気を生み出している。自転車道の深い林を背にして、その正面は車道に隣接している。入り口の前は人一人が歩けるのが精一杯の幅しかなく、車道を勢いよく走る車が近づいてくれば思わず身を避けてしまうほどだ。その四軒の長屋のうち、最も左側に位置する一軒の家。その二階建ての古びた家の遥か上空に、3つの地点を結ぶ三角形の中心地点が存在していた。まるで3つの地点が、その一軒の長屋を桜井に指し示しているように。桜井はこの奇妙な偶然をどのように受け止めて良いのか考えていた。本当に偶然なのか、それとも何かの意味を含んでいるのか。もし後者であるならば、それは桜井がかねてから探している答えへと導いているに違いない。
なぜなら、桜井はその家に一度も荷物を配達したことがなかったからだ。
もしもその家に桜井がすでに一度でも配達したことがあったのなら、桜井はきっとあの男に出会っているはずだった。三宅を殺した、あの男に。
あの日の法廷の場で両目を伏せながら、わずかに震えていた男に。
時刻は夕方の五時を迎えようとしていた。
高いビル群の隙間から、太陽がこの日最後になるであろう光を懸命に放っている。何人かの子供たちが息を切らせながら公園の中を走り回っている。営業用の黒い鞄をベンチの脇に置き、三宅はジャケットの中から加熱式タバコを取り出して、そのスイッチを入れて静かに口にくわえた。薄い灰色の煙がふわりと浮かび上がり、三宅の顔のまわりを彷徨った。茶葉を燻したような独特の香りが三宅の鼻を刺激した。彼は何度か大きく息を吸い込み、そして煙と共に吐き出した。目の前の大きなホテルはどこまでも無機質で、そこに無数の人々が一時的に滞在していることが現実とは思えなかった。それらを見つめる三宅の視線は力無く、ただホテルの一室から一室を順々に移動していった。何の目的も持たないままに。
借りた金を返すために自らが犯した過ちを、三宅はただ悔いるだけだった。日々の外回りの営業を終えてオフィスへと戻るまでのわずかな時間をこうして公園で過ごすことが最近の日課になっていた。そして彼は自分の罪をどうやって償おうかと内省していた。会社に戻って、今日こそはきちんと話をしようと三宅は毎日決心していたのだが、実際にはその思いを果たすことができないでいた。いくつかの報告事項と簡単なミーティングを終えて明日の業務の準備を整えた彼は、斜め向かいに座る上司の様子を何度か伺うが、肝心の言葉を紡ぎ出すことができない。
三宅は、臆病な自分にただ辟易とするばかりだった。
彼は会社の金を横領していた。
正確に言えば、彼が自らの懐に着服しているのではない。
仕入れ業者からの請求金額が水増しされており、その過剰分の金が仕入れ業者から第三者へと渡るようになっていた。その第三者とは三宅の旧友でもある加藤だった。あの日の法廷で桜井が一時も目を離すことのなかった男。
加藤は三宅にオンラインギャンブルの快楽を覚えさせて、気がつけば多額の借金を抱えさせた。泡のように消えていく金を取り返そうと三宅は更なる借金を重ねていった。真面目な性格が逆に仇となり、小さな好奇心で始めた賭け事が蜘蛛の巣のように三宅をがんじがらめにした。彼の精神は急激に弱り始め、加藤がそっと囁いたことが唯一の解決策だと三宅は反射的に自分を信じ込ませた。加藤は三宅にある会社を紹介して、定期的に仕事を発注するように仕向けた。三宅は加藤の指示に従い、それらしい理由をいくつか見繕って上司を説得してその会社との取引口座を開いた。三宅の仕事ぶりを評価していた桜井にとっては三宅の説明は理に適ったものであり、彼は何を疑うこともなく決裁の印を書類に押した。自慢の部下が新たな発注先を開拓してくれたと気分が晴れやかになったほどだ。そして、三宅は会社の金を加藤へと渡し続けることになった。
児童公園の端のベンチに座りながら、三宅は二本目の加熱式タバコを燻らせていた。そろそろ会社へ戻る時間が近づいていた。今日こそは桜井課長に事の全てを話そうと、三宅は眉間に皺を寄せていた。そして会社の判断に従って警察に出向こうと。自分にその覚悟が本当にあるのかと、渇く喉に一塊の唾を飲み込んで、三宅は思い切って立ち上がった。遠くの地平にまで傾いた太陽があらゆる存在の影を大きく斜めに歪ませていた。影たちは決して切り離されまいと、自分たちの主人に必死に掴まっていた。
その夜、冷蔵庫の中にはビールが入っておらず、桜井は渋々ながらウィスキーを炭酸水で割ってハイボールを作った。小さな黄色いボトル入りのレモン果汁を数滴だけ落として、小さな冷凍庫で水道水を凍らせただけの不揃いの氷をいくつか加える。箸でゆっくりと掻き回して、グラスの中の温度を一様に慣らしていく。風呂上がりの儀式に僅かな差異が生まれたが、桜井は気を害することなく、バスタオルを腰に巻いたままでベランダへと出た。
ハイボールの炭酸が桜井の喉を刺激する。無数の小さな泡が喉の奥に張り付いている気がした。まだ、頭頂部からの汗は止まらない。いつもより長めに湯船に浸かっていたことで、桜井の体温は思ったよりも上昇しているようだった。
のぼせそうだな、と桜井は思った。
そして冷たいアルコールの液体を体内へと流し込む。しかし桜井の視線はいまだ強い熱を帯びたまま、遠くに見える一軒の長屋へと張り付いたままだった。
おそらくは、加藤が住んでいるはずの家に。
桜井は迷信めいた話や非科学的な出来事を露ほどにも信じていない。世の中の事象には必ず原因が存在していて、そこから結果に向かって幾つかの道が広がっているだけだ。もしかしたらその道が外部からの影響で多少は曲がることがあっても、最後には必ず結果へと繋がっていくはずだ。桜井はこの考えに一切の疑いを持っていない。だから児童公園から正体不明の光が今も放たれているなど桜井には俄かに信じることはできなかったし、三つの地点を結ぶ三角形の中心に偶然存在している家屋に、しばらく探し求めていた男が住んでいるなど、到底受け入れることができないことだった。しかし桜井はあの夜に三宅が死んでからというもの、自らがある一つの考えに囚われて、永く勤めていた会社を辞めた経緯などを思い出し、目の前の因果の道が示す先に思いを寄せた。
すべては俺がすべきことに繋がっているはずだ。
ハイボールをすでに半分近くまで飲み、これ以上体温が上がらないように剥き出しの上半身に夜風を浴びながら、桜井は自ずとそう考えるようになっていた。むしろ、それが自然な考えのように彼には思えたのだ。
理解不能の現象や、ただ辻褄を合わせただけの都合の良い推論も、そのどれもが俺をある結末へと導いているのだろう、と。俺はあの古ぼけた家屋の軒先で加藤と対峙して、そして三宅の死の「償い」を与える。そのために俺は一年前に会社を辞めて、こうしてアマゾンの配達員になったのだから。おそらくは事件現場の周辺で暮らす男の居場所を探すために。
そして、その日の翌日に桜井は計画を実行した。
彼は兼ねてから準備していた通りに荷物を揃えていつもの作業着に着替えた。白い軽トラックを長屋の近くに停めて目的の家屋の玄関チャイムを鳴らした。不在であれば、また訪れれば良いことだ。
ドアがガチャリと音を立てて開き、桜井はその家の住人と目を合わした。
紛れもなく、加藤がそこにいた。桜井は加藤の目をじっと見つめた。加藤は無言で立つ配達員に怪訝な表情を浮かべたが、特に何かを怪しむ素振りは見せなかった。
「何ですか?」と加藤が言いそうになった時、桜井は素早く身を踏み込んで家の中へと押し入った。
加藤の口から驚きの声が聞こえそうになった刹那、玄関のドアが静かに音を立てて閉まり、二人の男をゴクリと飲み込んだ。
家の中では何かの音が断続的に響いたが、しばらくしてその音も止み、ただ静寂だけが家全体を包み込んだ。
どうやら、桜井は彼の目的を果たしたようだった。
冷蔵庫から冷やしておいた一本の缶ビールを取り出して、台所の戸棚にしまっておいたコンビニのレジ袋へと入れた。玄関先にぶら下げていた薄手の黄色いジャンパーをさっと羽織り、履き慣れたキャンバス地のスニーカーに両足を入れる。
そうして加藤は家を出た。
目の前の車道には車の姿は見えない。彼は汚れた白線に沿って家の脇へと進み、川沿いへと続くコンクリートの階段を一段、また一段とゆっくり降りていった。空は薄い灰色に曇っており、肌に強い湿気を感じた。このところは蒸し暑い日が続いていた。
加藤は冷たい缶ビールを入れたレジ袋を片手に持ったまま、自転車道を少し歩いた。その顔からは何の感情も伺い知ることはできないが、どことなく緊張で引きつっているようにも見えた。視線はこれから自分が進んでいく木々の間をじっと漂っている。周囲には人影はなく、雲の隙間から見える太陽が徐々に傾き始めていた。
加藤はしばらく林の中をゆっくりと歩いて、そしてある場所で足を止めた。雑草で覆われた目の前の地面には缶コーヒーと花束が供えられていた。加藤はレジ袋から冷えた缶ビールを取り出して缶コーヒーの横においた。それは三宅が好きなビールだった。取り出す時にレジ袋が擦れる乾いた音が聞こえた。そして缶ビールの冷たさが指を伝っていく。
加藤は両膝を地面へ付けて深々と頭を垂れ、顔の前で手を強く合わせて目を閉じた。そして亡くなった者に対する哀悼の意を心の奥底で思いながら、深い絶望の海に放り出された。強く閉じた瞼の端からは大粒の透明な涙が溢れ出して、同じように強く結ばれた唇の端へと流れ落ちた。彼の全身は小刻みに震え出し、体を支える膝までも揺れ、頭は上下に振動していた。喉の奥から嗚咽の音が不規則に漏れる。
深い緑に覆われた林の中で、男が途方もない後悔と懺悔に押し潰されていた。
あの夜、この場所で二人は口論となり感情を容赦なくぶつけ合う中で揉み合いとなり、互いの胸元を掴んだまま地面へと打ち伏した。加藤はその場に転がっていた金属製の鈍器のようなものを咄嗟に手に取って、半ば盲目的に振り回した。次の瞬間にそれは三宅の後頭部に強く打ち当たり、三宅は微かに呻き声を発した後で力無く崩れ落ちた。立ち上がった加藤は目の前に広がる光景に恐ろしくなり、咄嗟にその場を離れて走り去った。
手に持っていた凶器を側川へと思わず放り投げたのは、自分が三宅を殺してしまったという現実から反射的に目を背けるための行為だった。
本当は、自分の罪を認めて罰を受けるべきだったんだ。
加藤はあの日から何度も同じ言葉を心の中で繰り返している。
自供すれば、その願いは簡単に達成できたはずだった。それでも彼は自らの身を護ってしまった。
罪には問われたが、罰を受けることはなかった。
それが加藤をさらに苦しめた。
彼は三宅を唆した横領についても自供したが、加藤が望むような捜査は行われなかった。
殺意はなかったが、殺人を償いたかった。そのために自分が何をすれば良いのか、加藤はすでに分からなくなっていた。こうして三宅の死んだ場所を定期的に訪れて、ただ手を合わすことしか加藤にはできないでいる。
それが如何に無意味な行為だと分かっていても。
加藤はあの夜の三宅の姿を思い出し、この日もただその目に涙を浮かべているだけだった。




