第一節.出遭いの夜
瞼の裏に浮かぶのは、最初の記憶。
立ち止まっていた俺の人生が動き出した瞬間。
高校三年生の一月、俺はその日、現代に息づく神秘と邂逅する。
既成の世界は瓦解し、曖昧な神秘が世界を構築する。
これは、正義を探し続ける物語。
◇
淡く煌めく月明かりの下。
人の気配などあるはずのない廃ビルの屋上に、二つの影が立っていた。
黒いコートに身を包む長身の青年。
そして、夜風に長い髪を揺らす一人の女。
「公安から派遣された執行官、赤城晃一だ。お前が申請者の御門玲奈で間違いないな」
「うん、来てくれてありがとう」
簡潔で、温度のない確認。
それに対して、あまりにも軽い返答。
そのやり取りは、この街の異常さとはあまりにも噛み合っていなかった。
——申請日:2020年1月11日
——申請者:御門玲奈
申請内容。
霞坂市全域にて、半年前より発生している霊獣の異常増殖。 その真相解明、及び霊獣の駆逐のため一時的協力を要請。
本来、この種の申請が即時に受理されることはない。 複数段階の審査と検証を経て、ようやく派遣が決定される。
だが今回、それらはほとんど省略された。
それが意味することは、一つ。
——それだけ、この案件は異常だということだ。
「まさか、申請から一ヶ月足らずで来てくれるだなんて思っていなかったよ」
「この件は、我々としても見過ごすことはできない。だからこそ、この件は早期に潰す必要がある。御門、お前にも引き続き協力してもらう」
有無を言わせない口調だった。
「今回派遣された執行官は、俺を含めて二名。……余裕のある数じゃない。増援は当てにするな。この規模で動ける人員は限られている」
「そう、わかった。で、そのもう一人は——」
御門の話を遮るかのように、勢いよく屋上の扉が開かれた。そこにたっていたのは、赤城と同じ黒いコートを羽織っている少女だ。茶髪のショートヘアを揺らし、息をあげている。
「三輪葵高等執行官、です!遅れてしまいました!申し訳ありません!」
勢いよく頭を下げる。
その動きは真面目そのものだったが、どこか空回っているようにも見える。
「声がでかい。それとお前は遅刻しすぎだ……これが派遣されたもう一人の執行官だ」
「あなたが御門玲奈さんですか!?よろしくお願いします!」
一歩、ぐっと距離を詰める。
「よろしく、葵ちゃん」
間髪入れずに返す御門に、三輪はぱっと顔を明るくした。その反応は、場の空気を一瞬で塗り替えるほどに軽かった。
「我々はこれから二週間ほど調査の時間を頂く。二週間後の22:00に調査内容を共有したい」
「わかった、いいよ。場所はこのビルでいいかな」
そう言って踵を返す。
「えっ、もう行くんですか!? もうちょっとお話――」
「黙れ。遅刻したお前が悪い」
取りつく島もない一言。
三輪は不満げに頬を膨らませながらも、小走りで赤城の後を追った。誰もいない静かな屋上でただ一人。心を空にするように、御門は星空を眺めていた。
——夜風は、微かに熱を帯びていた。
◇
夜の十時。住宅街を一人で歩く。半年前からこの街を騒がせている、『連続少年少女失踪事件』の影響からか、夜の街は不自然なほど静かだった。
「部活、遅くなっちゃったな……」
その日は一月の終わり。夜であるにも関わらず、やけに空気が生ぬるく、気持ち悪かった。
静かな路地を歩き、いつもの角を曲がった、その先。静寂を塗り潰すように、叫び声が響いた。
「……は」
四足の獣。だが、知っているどんな動物とも違う。
歪に膨れた筋肉。異様に長い前脚。
そして何より——地面に、誰かが倒れていた。
まだ、生きている。その上に、獣が覆いかぶさっていた。噛み付く音。肉を引き裂く音。
喉が潰れたような、声にならない悲鳴。
生まれたての赤子のように、すでに本来の機能を失った四肢をぴくぴくと動かし抵抗している。
目の前の現実を受け入れられないまま立ち尽くす。
——助けないと。
一歩、踏み出そうとした。けれど、その足は地面と縫い付けられたかのように動かなかい。
目の前で、誰かが殺されている。それでも、動けない。呼吸が浅くなる。喉が締め付けられる。
俺が助けなきゃいけない。
そんな事は分かっているのに、その一歩が踏み出せなかった。
気付いた時には、体は獣から背を向け走り出していた。恐怖が体に纏わり、麻痺したように上手く動かせない。それでも、走った。怖い、逃げたい、でも助けないと、それでも死にたくない、どうかただの夢であれと様々な感情が脳を支配する。
聞こえてくる獣の息遣い、足音が今にも途切れそうな意識の隙間を埋めるように蝕んでいく。
ただ、死にたくないと幻想う。そんな、ささやかな現実逃避は、残酷な現実を以って打ち砕かれる。
「え、うそ」
逃げた先は行き止まり。それに気付いた時には遅い。地面を蹴る音が、遅れて聞こえた。
恐る恐る振り返る、約五十メートル先に在るのは異形の獣。漂う血の匂いと、住宅街にそぐわないむせ返るような獣の匂いが鼻腔を刺し、脳内を侵していく。
一瞬でもを抜けば、気を失いそうな緊張感。
ずしん。
一歩、獣が歩みを進める。
ずしん。
獣は跳躍し、眼前の獲物に牙を向ける。
振り下ろされる前脚。避けられない。反射的に身を小さくする。
死ぬ、と理解した直後。
幾つもの光が、獣の胴体を貫いた。
「っと、ギリギリセーフ。大丈夫?怪我はないかな?」
間の抜けた声が、やけに現実的に耳に届く。
俯いた視線を上げるとそこには、月明かりの下一人の女が立っていた。
煌めく星空を背に、風に揺れる長い髪が淡く光を反射する。その姿は、あまりにも現実離れしていて、さっきまでの光景と、うまく繋がらない。
場違いなほどに、綺麗だった。恐怖で強張っていた身体が、ゆっくりと緩んでいく。
「君、立てる?」
「ありがとうございます」
女の手を借り立ち上がる。自身の冷たく震えた手とは対照的に、差し出された手は温かかった。
「……あの」
一度、言葉が途切れる。
「……さっきのあれ、なんなんですか」
「それを聞いたら君、もう元の生活には戻れないかもよ」
「それでも、聞く?」
女は首を傾け、俺に薄く笑みを向ける。
「......さっきの、あのままだったら——多分俺も、死んでましたよね。それに、俺は……あの人を、助けられなかった。だったら、知らないままの方が.....怖いです」
呼吸がうまくできない。何かを考える前に、恐怖からか、あの時何もできなかった悔しさか、涙が溢れていた。
「そっか……」
その表情が、わずかに柔らぐ。
「それなら——教えてあげる、でも場所を変えよっか」
そう言い女は、ついてきなとハンドサインをし何も言わないまま歩き出した。
◇
辿り着いたのは街の西側の最果て。
廃墟の家が立ち並び、地元では心霊スポットと呼ばれている場所の一角。約三階建てのコンクリートでできた廃ビルだった。
「……ここ、ですか」
「うん、中入って」
女に手を引かれ、廃ビルに入っていく。ドア付近にある、スイッチを押し無機質なコンクリート仕立ての部屋に淡い光が灯される。
「そこ、座って」
女は指を刺し、目の前に乱雑に置かれた椅子に座るよう促す。女自身も、転がっていた椅子を適当にあつらえ腰掛けた。
「じゃあ、全部は話せないけど教えてあげるよ」
「半年前くらいから、さっき君を襲ったみたいな獣——いわゆる霊獣って呼ばれてるやつが、この街にやたら出るようになってるんだ。本来なら、月に一回でも多い方なんだけどさ、ここ最近はほぼ毎日」
「それを片付けてるのが、私」
女は、じっとこちらを見つめ俺は思わず息を呑む。
その瞳から、目が離せなかった。
「それに、普通の人にはねあれ——見えないんだよ。見えるとしても、さっきみたいに命の危機に晒されている時くらい」
一拍、置いて女は言葉を続ける。
「……でも、君は最初から見えてた。少なくとも、君には才能がある。うん、それもすごいヤツがね」
「もし、覚悟があるなら一週間後ぐらいにここに来て。でも、来てもらう以上は、この案件に関わってもらうからね」
「……」
「……わかりました」
「それじゃあ、また今度会おうか。少年」
◇
気づけば俺は、見慣れたアパートの前に立っていた。
時計の針は、零時を指している。
シャワーを浴び、布団に着き目を閉じる。
瞼の裏に焼き付いて離れないのは、あの獣じゃない。最後に、俺を見たあの目だった。
何も出来なかった無力感、 逃げ出してしまった事への後悔を抱え、眠りに落ちていく。
次の日も、その次の日も、いつも通り起きて寝ての繰り返し。たまに部活に顔を出して家に帰る。
変わらない日常。
その中に生まれた変化。
夜道や物陰、暗い場所まで。何もいない場所のはずなのに目を向けてしまう。
——いるわけがないだろう。
そう思いながらも視線をそらすことは出来なかった。まるで、知ってしまった事への罰のように。
もしかしたら、今もあの獣に襲われている人がいるかもしれない。
そこから先を、考えたくなかった。
いくら過去を悔いたとしても、死んだ者は帰ってこない。
あの時、一歩踏み出せなかった、その事実だけが、ずっと胸の奥に引っかかっている。
俺の覚悟……考えても答えは出ない。
ただ一つ、確かなことがあるとすれば、知らなければよかったとは、思えなかったことだ。
気付けば、一週間が経っていた。
俺は、彼女が指定した住所へ赴いた。
そこは、西区の一番端。
不気味な雰囲気を醸し出す廃ビル。
それでも、俺はドアを開け、足を踏み入れた。
「来たんだ、ちゃんと」
「わっ」
背後から声が聞こえ思わず身を反らす。
「驚きすぎ、そんな警戒しなくても取って食ったりなんかしないよ」
彼女はクスリと笑う。
「でも、正直来るとは思ってなかったよ」
少し間を空け、彼女は話を続ける。
「それで、覚悟は決まった?」
思わず視線を逸らしてしまう。
「覚悟とか、そういうのはよく分かりません。……でももう、あんなの見て何もできないままなのは嫌なんです」
そうだ、今まで逃げ続けてきた人生だったからこそあの出来事は鮮烈だった。悔しさ、恐怖はもちろんある。それでも女は言った。
『君には才能がある。』、と。
顔を上げ、彼女の目を見る。
こんな俺にも、できることがあるのなら。誰かを助けることができるのなら、こんな俺が誰かの役に立てるのなら、喜んで手を差し出せる。
「あれを見て、今まで通りに過ごすなんてできない。俺にできることがあるのなら、この件に関わらせてください!」
一瞬の沈黙が流れ、彼女は口を開けた。
「合格。君、もう一般人には戻れないからね」
「構いません」
寂れたビルに決意が刻まれる。
「君、名前は」
「俺の名前は、東雲 楓です」
僅かに笑みを浮かべ、彼女は告げる。
「いい名前だ、私は御門 玲奈。君が関わることになる魔術師だ」
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